泯さんの踊りを見た後、
泯さんの山梨県の山村の「身体気象農場」でつくられた
お芋などのお野菜を頂いたことがある。
あの踊りを踊る身体をつくる野良仕事から育った土の匂いのする野菜。
友人たちとカレーなどを作って、ありがたく美味しくいただいた。
泯さんは、1984年、85年、86年とチェコに招かれて踊っているが、
その時代は、共産党のグスターフ・フサーク政権時代のことだったのだ。
1968年、西側の北大西洋条約機構(NATO)に対抗してソ連がつくったワルシャワ条約機構軍によってチェコソロバキアの首都プラハに侵攻され、” 人間の顔をした社会主義”を目指す革命運動・プラハの春が潰された。
そして、1989年のベルリンの壁崩壊から雪崩のようにチェコスロヴァキアに民主化運動が波及したのだ。
体制維持のための弾圧・検挙の対象になっていた反体制派の後に革命を起こした人々が、泯さんをプラハに呼んだのだという。
この人々とは、もしかすると反体制運動の指導者で何度も投獄されたという劇作家のヴァーツラフ・ハヴェル氏のグループなのかもしれない。
のちのハヴェル大統領。
チェコスロバキア大統領、チェコ共和国初代大統領だ。
この時の体験は、釜山国際映画祭での
犬童一心監督作『名付けようのない踊り』の世界初上映後の泯さんのトークで、「ほんとうに逃げ出したくなるような記憶が一つあります。」と語られている。
この時期、日本からこのような招きを受けた芸術家が他にいただろうか。
「子供らしさを共存させて生きること(私のこども)」
「心がふくれあがるような瞬間を大切にする」
〜田中泯
映画『名付けようのない踊り』予告
イントロダクション
https://happinet-phantom.com/unnameable-dance/#intro
2022年10月8日 釜山国際映画祭 田中泯による上映後トーク
https://cinefil.tokyo/_ct/17487254
引用
釜山国際映画祭Q&Aレポート
Q&A日時:10月8日(金)14:55~15:35
会場:韓国・釜山
登壇ゲスト(敬称略):田中泯(76) ※東京からオンラインにて参加
今年の釜山国際映画祭は、コロナの影響により、観客の座席を1席から2席あけて実施。その空席には映画祭で上映される作品のポスターが数多く貼られ、色とりどりの映画ポスターに囲まれた環境の中でティーチインがスタートした。
Q:観客の皆様に一言ご挨拶をお願いします。
田中泯:みなさん、こんにちは。本当は、そちらまで行きたかったので残念ですが、そちらの様子はしっかり映っています。 本日は宜しくお願いします。
Q『メゾン・ド・ヒミコ』で田中泯さんを知り、調べた所、泯さんがダンサーである事を知りました。ダンス以外の俳優業・声の仕 事等で、どういったインスピレーションを得ていますか?
田中泯:初めて映画に出たのは57歳の時。 おそらくメゾン・ド・ヒミコに出演したのは59歳の時だと思います。それまで、自分がドラマや映画などで演技をすることは考えていなかった。踊りが自分の人生の仕事なので、自分ではない人になるというのは、貴重な体験です。「身体ごと他者を知る」という事は、願ってもいなかった、とても大切な仕事。お芝居をする事が、すごく踊りに影響をし ていると思います。
Q:泯さんがどういった踊りをされているのか気になり、この映画を観るに至りました。鑑賞して、すごく驚きました。想像していた踊りよりも“濃い芸術”といった印象でとても長くダンサーをされていたことが、この映画から伝わりました。どういったきっかけでこの映画がつくられたのですか?
田中泯:ポルトガルの芸術祭から招待され、犬童監督に、ポルトガルに一緒に行きませんか?とお誘いしました。犬童監督が、せっかくだから記録したいという事で、撮影が始まりました。その時だけのつもりで撮影していたのですが、その後、短く編集したものを見せていただきながら、ひょっとしたら長編映画にできるのではないか、と監督からご提案いただき、色々な場所で撮影する流れになりました。当初から企画をした訳ではなかったのですが、犬童監督は、途中から映画化するという事を、強く意識し始めたのだと思います。このような形で出来上がって、私は光栄です。
Q:私は、田中さんの大ファンでもあり、『サバハ』を監督したチャン・ジェヒョンです! 踊りというものは、いつはじまって、いつ終わるのですか?
