加計学園の理事のひとりであり、
加計隅屋24代当主 日新林業株式会社取締役社長 加計正弘。
加計正弘の祖父にあたる22 代 加計正文は、
帝国大学英文科において夏目漱石の教え子であり、
漱石の小説「それから」に登場する
主人公・長井代助の友人のモデルになっています。
◇ ◇
漱石は、1893年、帝国大学を卒業し、
英語教師になり、愛媛の中学校、熊本県の高等学校に赴任。
1900年文部省より英語教育法研究のため英国留学を命じられ渡英。
2年間の留学から帰国。
1903年から小泉八雲の後任として東京帝国大学の講師になり、
教職を辞して1907年に朝日新聞に入社。
職業作家として小説、随筆や評論を書くようになる。
そして、『三四郎』(1908年)『それから』(1909年)『門』(1910年)の
三部作を書くのですね。
『それから』の主人公の友人として、
加計正文をモデルに描かれた
但馬で林業を営む家の跡取り息子は、
親の命令で家業を継ぎ、親の勧める縁談、
京都の財産家から嫁を娶り、
子供を持ち、地元の町長になって、
世俗に流されていく者として描かれています。
こちら⬇︎が、その部分の抜粋です。
『それから』夏目漱石
青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/56143_50921.html
〜〜代助は但馬にいる友人から長い手紙を受取った。
この友人は学校を卒業すると、すぐ国へ帰ったぎり、
今日までついぞ東京へ出た事のない男であった。
当人は無論山の中で暮す気はなかったんだが、
親の命令で已やむを得ず、故郷に封じ込められてしまったのである。
それでも一年ばかりの間は、もう一返親父を説き付けて、
東京へ出る出ると云って、うるさい程手紙を寄こしたが、
この頃は漸く断念したと見えて、大した不平がましい訴えもしない様になった。
家は所の旧家で、先祖から持ち伝えた山林を年々伐きり出すのが、
重おもな用事になっているよしであった。–(略)–
友人は時々鮎あゆの乾したのや、柿の乾したのを送ってくれた。
代助はその返礼に大概は新らしい西洋の文学書を遣った。
するとその返事には、それを面白く読んだ証拠になる様な批評がきっとあった。
けれども、それが長くは続かなかった。
仕舞には受取ったと云う礼状さえ寄こさなかった。
此方こっちからわざわざ問い合せると、書物は難有ありがたく頂戴した。
読んでから礼を云おうと思って、つい遅くなった。実はまだ読まない。
白状すると、読む閑ひまがないと云うより、読む気がしないのである。
もう一層露骨に云えば、読んでも解らなくなったのである。
という返事が来た。–(略)–
この旧友が、当時とはまるで反対の思想と行動とに支配されて、
生活の音色を出していると云う事実を、切に感じた。
そうして、命の絃の震動から出る二人の響を審らかに比較した。
彼は理論家(セオリスト)として、友人の結婚を肯った。
山の中に住んで、樹や谷を相手にしているものは、
親の取り極めた通りの妻を迎えて、
安全な結果を得るのが自然の通則と心得たからである。〜〜
不安を抱いて大学を卒業し、
同じ不安を連れて松山から熊本へ引越し、
また同様の不安を胸の底に畳んで
外国にまで渡った漱石。
漱石自身が、
明治の強引な開化の時流にあって、
狂うような煩悶の中で、
西洋の物真似でもなく、誰の借り物でもない
自分のつるはしで掘り当てた鉱脈とは…
「自分本位」→自己が主で、他は賓であるという信念
「内発」→外からの刺激によらずに内部から自然に起こること
「父母未生以前」→父母すら生まれる前の人間の本性とは何かを問うこと
晩年の
「則天去私」→我執を捨て調和的世界に身を任せること
という境地。
流されることに抗い、
自己の本性にしがみついて生きる姿は、
他者からは、漱石の号の「漱石枕流」の孫楚のように、
負け惜しみの強い見苦しい頑固者にもみえることでしょう。
孫楚の気の利いたお茶目な頓知も
流石!と感心したのは、博識な王だけであり、
多くの人々は、それは流石にみっともないと思ったのでしょうから。
しかし、流石の漱石も、
『それから』のそれから…百余年もあとに、
著書のモデルの田舎大尽の子孫が、
権力を笠に着て大問題を巻き起こすとは
思ってもいなかったことでしょうね。
*『現代日本の開化』 夏目漱石
――明治四十四年八月和歌山において述――
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/759_44901.html
*『私の個人主義』 夏目漱石
――大正三年十一月二十五日学習院輔仁会において述――
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/772_33100.html