【加計の山林爆買い…二匹目のドジョウ❓】岡山種畜場の移転地(旧軍用地)自衛隊が高値で買い戻し❗️ | ☆Dancing the Dream ☆

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加計が、27億もの巨額で買った山林…
333700 平方メートル =100944.25 坪
東京ドーム、6.7個分。

岡山理科大学の北東部、
陸上自衛隊 三軒屋駐屯地に隣接する
岡山市北区「宿(しゅく)」から「原」にまたがる広大な土地だ。

「生態システム園」と名付けられたこの山林と
自然植物園の面積と合わせると、
阪神甲子園球場約14個分なのだそうだ。

三軒屋駐屯地は、旧・広島陸軍兵器補給廠 三軒屋填藥所の跡地で、
当時、ここには毒ガス弾が保管されていたことが、
環境省の調べ(2003年)で解っている。

旧日本軍の毒ガス弾は、進駐してきた米軍の監督下で行われたが、
監督の目を逃れたもの、米軍進駐前に隠匿したものもあった。
その方法は、おおむね埋設、海中投棄、焼却等であり、
しばしば米軍の投棄指定場所が侵犯されたことが、
残存資料に指摘されている。

つまり、この山林には、
旧日本軍の毒ガス弾が埋まっている可能性があるという事だ。

それにしても、なぜ、
加計はこんな土地を爆買いしたのか❓

この加計の山林爆買いの登記簿を発見された
加計追求チームのnemさんも仰るように、
自然観察のフィールドワークのためなら、
安値で借りても良いのだし、
加計がまとめ買う土地をなぜ細々と分筆したのか?

将来、駐屯地 拡張名目で、国が高値で買い取る❓」by nemさん





方墳? ピラミッド? 三軒屋弾薬支処の擬態…






将来、駐屯地 拡張名目で、国が高値で買い取る…

そうかもしれない…
思い出した…
半田山の旧軍地について調べていたときに、
知ったことだが、
昔、似たような事があったのだ。

過去に広島陸軍兵器補給兵廠三軒屋填薬所の土地には、
「岡山種畜場」が移転してきたが、
6年後に自衛隊が高値(1億9,000万)で買い戻している。

ひょっとして、これは、
二匹目のドジョウか❓

そう言えば、
二匹目のドジョウ方式は、国家戦略特区でも用いられた。
新しい学部を国家戦略特区で作るという和泉洋人のアイデアの
一匹目のドジョウは、千葉県成田市の国際医療福祉大学の医学部
二匹目のドジョウが、今治の岡山理科大学 獣医学部である。

ーーー

地元 広島から岡山に進出してきた加計学園の創設者・加計勉が、
半田山の土地、約15000坪を購入したのは、1960年のこと。

その地に設置された岡山理科大学に隣接して、
今も三軒屋弾薬支処を擁した陸上自衛隊 三軒屋駐屯地
(広島陸軍兵器補給兵廠三軒屋填薬所の跡地)がある。

戦前、半田山の丘陵地の
広島陸軍兵器補給兵廠三軒屋填薬所の土地は、
終戦後は、民主化、経済復興改革が進められ、
1949年、伊福町(京山)にあった県の「岡山種畜場」が
敵地として念願叶って入手した。


しかし、1955年、
わずか6年後に自衛隊によって、弾薬保管地として買い戻された。
アメリカ軍から移譲された弾薬を
保管する保管庫が必要になったという理由だった。

これは、いわゆる「逆コース」によるものだろう。
1950年、朝鮮戦争勃発によって、
日本の民主化・非軍事化は、逆行していった。
1954年には、防衛庁・自衛隊が創設された。
保安庁は防衛庁に、保安隊は陸上自衛隊に、
警備隊は海上自衛隊に改編されたほか、
旧陸軍航空関係者と旧海軍航空関係者によって、
アメリカ空軍の協力を得て航空自衛隊が創設された。(軍備増強)

※旧軍地に移転した折の「岡山種畜場」では、
旧弾薬倉庫を利用し、さつま芋などを貯蔵したというが、
その際、毒ガス弾は廃棄済みだったのか、
あるいは、旧軍の要請で遺された毒ガス弾を隠匿する意図が
あったのかどうかは解らない。

