続・恋するリベラーチェ ~モンタギュー男爵とマイケル | ☆Dancing the Dream ☆

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『恋するリベラーチェ』という映画を観て、
今日こそは、
リベラーチェとマイケルの接点について書くつもりでした。

しかし、リベラーチェとマイケルについて調べているうちに、
より重要な人物・・
驚くべき人物に突き当たりました。
今日は、その人物について書かねばなりません。

リベラーチェ関係の話をそっちのけで、
こっちを先に書いてしまいますが、
ものすごい寄り道をして、みなさん、すいません おじぎあせる
まあ、たぶん、リベラーチェさんの紹介で、
マイケルは、この人物にも会ったんでしょうから、
関連話といえば、そうとも言えます。

さて、上の写真をご覧下さい。
白い毛皮を着たリベラーチェ(左)と、
リベラーチェの恋人の金髪のスコット(右)
それから、マイケル。
そして、マイケルの左隣で、
ロールスロイスに手を触れている紳士
が。

この人はいったい誰??
みなさんは、この人物をご存知?

この方は、
英国はハンプシャーの名門貴族のモンタギュー男爵、
" Lord Montagu "(1926生 ご健在です)
つまり、モンタギュー家の領主なのだそうです。

マイケルは、ポール・マッカートニーと共作した「SeySeySey」を書くために、
ロンドンを訪れ、その際に、同じくイギリスに滞在していた
リベラーチェ、スコットと共に、
モンタギュー氏に招かれて、楽しい時間を過ごしたのですね。

彼は、2歳の時にお父上と死別しています。
そのお父上が遺した素晴らしい 歴史的に価値ある
車のコレクションの影響で
「 motoring 」に大変興味を抱き、
自身の邸宅に"National Motor Museum"を設立したり、
Veteran And Vintage Magazine(ヴィンテージカーの雑誌)を発行したり、
また、1956~61年には、 自身のパレスで、
多くの若者が集った" Beaulieu Jazz Festival "を開催し、
イギリスの文化に多大な貢献をした趣味人でした。
そればかりでなく、彼は貴族でありながら、経営感覚をもつビジネスマンだったのです。第二次世界大戦後、大規模な土地を所有する貴族の財政は困窮し、イギリスの伝統ある屋敷の多くは取り壊されました。しかし、モンタギュー男爵は、不労の貴人を良しとする貴族社会の風潮に挑戦し、観光できる場として一般の人々に
自らの家を開放しました。この車の博物館の事業は大成功を治め、モンタギュー家の遺産と不動産は残ったのです。
彼は、貴族の中でも、独立心のある革新的な人物だったのです。

マイケルも所有していたあのロールスロイスの鼻の突先で、
今正に飛び立とうとするようなマスコット、
Spirit of Ecstasy」♥
"Emily" "Silver Lady" "Flying Lady"などとも呼ばれている
本当に魅力的な、この銀色の小さな彫像↓~~ 羽根パープル上反レインボー羽根パープル上反レインボー



これは、彼のお父上が所有していた
Silver Ghostという高性能のロールスロイスに
ふさわしいマスコットを装着しようと
友人の彫刻家Charles Robinson Sykesに依頼して、
モンタギューの美人秘書(&愛人)エレノアさんをモデルに作ったものだそうです。

さてさて、
このような、由緒ある雲上の粋人であるモンタギュー男爵ならば、
浮世の風など、どこ吹く風。なはずではありませんか?!

ところが・・・です。
ここからが本題です。

時は、「冷戦時代」1950年代半ば、
アメリカでは、マッカーシズムの流れを汲む、
「Lavender scare ラベンダーの恐怖」という
反共産主義のキャンペーンが敷かれていました。

この「Lavender scare 紫の恐怖」の
「紫」という色に込められた意味は、
ちょうど前記事にも書いた、映画『カラーパープル』←(クリック)が、
暗示しているテーマと同じで、
赤♀×青♂=紫・・
ジェンダーとは単純な2種類ではないという意味の、
「紫」です。つまり、LGBTの人々を表しています。  

