慈愛のキャッチボール──ポーランド孤児を救った日本の物語
ライアン鈴木のYouTubeから思い出した「ポーランド孤児の物語」
時々見ているYouTubeチャンネルのひとつに、「ライアン鈴木の英語エンタメチャンネル」があります。
世界各国での「一期一会」の出会いをテーマに、英語を使って人とつながる様子を紹介しているチャンネルです。
25歳から英語を勉強し始めたそうですが、今では外国人からアメリカ出身と間違えられるほどの流暢さ。
福島出身の純粋な日本人で、「YESチャレンジ」をモットーに、異文化交流や英語学習の楽しさを伝えています。とにかくインタビューの受けが良く、相手の心を自然に開かせるその姿勢は、見ていてとても心地よいものです。
とにかく彼は女性にモテモテです。彼のようにサラッと初対面の方にたいしてもいい雰囲気で会話したいものです。
さて、そんな彼の最近の動画の舞台はポーランドでした。とにかくポ—ランドの方々は親日的で、多くの人が日本に興味を持っています。アニメや日本食などが人気の理由ですが、ある女性へのインタビューで、もうひとつの理由が語られていました。
それは、昔日本人がポーランドの子供たちを救ってくれたという出来事。
時が経っても、その記憶はポーランドの人々の間で語り継がれていたのです。
トルコが親日国である理由のひとつに「エルトゥルル号事件」がありますが、実はポーランドにも似たような歴史があったのです。
その動画を見て、
「あっ!」
と、過去にブログに書いたあの出来事を思い出しました。
2012年に書いた記事ですが、世界情勢は大きく変わり、今はさらに不安定な状況です。
だからこそ、もう一度この話を紹介したいと思います。
記事に書かれているような“慈愛のキャッチボール”があれば、世界はもっと平和になるのではないでしょうか。
以前は前編・後編に分けてアップしましたが、今回は一気にまとめてご紹介します。(追記、写真なども増やしリライトしました)。
さて、いつものようにマクラが長くなりましたがここからが本編になります。長い内容になりますが、ご興味のある方はぜひ最後までお読みください。
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第1章:ポーランドの歴史と孤児たちの危機
1919年、念願の独立を果たしたポーランド。
しかし、ロシア革命後の混乱の中、シベリアには祖国に帰れない10数万人のポーランド人が取り残されていました。
中でも親を失った孤児たちは、行き場もなく、命の危機にさらされていたのです。

ポーランド救済委員会は欧米諸国に援助を求めましたが、どの国も冷たく、手を差し伸べてくれる国はありませんでした。
そんな中、ある委員がこう語りました。
「私の叔父は日露戦争で日本軍の捕虜になったが、日本人にとても親切にされた。そんな日本人なら、きっと助けてくれるかもしれない…」
最後の望みとして日本に援助を要請したところ、唯一
「手を貸そう」
と応じたのが大正時代の日本でした。

なんと、要請からわずか17日で救出活動が開始されたのです。
このスピード感、いまの政府に見習ってほしいものです。
第2章:日本国内での献身的な支援
救出活動は3年近くにわたって行われ、合計765名の孤児たちをシベリアから救出したのです。

ただ救出された765名の孤児たちは、伝染病や飢餓で衰弱していました。

日本国内の施設では、看護師たちがつきっきりで看病にあたり、中には腸チフスに感染して殉職された方もいたといいます。

(殉職した松澤フミさん、享年20歳)

このニュースは日本中に広まり、多くの人々が慰問品やお菓子、人形などを届けました。

歯科治療や散髪、音楽会の開催、寄付など、支援の輪は全国に広がりました。
貞明皇后も孤児たちを訪問し、優しく抱きしめられたことは、子どもたちの心に深く刻まれました。
「どんなに優しくされても心細かった時、貞明皇后に抱きしめてもらったことが忘れられません」
第3章:別れと感謝の言葉
横浜港から、ポーランドに向けて出発する際、幼い孤児たちは、親身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、乗船することを泣いて嫌がったそうです。
見送る医師、看護師、近所の人々の首にしがみつき、泣いて離れようとしませんでした。
別れを惜しみながらも、孤児たちは精一杯の感謝の気持ちをこめて波止場に並んで、
「アリガトウ」
「アリガトウ」
を繰り返し、滞在中に覚えた、「君が代」を歌いました。

