高角神社 (高見山山頂)
(たかすみじんじゃ)
大和国吉野郡
奈良県吉野郡東吉野村平野241
(登拝、アクセス記事は→こちら)
■延喜式神名帳
(宇陀郡) 高角神社 二座 鍬靫 の論社
■祭神
高見明神
標高1248.4mの「高見山」山頂に鎮座する社。大和国吉野郡(現在の東吉野村)と伊勢国飯高郡(現在の三重県松阪市飯高町舟戸)の境に山頂があります。
◎創建由緒等については諸説あり、それは社名の訓み方やご祭神、式内社比定に関しても及びます。
◎「神社覈録」は当社を「式内社 高角神社 二座」に宛てています。「多可都農(たかつの)」と称するとし、ご祭神は不詳と。二座のうち一座は麓に鎮座するとし、共に水分社と称するとしています。そして「大和志」を引用し「高見旧名高角繭」と、当地がかつては宇陀郡であったかのような記述を。「麓の水分社」とは平野水分神社のこと。「高角繭」は「たかすみ」ということでしょうか。
ところが当地を宇陀郡とするのは、無理があるというのが一般的な解釈。事実「宇陀郡」の郡域と想定される東南端からは、5km以上も離れています。「式内調査報告」はばっさりと切り捨てています。
◎万葉集(巻一)に「吾妹子 いざ見の山を 高みかも 大和の見えぬ 国遠みかも」(石上麻呂)とあります。「わが妻をさあ見ようという いざ見の山は名ばかりで、高々とそびえているからか 大和は見えないことだ。いやこれも国遠く旅してきたからか」(訳は「奈良県広報広聴課」HPより)。この「いざ見の山」を「高見山」とする説が有力。
◎この歌には「大和は見えない」とあります。麓からは否が応でも目に入る「高見山」。ところが山からは「大和は見えない」と。
当社を神武東征ゆかりの社とする説があります。兄猾(エウカシ)を誅しいよいよ大和入りを目論んだ際に、敵軍情勢を知る上で「国見」をし登ったという「高倉山」の候補地の一つ。
これは紀のみに見え、「天皇陟彼菟田高倉山之嶺」と(「陟」は登るの意)。「嶺」とあるからには山頂であろうと思いますが、山頂からは「国見」ができないのです。また宇陀からは離れていることから、「高倉山」とするにはかなり難があると考えます。ただし当山を登った可能性は否定できませんが。
◎創建については景行天皇の御代、瀬織津姫命と天照皇大神が「高木山」に勧請され、後に春日大明神・八幡大神・蔵王権現を合祀し、「高木五社」としたと。「高木」が「高見」に転訛したということでしょうか。景行天皇の御代というのが今一つ信頼性に欠けそうに思います。
◎「高見山」は上述のように大和国と伊勢国の国境が山頂。当山を源流として大和国側には「吉野川」、伊勢国側には「櫛田川」が流れるという、いわゆる「分水嶺」。これはちょうど「中央構造線」の構造谷。
◎一方で神武東征時に先導したとされる、八咫烏の化身である建角身命とする説も。これは東征伝承からもたらされたものでしょうか。
一部に蘇我入鹿の首が飛来しそれを祀っているというものも。これはもちろん後世の付会ですが、杉谷地区からの登拝ルートには首塚があるようです。