「Lavender scare 紫の恐怖」は、元々は、
「Red Scare(赤の恐怖)」からきた言葉で、
反ファシストを旗印に掲げるアメリカ共産党への威圧を目的とし、
いわゆる、恐怖政治による見せしめとして、
ホモセクシャルなど、いわゆるLGBTの人々が、
迫害されました。

LGBTの人々は、当時は精神疾患と見なされていたので、
そのことを隠さねばなりませんでした。
その弱みに付け込み、政府関係者のホモセクシャルの人物に、
脅迫的なブラックメールを送り、
金融資産や機密情報(密告)を得ようとしたのだそうです。
このアメリカの気運は、英国でも同じでした。

モンタギュー男爵は、20歳にして貴族院の席に着き、
英国の保守党議員であり、
そして、バイセクシャルでした。

 *イギリスの2大政党のひとつ保守党は貴族や地主層を支持基盤としていました。
   よって、貴族であるモンタギューは伝統的に保守党なのですね。


彼は、「Lavender scare 紫の恐怖」の high-profile conviction(知名度の高い者を見せしめにすること)のための「魔女狩り」の餌食になったのです。


彼は、2度の裁判にかけられました。
1度目の裁判は、1953年に、14歳の未成年のボーイスカウトの少年と
ソレントの彼の海辺の家で、
淫姦行為を行ったという起訴内容でした。
しかし、検察は、彼を有罪に持ち込めませんでした。

1954年、再び逮捕されました。
彼の持っているビーチの家でのパーティで、
イギリス空軍のサービスマンと
'ほぼ性的犯罪行為' を犯したという嫌疑を受け、
一貫して無実を主張したにもかかわらず、
"consensual homosexual offences (合意同性愛犯罪)"として、12ヶ月の間、投獄されました。

モンタギュー男爵は、この2度の裁判で、
LGBTへの差別的法制度に、大きな影響を及ぼしました。

「Lavender scare 紫の恐怖」に貶められた他の人々と違い、
自分自身の無実を主張し、講義し続けたのです。
この一貫した抗議によって、
政治家や宗教者の間に反動的意見(Backlash)が起こり、
「大人二者間のプライベートでの同性愛行為を犯罪とするべきではない」というレポート(Wolfenden report 1957)が出版されるに至りました。

実際に、1954年の英国及びウェールズでは、同性愛の罪で収監された男性は 1,069人に登り、その平均年齢は37歳でした。

その後、1967年、英国とウェールズで「性犯罪法(1967)」が成立し、21歳以上の成人男性間の私的な場での同性 愛行為が合法化されました。
因みに、スコットランドで法改正がなされたのは1980年、アイルランドでは1982年。ごく最近のことなんですね。

約半世紀の間、モンタギューさんは、
National Motor Museum などの仕事に専念し、
公に、この裁判の有罪判決について語ることを
断固拒否していました。

しかし、「誤解は解くべき」であり、
「正確であることが重要だ」として、
2000年に回顧録『 Wheels Within Wheels 』を出版し、
この中の2章に渡り、裁判と獄中の話が語られました。

また、 Luke Korem 監督によって撮られた、
モンタギュー男爵こと、
エドワード·ダグラス·スコット·モンタギューの生涯と業績についての
ドキュメンタリー映画、『 Lord Montagu』が、
2013年4月、The Newport Beach Film Festivalにて
上映されました。



Lord Montagu (2013)

Director:
Luke Korem
Writers:
Luke Korem, Bradley Jackson


みなさん、このロード・モンタギューのお話を、
どう思われますでしょう?

驚くほど、見事に、
無実のマイケルジャクソンの身に起こった、
2度の児童性的虐待の疑惑問題と、
重なると思われませんか?


軍産複合体の「飯の種」は、戦争です。
ロード・モンタギューの時代は、米ソの「冷戦」、

泥沼のベトナム戦争(1960~1975年)をはさみ、
ソ連の崩壊にり、冷戦(1945~1989年)が終結して、
そして、次なる「飯の種」は「中東」でした。

マイケルが1度目に児童虐待者として嫌疑をかけられ、
捜査をされたのが、1993年、デンジャツアーの只中であり、
マイケルは、少なからず政治的平和活動に関わり、
「パレスチナ問題」の外交問題を抱える民主党の
クリントン政権に連動する動きを見せていました。
デンジャラスツアーは、戦争反対、平等と平和を訴え、
子供たちの未来を守るための世界規模の運動だったのです。

