黒田神社 (藤井寺市北條町)


河内国志紀郡
大阪湾藤井寺市北條町1-23
(境内に広い駐車スペース有り)

■延喜式神名帳
黒田神社の比定社

■旧社格
村社

■祭神
天御中主大神
天照皇大神
武甕槌神
經津主神
天児屋根命
比咩大神


「大和川」に「石川」が合流する左岸、要衝に鎮座する社。かつて河内国府があったとされる地。北側に合流した「大和川」が西へ流れますが、これは江戸時代に付け替えが行われたことによるもの。かつては北方へ流れていました。
◎創建年代、由緒ともに不祥。社伝によると、「神武天皇の御子 神八井耳命のかくし廟所といわれ仁徳天皇の御代に瑞垣を建立し奉祀された」と。また「現在の御祭神は称徳天皇神護景雲二年(768年)奉祀され…」とされます。
仁徳天皇の御代に瑞垣が拵えられるというのは疑問であるものの、当時に磐境などの仮説祭場が設けられたということでしょうか。
◎先ず神八井耳命とは記紀によると、神武天皇と姫蹈鞴五十鈴媛命との間に生まれた皇子で、綏靖天皇(神渟川耳命)の同母兄とあります。また異母(吾平津媛)兄弟として手研耳命(タギシミミノミコト)がいたとあります。手研耳命は皇位簒奪を狙い神八井耳命と神渟川耳命に反逆を起こそうとし、誅されたとあります。
以上にはいくつか問題点があります。記には神八井耳命の同母兄として彦八井耳命が記されます。紀には登場せず。ところが「新撰姓氏録」には、彦八井耳命が神八井耳命の子として記されます。また神武天皇皇后である姫蹈鞴五十鈴媛命は、手研耳命の妻でもあります。「皇胤志」(中田憲信氏)には神八井耳命が手研耳命の同母弟としています。記には手研耳命(多芸志耳命)の弟として岐須美美命が記されますが、仮に「皇胤志」の記述を信用するなら、「神八井耳命=岐須美美命」となります。この辺の真相を探るのは困難といったところかと思います。
◎神八井耳命の後裔氏族の一つに多氏が挙げられます。紀には多臣を挙げ、記には意富臣(多臣)の他に多数の氏族を列記。また「新撰姓氏録」には「河内国 皇別 志紀県主 多朝臣同祖 神八井耳命之後也」、「河内国 皇別 志紀首 多朝臣同祖 神八井耳命之後也」とあります。
◎多氏は大和国十市郡の式内名神大社 多坐弥志理都比古神社を総氏神とする氏族。最古級の氏族であり、後裔は全国的に分出しています。
◎当社よりわずか100m余り南側には志貴縣主神社(現在記事改定作業中、リンクには飛びません)が鎮座。そちらは河内国の総社でもあり、志貴縣主たちの氏神とされる式内大社。社伝から類推されるのは、当社も同様に志貴縣主(志紀県主)が奉斎した社ではないかということ。
◎「式内社の研究」において志賀剛氏は、式内社 は条里制の一坪(一町歩)を占めているとし、周辺の式内社と半里を隔てるという原則があるとしています。
かつての神域を察するに、くっ付くほどに隣接していたのではないかと。両社ともに式内比定に異論はみられず、またともに遷座歴がみられないことから、これは何か特殊な事情があるのでしょうか。奥宮・里宮の関係であった可能性もあるかと。社伝に言う「神八井耳命のかくし廟所」というのが、真偽はともかく何らかの伝承を含んでいるのかもしれません。

◎記に志貴縣主にまつわる記述がみえます。

━━雄略天皇が生駒山を越え日下(くさか)へ行幸した際に、山の上から国内をご覧になると屋根に鰹木を付けた志貴大縣主の大きな屋敷が見えたので、天皇の屋敷に似せて造っていると怒り焼き払おうとした。志貴縣主は献上品を奉って詫びたので天皇は焼くのを止めた━━(大意)

不可解な記述ではあるものの、志貴縣主が天皇を怒らせるほどの豪邸に住み、またそれほどの権勢があったことが窺えます。
◎志紀県主(志貴県主)の出自については別説があり、大和国「志貴(磯城)(後に城上郡と城下郡となる)を氏地とした志貴氏(磯城氏、師木氏)と同族ではないかというものも。

「河内名所図絵」では志貴縣主神社のご祭神を「磯城縣主黒速」としています。この神名は神武東征神話に登場する弟磯城(オトシキ)のこと。大和盆地の南西部、いわゆる「志貴(磯城)」地方を支配していた有力氏族で、大和入りを図った際に立ち向かったのが兄磯城(エシキ)、神武軍につき大和平定に大きく寄与したのが弟磯城。以降は志貴氏から次々と歴代天皇に妃が迎え入れられます。崇神天皇の「磯城瑞籬宮」(志貴御縣坐神社境内)に営まれました。

◎この志貴氏(磯城氏、師木氏)が当地へ移住、雄略天皇の御代に天皇家に匹敵するほどの権勢を有していたのも頷けるものかと。また当社名の「黒田」は「黒速」に関連が想起されます。

神武東征以前より大和に根を下ろしていたとするならば、想定されるのが物部氏の後裔ではないかと。物部氏がある衰退したため、神八井耳命に系譜を仮託したのではないかとも考えています。従って当社の原始に於いては、饒速日命を祀っていた可能性があると考える次第。
ただしこれに関しては、神八井耳命裔と物部氏系の2系統あると見る説もあり、意見の分かれるところ。

◎事実上の創建は称徳天皇神護景雲二年(768年)ということになるのでしょうか。既に志紀県主は衰退しており、春日神が勧請されたものと思われます。また中世には「天王」と称していたとされ、これは牛頭天王を祀っていたということになるのでしょうか。さらに江戸時代には「北條天神」となっていたようです。
◎明治には志疑神社(現在記事改定作業中、リンクには飛びません)を合祀。柏原市今町に鎮座していた塩殿神社に分霊し、柏原黒田神社と改称したと伝わります。


車は左端に写っているところに。日陰に停めるために樹下に寄せていますが、20台以上停められる広いものです。






以下、境内社を。






*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。