「岡山種畜場」は、自衛隊にこの土地を1億9,000万円で売り
1956年、県北の津山市の岡山県津山畜産農場に酪農関係の施設を移し
「岡山県酪農試験場」として新発足した。
これで、津山市は、岡山県酪農試験場、同養鶏試験場、同和牛試験場の
3試験場を設ける形となり、全県一の畜産関係試験場を設けることができた。

ーーー

◉岡山理科大学のある半田山には
戦後の農業政策による岡山種畜場があった…

岡山畜産便り (岡山県畜産協会) 昭和24年(1949年)11月
岡山種畜場移転の計画と現況

http://okayama.lin.gr.jp/tikusandayori/s2411/tks16.htm
〜 戦後農業施営の改善と立体農業への移行を提唱され,その経営組織に於ける1要素としてこの畜産は,大きく取り上げられ,酪農経営と水田地帯との結びつき,果樹園と養鶏,酪農との結びつきや又桑園と畜産との共同経営,山間部への酪農の進出等に対する問題が喧しく検討されるようになったのである。種畜場の経営も従来通りの種畜種禽の配付,種付や試験研究のみではなく,その全能力を発揮して従来の業務を更に拡充し,経済農場的色彩を付与し,経営の部面に於ても更に進んだ研究を行う為,永年の懸案であった移転をこの際一気に実施することになり,御津郡牧石村三軒屋の地をとし,その工事を開始したのである。
 今回の移転地は岡山市に隣接し,その用地の一部は市内に有り,半田山と三野公園の間を北に入った谷で,旧陸軍東射的場のあった処で面積約93町歩(山林約55町歩,宅地約6町歩,雑地約21町歩,道路約6町歩,池約5町歩)建物約3,400坪でありましてその他に国有林を約50町歩借り受けることになって居る。〜

戦後極度な食糧難と、混乱した社会の中に、
連合軍総司令部による民主化が進められ、
政治経済などすべての面で画期的な改革が行われた。
昭和22年(1947)4月,最初の公選知事が生まれ、
初代岡山県知事は、内務官僚・西岡広吉(山口県柳井市出身)が
1期4年務めた。
戦時中からの懸案事項であった手狭になっていた岡山市上伊福の種畜場
(明治37年(1904)御津郡伊島村上伊福/現・岡山市上伊福に設置)の
移転問題が、県議会で承認され、
御津郡牧石村三軒屋(現岡山市宿)に適地を求めた。
しかし、ここに英印軍が進駐したためにこの計画は一旦頓挫した。
昭和22年(1947)8月に英印軍が撤収したので、
昭和24年(1949)11月に念願の移転を完了した。



【岡山種畜場】位置は岡山市大字宿(旧御津郡牧石村宿)で,津山線法界院駅から東北約15町にある旧陸軍射的場の跡地で,半田山と三野公園の間を北に入ったところである(現自衛隊弾薬庫)。地積は表1-2-2の通り。
繋養家畜・家禽は,乳牛23頭(牡4頭),和牛1頭,馬2頭,豚28頭,山羊1頭,鶏830羽およびあひる15羽で,職員31名であった。
谷間のあちこちの山麓に厚さ2米近いコンクリートの壁に,内面リノリュームを張った立派な防空壕があった。

http://okayama.lin.gr.jp/tosyo/history/2-1-2-1-2.htm


陸自 三軒屋駐屯地


◉戦後、半田山に移転設置された岡山種畜場の目的
・教育に関連する事項
○畜産指導者並びに有畜農業経営(特に酪農に中心を置き)
中心人物の養成に画期的な努力を注ぐ。
○我が国農業の将来性に鑑み,水田酪農の経営,果樹園と畜産,
養蚕と畜産との結合等につき実地研究を進める。
○食生活の改善に大なる関係のある,畜産加工,貯蔵等の研究をして
農家の生活に直結した場とする。
場内の池沼, 水田を利用し淡水魚を養殖し,水禽類(水鳥)等の研究を行う。
・軍事に関する事項
旧弾薬倉庫を利用しキュアリング(食物の保存処理)による
甘藷(さつま芋)の貯蔵を行う。


**2018年08月12日(日)【加計と毒ガス弾と金❗️】
 無尽蔵な毒ガス弾処理利権が絡む地❗️千葉科学大の銚子606件更新中…


◉自衛隊が弾薬庫を必要とし半田山の土地買収❗️
岡山種畜場は津山市に移転

岡山種畜場は昭和24年(1949)11月に移転を完了したが、
ところが,その後 昭和30年(1955)に,
自衛隊がアメリカ軍から移譲された弾薬を保管するために,
場内にあった弾薬庫を必要として買収の申入れがあり,
1億9,000万円で移譲した。