田中泯:短く答えると、生まれた時から踊りは始まっています。私たちが自意識を持ち始めるのは3歳、4歳だと思いますが、それ以前の子供たちは言葉を持たずに、身体を動かして生きています。そこから踊りが続いていると思うし、私は踊り手として、そう思いたい。
確かに「踊り」は、踊りはじめの時間と、終わりの時間を想定しなければなりません。 私自身は踊っているときの自分が一番好きですし、本当は、ずっとそのまま生きられたら幸せだと思うのですが、お祭りなどと同じように、終わりはくる。でも私は、心の中では、はじまりも終わりもなく、踊っていると言えます。したがって、私にとっての踊りは、時間を切り取った作品としては成立しないのです。「現在」の私の踊りに、自分の「過去」や「未来」が入ってくるものだと思っています。
上記の答えに対し、チャン・ジェヒョン監督は
「素敵な回答、ありがとうございました。いつか一緒に、泯さんが育てた野菜を食べながら、楽しい時間を過ごしてみたいです。
コロナが収束したら、韓国でも公演が開催される事を期待しています。」と答えた。
Q:世界各国で踊りを踊られてきたのだと思うのですが、一番印象に残っている踊りはありますか?**
田中泯:一番、二番とつけるのは、あまり好きではないのですが、ほんとうに逃げ出したくなるような記憶が一つあります。
それは、暗かった時代のチェコ、プラハに踊りに行った時のことです。社会主義の時代で、のちに革命を起こした方々に呼ばれて、 秘密裏に踊りに行きました。逃げる練習までして、即興で踊りを踊ったのですが、その時は本当に逃げたいと思いました。 もし秘密警察に知られたら、日本に帰れなくなるという不安もありました。ただその後、旧ソビエト、ポーランド、ハンガリー、ルーマニ アなど社会主義国を、毎年のように巡るようになり、凄く大事な勉強になりました。 私は、一番などと順位をつける質問が苦手です。踊りは比較するものではないと思っています。 また、韓国や農村地帯に行って踊りたい気持ちも強いです。
Q:映画を観て感銘を受けました。「踊りというのは踊り手と観客の間で新たに生まれるもの」とお話しされていたと思いますが、 踊りを見ている方のリアクションによって踊りは変わるのでしょうか?
また、踊りというのは現場の空気感が大事だと思うのですが、映画を観てどういう風に感じますか?
田中泯:この作品は、犬童監督が、現場の LIVE 感を大切にしながら制作したものです。映画の中で、私は違った空気、違った場所、違った人々の前で踊っていますが、そのまま映像にしてしまうと、現場の臨場感が伝わり辛く、踊りがもう一度、映像の中で生き返る事はできないと思いました。そこで犬童監督は、踊りを時系列にして見せるのではなく、踊りをしっかり見てもらえるように、 自由に編集してくださいました。 「踊りというのは踊り手と観客の間で新たに生まれるもの」だと思っていて、人間だけでなく、動物、草木や花も、私との関係の中で、 踊りを感じているはずです。つまり、命のコミュニケーションをしているわけです。私は踊りを、私が作った作品として持ち歩くつもりはありません。その場で生まれるものが踊りだと思っています。その為には、私の身体の外にある世界とコミュニケートすることが私の仕事だと思っています。
Q:そろそろお時間となりますので、観客の皆さんに、挨拶をお願いします。
田中泯:もっとお話ししたいですし、コミュニケ―トしたい気持ちに益々なっています。韓国はチャン監督やたくさんのお友達がいて、 本当はそちらに飛んでいきたい気持ちです。今日は皆さんありがとうございました。踊りを好きなっていただけたら幸せです。
終了時間となっても、観客からの質問の手はあがりつづけ、やむなく終了となったティーチイン。 釜山の観客、そして久々に再会をした『サバハ』の監督と、熱い想いを通わせ、盛況のうちに Q&A が終了した。