同様に神戸港からの出発も、子供たち一人ひとりにバナナと記念の菓子が配られ、大勢の見送りの人たちは子供たちの幸せを祈りながら、船が見えなくなるまで手を振っていたと伝えられています。親身になって世話をしてくれた日本人たちは、孤児たちの父となり母となっていたからでしょう。
ポーランドから日本に大量の感謝の手紙が届きました。
- 「日本は、わがポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。にもかかわらず、わが不運なるポーランドの児童に、かくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表してくれた以上、われわれポーランド人は肝に銘じて、その恩を忘れることは無い。ポーランド国民もまた、高尚な国民であるが故に、われわれは、いつまでも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。ここにポーランド国民は日本に対し、もっとも深い尊敬、もっとも深い感恩、もっとも温かき友情、愛情を持っていることを、お伝えしたい。」
第4章:イエジ少年と奇跡のエピソード
さてこの話には続きがあり、
こうして祖国に戻った孤児たちの中に、イエジ・ストシャウコフスキ少年がいました。彼がが17歳になった1928年、シベリア孤児の組織「極東青年会」を組織し、自ら会長となりました。「極東青年会」はポーランドと日本の親睦を主な目的とし、組織の活動を通して日本文化のすばらしさをポーランドに紹介していきました。
時がたち、ドイツのポーランド進攻が始まるとこの青年団はイエジキ部隊として多くの同胞が集まりレジスタンス活動を行いました。
イエジキ部隊には孤児院という格好の隠れ蓑がありましたが、そこにナチスドイツの強制捜査の手が入ります。
しかし、急報を受けて駆けつけた日本大使館の書記官は、
「ここは日本帝国大使館が保護している孤児院である。同盟国のドイツ軍といえども勝手な捜査は認められない」
として突っぱね、イエジキ部隊長に向かって
「このドイツ人たちに日本の歌を聞かせてやってくれないか」
と頼みました。
するとみな日本語で
「君が代」「愛国行進曲」
を合唱してみせたのでした。
あっけにとられたドイツ兵たちは、
「大変失礼しました・・・」
と言って直ちに引き揚げました。
まったく奇跡のような歴史のつながりです。
このイエジキ部隊の徹底の抵抗も長くは続かず、またイエジさん自身も再度シベア送りとなってしまいます。
しかしまた過酷なシベリア生活を生き抜き、76歳で念願の訪日を果たしました。訪日した彼はかつて過ごした宿舎の後やゆかりの地を訪れ、救出当時の関係者などと再会し、積もる話をしたそうです。
そのうちに、感極まって思い出したように
「もしもしかめよ かめさんよ 世界のうちで おまえほど・・・」
昔覚えた日本の歌を歌い始めました。
日本語で最後まで歌いきったイエジさんは、感情のたかぶったまま
(左がイエジさん)
- 「私はシベリアの孤児として、61年ぶりに皆様にお会いできたことを大変うれしく思います。私の仲間の誰もが、ここでこうして感謝の言葉を述べたかったにちがいありません。私は今ここで、かつての仲間の分も一緒にお礼の言葉をさしていただきます。本当にありがとうございました」
と、大粒の涙を拭こうともせずに感謝の言葉を伝えていたそうです。
また、日本で救済された孤児のなかには、ドイツ軍の占領下でユダヤ系ポーランド人の男の子をかくまって育て、後日イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤゾ・バシエム賞)を授与された孤児もいたそうです。
第5章:阪神大震災とポーランドの恩返し
さらにこの連鎖は数十年の時を超えても続き、平成7年の阪神大震災のとき、真っ先に被災者の救済に飛んできてくれたのは、ポーランドの人たちでした。
そしてポーランドの人たちは、その大震災のあと、孤児となった子供たちをポーランドのワルシャワに招いて激励会を開いてくれたのです。
それを企画をしたのは、日本のポーランド大使館に勤務していたフィリペック博士。
博士は、かつて日本がシベリアのポーランド人孤児たちをたくさん救ってくれたことを、知っていました。
彼が小さかった頃におばあさんから、日本人がポーランド人捕虜(日露戦争時ポーランドはロシアの支配下にあった)を親切に扱ったことや、大勢のポーランド孤児をシベリアから救出したことを語って聞かせていたようです。
これが機縁となって、博士は日本語を学び(東京工業大学にも留学経験があったようです)、両国の友好のために働こうと決意したといいます。
そして、
「いつかポーランド人として、この恩返しをしたい」
と心に念じていたのだそうです。
こうしてポーランドと日本の間にも、慈愛のキャッチボールが行なわれました。
ポーランドでの歓待の最終日、日本の震災孤児が帰国するお別れの会に、ポーランドのかつて孤児だった4人の老婦人が訪れました。この老婦人たちは、日本の被災孤児たちに、自分たちが日本に親切にしてもらったことを切々と語り、涙を流しながら、孤児一人一人に薔薇の花を手渡し、
「これで恩返しができた」
と語ったそうです。
*いやぁ~いい話です。自分でリライトしていてウルウルしてきちゃいました。
第6章:天皇皇后両陛下の訪問とリロさんの言葉
そして平成14年には天皇・皇后両陛下がポーランドに訪れ、シベリア孤児にお会いになられています。