これを資金として,昭和31年(1956)4月1日,
岡山県津山畜産農場に,乳牛その他の酪農関係の施設を移して,
岡山県酪農試験場として新発足した。
津山市に岡山県酪農試験場,同養鶏試験場,同和牛試験場の
3試験場が設ける形となった。
都道府県で畜産関係試験場を設けたのは,本県がはじめてであった。


http://www.pref.okayama.jp/uploaded/life/476476_3406344_misc.pdf


ーーーー

上掲の(岡山種畜場の目的)として挙げられた赤字の2点↓は、
気になるポイントだ。

場内の池沼, 水田を利用し淡水魚を養殖
↪︎加計学園は、海水魚を淡水で養殖することのできる
「好適環境水」を開発した山本俊政氏を引き抜いている。

 山本俊政︱TOSHIMASA YAMAMOTO
 岡山理科大学工学部バイオ・応用化学科准教授。
 1958年、岡山県生まれ。
 大手金属メーカー(三井金属)の総合研究所で
 基礎素材部門の研究開発に従事し、
 89年に水族館の水槽を設計・施行する会社を設立。
 2002年、岡山理科大学専門学校学科長を経て、同大学准教授に就任。
 05年にカクレクマノミの大量繁殖に成功し、
 国内初の海産観賞魚の繁殖センターを設立。
 独自開発した「好適環境水」を用いた
 完全閉鎖循環式魚類養殖技術の開発で世界的に注目されている。


旧弾薬倉庫を利用しキュアリング(食物の保存処理)による
甘藷(さつま芋)の貯蔵を行う。

↪︎広島陸軍兵器補給兵廠三軒屋填薬所は、毒ガス弾を隠し持っていた。
 旧弾薬倉庫に米進駐軍の廃棄監督を逃れた毒ガス弾が残存していたなら、
 作物の貯蔵庫としてカムフラージュし隠匿することはできる。
 岡山種畜場を当該地に誘致したのは、当時の岡山県知事(西岡広吉)。
 元・内務省官僚である。(内務省は国民精神総動員、翼賛体制の
 中枢組織としてGHQによって廃止された)

ーーー

加計がこの土地を農水省から買収するには、
それなりの名目が必要だろう。

加計孝太郎のメッセージ(↓)によると、
加計学園は草創期から、父・加計勉の思いを受け継いだ
「動物関連教育」への意思があるという。

岡山種畜場も敵地としたこの地を
「動物関連教育」に活かす、というような名目だろうか?



この加計勉の「動物関連教育」への思いというのは、
おそらく、岡山藩主、旧候爵池田家嫡男の池田隆政
(妻は昭和天皇の実子・今上天皇の実姉・厚子様/1952年10月に結婚)の
意思のパクリだろうと思われる。

池田隆政氏は、現在「林原美術館」となっている岡山市内山下の地で
池田産業動物園を設置し、
牛や豚、鶏などの家畜類を飼い牛乳づくりなどをしていた。
京山の「岡山種畜場」が、三軒屋に移転(1949)したのち、
池田隆政氏は、当該土地を林原に売却し、
結婚を機に京山(半田山の南西5.6km)の麓に
池田産業動物園を移転(1953年)し、
池田動物園」を開園(1960)した。
動物園には皇太子 美智子妃ご夫妻も訪れ大きな話題を呼んだ。




林原は、現在は経営破綻し2011年に会社更生法を申請し、
化学専門商社長瀬産業の完全子会社になっているが、
創立者の林原一郎は、終戦直後、「隠匿物資摘発」から除外された、
甘味料の元となる大量のデンプン原料を保有し、
これを強みに、急激に日本一の「水飴工場」に成長させ、
大活況であった。
池田隆政氏が、池田産業動物園の経営難から、
池田家所有の岡山城の内堀の売却を考え、市や県に当たったが、
市は買取を渋り、県には値切られた。
池田氏は一郎にも申し入れ、
一郎はこれを高値でポンと購入したのである。
(赤井克己 著『瀬戸内の経済人』より)

そして、
「池田動物園」が京山にオープンしたのと同じ年、
1960年、加計勉が広島から岡山に進出してきた。
原爆で焦土と化した広島をみた加計勉の目に映った「池田動物園」は、
戦後復興の明るい象徴であったかもしれない。