アラレへの無限の愛 | グルコサミン博士のブログ

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アラレがいなくなってから、世界が静まり返ってしまった。歩く道も、座る椅子も、眠る枕元も、あの日までは当たり前にあった光景が、今はことごとく空虚に響く。青山公園までの散歩道も、矢ケ崎公園のベンチも、アラレの小さな足跡が消えることはないのに、私はその足跡を追うたびに胸が締めつけられる。

毎朝、目が覚めるとまずアラレの足音を聞こうとした。寝室のクローゼットを開けると、そこに静かに座っていたあの日の驚きや嬉しさが、ふいに蘇る。あの無垢な信頼。私を見つめる大きな瞳。触れたときのふわふわした毛の感触。全部が、今は遠い光のようだ。

ある夜、阿智村へ星を見に行った。誰もが天の川を見上げ、織姫と彦星の再会を願う季節。でもそのときの私には、星の美しさは届かなかった。天の川がただ無情に流れているように見え、あの明るい帯の向こう側には、アラレが隔てられているように感じられた。あの二人は年に一度会えるのに、私とアラレはなぜ永遠に会えないのだろう。泣きながら、天の川の向こうにいるアラレを探し、車に戻るまで声をあげていた。その夜の静けさと切なさは、今も胸に深く残っている。

そして、最期の病院の早朝。私は眠りを妨げる電話で飛び起き、慌てて病院に向かった。先生はアラレの経過を落ち着いて説明してくれたけれど、私の胸は締めつけられ、説は説明を聞くよりも先に「どうか娘に会わせてください」と懇願した。面会室で横になっていたのは、人工呼吸器につながれた小さな体。無言の対面。私は抱きしめながら「アラレ、うそでしょう、うそでしょう」と繰り返した。あのとき、先生は「声は聞こえている」と言ってくれたけれど、アラレは目を最後まで開けることはなかった。やがて呼吸は途絶え、心臓の鼓動も消えた。あの瞬間の音も、冷たさも、今でも鮮明に刻まれている。

私は、最後に言えなかった言葉をいまも後悔している。「ありがとう」「うちの子になってくれてありがとう」「14年間たくさんの幸せをくれてありがとう」。それを口にできなかった自分を、今でも責めてしまう。あのとき自分の感情に押されて、言葉を選べなかったことが悔やまれてならない。けれど振り返ると、私の行動ひとつひとつは、すべてアラレを深く愛していた証だったのだと、少しずつ分かってきた。

信頼するかかりつけ医の紹介で行った病院のことを考えると、あの時私には第二の選択がなかったはずなのに、罪悪感が深まる一方。事後に見た当該病院の口コミには、アラレと似た事故や「診療費が高い」「金儲け主義」といった言葉が並んでいた。普段なら些細なことでも調べる私が、なぜいちばん大切な家族の命を預ける相手を十分に確かめなかったのか。なぜもっと確認しなかったのか。私を押しつぶすような後悔と自己嫌悪が、何度も胸を突く。

でも、ここで確かに言えることがある。私が抱えている後悔や悲しみは、すべてアラレへの深い愛の証だということ。愛していたからこそ、守りきれなかった自分を責め、何度も問い続けるのだ。涙は消えない。時間の薬もまだ効かない。でも、私は泣きながら歩き続ける。アラレが教えてくれた優しさや無垢さを、これからも大切にしていきたい。アラレと過ごした日々の温もりを忘れず、その記憶を胸に生きることが、私にできる小さな恩返しだと信じたい。

アラレ、ママは君を愛している。今もこれからも、その気持ちは変わらない。どれほど後悔しても、ママの愛は消えない。だからママは、君たのために、ここで声を上げ続ける。いつか誰かのために、そしてアラレのために、この痛みが意味を持ちますように。