孤児の生存者のひとり、アントニーナ・リロさんは既に85歳になっており、自分ひとりでは、とても孤児たち全員の感謝の思いを伝えきれないと恐縮しつつも
「それが私に出来る唯一のことだから」
と天皇皇后両陛下に謁見しました。リロさんは平成18年に
「日本は天国のようなところだった」
という言葉を遺して90歳の生涯を閉じています。
第7章:中国でのもうひとつの美談
ポーランドとは関係ありませんが、もう一つのお話。
あるテレビ番組で紹介されたのは、中国で記憶を失った日本兵を、農家の家族が親子三代にわたって養い続け、半世紀後に祖国へ帰国させたという話です。
貧しい生活の中、病院代も捻出し、教師になれないなどの苦難を受けながらも、日本兵を見捨てることなく、人間として接し続けたその姿勢は、並大抵のことではありません。
第8章:慈愛のキャッチボールが未来をつくる
日本人が知らない美談は、世界にまだまだたくさんあります。
教科書にも載っていないし、試験にも出ないかもしれません。
でも、こうした話こそが、私たちの心を育て、未来を照らす灯になるのではないでしょうか。
日本は今でも、世界のさまざまな場所で貢献しているはずです。
報道されていない、教えられていない日本人の活躍もあるでしょう。
そして逆に、日本が助けられたことも、世界のあちこちにあるはずです。
第9章:争いのない未来のために
人間は、仏のような優しさを持つ一方で、時として鬼にもなり得ます。
だからこそ、心の平和を保つことが、何よりも大切なのではないでしょうか。
日本が世界から比較的好感を持たれているのは、こうした先人たちの心温まる行動の積み重ねがあるからこそ。
そのことに感謝しつつ、私たち現代人が忘れかけている「和の心」「敬う心」「感謝の心」を、もう一度見つめ直す必要があるのかもしれません。
今の世の中、人道的な見地に立ち、気骨のある人間が少なくなってきているように感じるのは、私自身も含めてのことです。
真実を見つめ、反省すべき点は反省し、良い点は学び、忘れかけた大切な心を取り戻す——
それが、平和な未来へ向かう第一歩なのではないでしょうか。
本来、国と国、人と人がこのような“慈愛のキャッチボール”を続けていれば、争いなど起こらないはずです。
心と体のバランスが崩れると病気になるように、国際社会でもキャッチボールのバランスが崩れると、暴動や戦争が起こってしまうのかもしれません。
どこの国でも、何も知らない子どもたちが、最終的には大人の起こしたことで犠牲になるのです。
だからこそ、未来に不幸を残さないために、私たちはこの“慈愛のキャッチボール”を絶やさず続けていかなければならないのです。
おわりに:知られざる日本の美談を知るために
今回紹介したような話は、四條たか子さんの著書
『世界が愛した日本』にも詳しく紹介されています。
日本人が知らない、でも世界が感動した美談がたくさん詰まっています。
機会があれば、ぜひ手に取ってみてください。
そして、皆さんの心の中にも、次のキャッチボールのボールを投げる準備があることを、思い出していただければ嬉しいです。
参考文献:四条たか子『世界が愛した日本』竹書房
(画像すべてお借りしました)
(おまけ)
人道の港 敦賀ムゼウム
敦賀ムゼウムという施設には今回の件(ポーランド孤児の話)などが展示されているようです。