2度目が2003年の児童性的虐待の裁判でした。
当時マイケルは、911、アメリカ同時多発テロ事件被災者の
支援のために多くのアーティストと共に、
第2のWe are the worldのような企画で、
アメリカ同時多発テロ事件被災者への支援ソング、
What More Can I Give ?を世に送り出す運動に
尽力していました。
この裁判は、完全無罪を勝ち取りましたが、
マイケルに大きなダメージを与え、
その後のマイケルは、再稼働までの数年、
TIIが計画されるまで、
亡命するかのように母国アメリカを
離れることとなったのです。

同じ古い手口が繰り返される。。
マイケルもまた、ロード・モンタギューと同様の
「high-profile convictionの魔女狩り」に合ったのですね。

マイケルは、戦争屋にとっては、
非常に目障りな存在だったことは、想像に難くありません。



けれども、マイケルが、ロード・モンタギューに出会ったのは、
意気揚々と未来図を描いていた頃のことでした。
未来に彼と同様の災難が降りかかることなど知る由もなく。。

マイケルは、ポール・マッカートニーと共演したseyseyseyのSFの
撮影場所として使われたサンタバーバラのシカモア牧場が気に入り、
1988年に、ゴルフ場の起業家ウィリアム·ボーン氏から、
ここを買取り、「ネバーランド」と名づけ、
初めて羽根を休めることのできる自宅を得ました。

マイケルは、貴族趣味的な調度品を好み、
チューダー様式の古きよき時代のカントリー・ハウス風の屋敷を作り上げ、
ネバーランドのゲートにイギリスの紋章を設置しましたね。
そして、広大なネバーランドを
モンタギューのNational Motor Museumのように、
カートや私設鉄道で、敷地内を見て回れるように設計しました。

もしかすると、このようなアイデアや、
Spirit of Ecstasyの付いたロールスロイスにこだわったことなども、
ロード・モンタギューの影響があったのかもしれませんね。
なにしろ、モンタギューを訪れたのは、
マイケルが自宅ネバーランドを作り上げる直前のことですから。

モンタギュー家は、遡ればチューダー朝時代に
頭角を現したイングランド貴族のひとつで、
かのシェークスピアの随筆「ロミオとジュリエット」の
ロミオは、モンタギュー家の御曹司という設定でした。
ロード・モンタギューは、そのモンタギュー家の末裔なのです。

私は、長い間、
なぜ、マイケルが、↓このような紋章をゲートに掲げているのか、
不思議に思っていました。



"HONI SOIT QUI MAL Y PENSE" "DIEU ET MON DROIT"
そもそも、イギリスの紋章なのに、フランス語?
これはどうして?

この言葉はエドワード3世の天晴れな騎士道精神の逸話に由来します。
"エドワード3世は、舞踏会でご婦人が、うっかり落としたガーターベルトを、
 拾い上げ自分の左足に付け、
 「悪意を抱く者に災いあれ(Honi soit qui mal y pense)」と言って
  女性の恥を救った" というお話です。

エドワード3世は、フランス系の貴族であったわけで、
フランス語が母語なので、
このセリフがフランス語なのは自然なことなのです。

マイケルは、ヨーロッパ貴族も、
血統は、侵略、征服、そして、縁組によって、
あらゆる民族が入り混じっていたこと、
また、騎士道というものも、アジアの遊牧民を起源とし、
ヨーロッパにもたらされたものだということを知っており、
いわば、世界は巨大な渦巻き。世界はひとつ。
ならば、今はイギリスの紋章であろうとも、
アフリカ系アメリカ人のボクが、掲げてもいいのではないか?的な
発想でこれを掲げたのではないかと想像しました。
あくまでも・・想像~にひひ

けれども、マイケルが、ロード・モンタギューを通して、
英国貴族のスタイルに身近に触れ、
このエドワード3世の逸話に
感銘を受けたとしても不思議ではありません。



モンタギューの National Motor Museum


名家モンタギュー家の所領のひとつ モンタギュー・アームズ・ホテル


ね?なんとなく、ネバーランドを彷彿とさせると思いませんか?