私は愛犬アラレの死に関わる問題で、動物病院を相手に本人訴訟を経験しました。
この事件では、病院の対応に納得がいかず、真実を明らかにするために訴訟を起こしたものの、最終的には裁判所から半ば強制的に和解を迫られました。
この文章では、裁判と和解の経過、当時の心理、そしてその後の私の思いについて整理して書きます。
裁判における和解は、判決によらず当事者同士が合意して争いを終結させる手続きです。
制度上は双方の歩み寄りによる円満解決とされますが、現実には当事者の心理や裁判所の判断、
判決の見通しなどが複雑に絡みます。私の経験では、この理想と現実の差を強く感じました。
私は一度和解を拒否し、公正な判決を求めました。
その時点では、裁判所を信頼していました。立証も十分に進め、希望がありました。
まさか敗訴になるとは思っていませんでした。
そもそも裁判を起こした目的はお金のためではなく、病院の不誠実な対応を明らかにし、
真実を示すことで、不幸な命の喪失を少しでも減らすことにありました。
裁判中、日常生活にも影響が出ました。
裁判の手続きや資料準備に多くの時間と心を割き、精神的負担は積み重なりました。
しかし、希望があったため、葛藤はそれほど強くありませんでした。
まさか敗訴になるとは思っていなかったので、裁判が長くなってもかまわないと考えていました。
逆に、裁判所の方は早く終わらせたい印象で、その温度差は非常に大きく感じました。
口頭弁論の最終段階で、裁判所から「敗訴の見込みであるので、もう一度和解するのか検討しなさい」と半ば強制的に告げられました。
このとき、私はこの和解は裁判所に強いられたものであると認識しました。
同様の事例が口コミで多数報告されていた病院であり、裁判所の判断は事実上「やりたい放題を許す」ような印象を受けました。
そのため、納得できない気持ちは非常に強く、無力感と失望が押し寄せました。
さらに、担当裁判官が高裁に異動したこともあり、上訴しても不利になる可能性が高いことを理解しました。
結果として、仕方なく和解を受け入れるに至り、納得のいかない妥協を受けるしか道がありませんでした。
和解を受け入れる直前の心境は、無力感と納得できない思いで満ちていました。
正義や真実を求める気持ちは変わらず、制度の制約の前に自分の希望は届かないことを痛感しました。
同時に、精神を守るために現実を受け入れざるを得ないという複雑な感覚もありました。
裁判では、私は一市民として微小で無力でした。
だからこそ、真実や思いを残すために、今もこうしてnoteで書き続けています。
制度の壁に阻まれ、届かない現実を前にしても、声を上げ続けることには意味があると思うからです。
私は今でも、愛犬アラレに向かって毎日お香を焚きながら話しかけています。
「君は日本で生まれて仕方がない。ヨーロッパだったら、ママが勝ったかもしれません。
でもアラレのためにママは力を尽くしました」と。
お香の煙とともに心の中でその言葉を繰り返すことで、裁判で届かなかった思いをアラレに伝え、少しでも慰めを得ています。
和解や制度の冷たさの中で、愛犬への思いだけは守り続けることができたと感じています。
この経験を通じ、私は「和解とは何か」という問いを、単なる制度上の概念としてではなく、当事者の心理的体験と切り離せないものとして理解するようになりました。
和解は、制度的には合理的でありながら、当事者にとっては強いられた終結や不本意な妥協を伴う場合があります。
その両面を冷静に捉えることが、和解という制度を理解する鍵だといえます。

