伝説を、伝説のまま、終わらせてはならない。




2018年5月から私は、
取り憑かれたようにワークショップを決行し、
約半年間で、20人近い参加を頂いた、
あのワークショップ、遂に再開します。




やるかどうしようか、

そもそも、

復活しようかどうしようか、すごく悩んで、

それでも、やっぱり、
このワーク好き!って言ってくれる人がいて、
その言葉に、背中を押されました。



このワークは、
最早私だけのものでは無くなっていて、
色んな人に、希望や期待や信頼や、
そういうものを、かなり巻き込んでいたことに、
ようやく気付きました。



そしてこれは、
私の勝手で、やめるわけにはいかなくなると、
復活したら、もう、良い意味で取り返しがつかなくなると分かっていたからこそ、

1年以上も迷って。
色んなものに手を出して。



それでもやっぱり、これが、好きでした。






今回は、初の試みとして、
zoomを使ったオンライン参加を予定しています。

守秘義務の関係上、zoom参加者のみ、事前の申し込みをお願いしますが、基本は当日、ぶっつけです(笑)


参加費も今回は、お気持ち金制にして、
基本的には無料にします。


お金のことをとやかく考えて、
このワークが世に広まる足かせになってしまうのは、本末転倒ですので、今後しばらくはこのまま行きます。



基本的には無料と言ってますが、
正直、お金出させる自信はあります。



是非、直接参加して下さい。
お待ちしてます。
(以下、イベント詳細)


【寸劇セラピー Life direct】
・2020年7月11日 13時〜16時
・参加費無料(お気持ち金制)
・未成年は参加不可
・直接参加は定員5名(オンラインは定員ナシ)
・仙台市青葉区国分町1丁目8-13   仙台協立第一ビル5階 5-B(5-3会議室)
(仙台市営地下鉄南北線「広瀬通駅」より徒歩約7分)

※寸劇を行いますので、動きやすい格好でいらして下さい※




人の意識は、時間も空間も飛び越えることができます。
過去に戻ることも、未来に行くことも可能です。
それを実感できるのは、やはり、その直接参加して、寸劇セラピーの主人公になることです。

難しく考えずに、ただ、その場にいて下さい。

それだけで、とても多くの事に、気付いてしまいますから。
一度と言わず、
何度でも、やり直せるんだけどね。


ええ、
サイコドラマの話です(・∀・)



色々考えてたんだけど、
やっぱり、圧倒的に、

実施回数、足りないよな!って思って、

そりゃー確かに、
モチベーション、下がるよな、って、
妙に納得www




私も決して裕福ではないから、
べらぼうに乱開催はできないけど、

それでも、

一度遊びに行ったら、
数千円くらいはかかる訳だし、

もっと、もっと、
私自身が、サイコドラマで遊べよ!って
そーゆーことなんだな、と、腑に落ちた。

(ちょうど、安くて空いてる会議室を発見したし)




怖いけど、やろう。



やらないと、本当に自分から絶望される。




それはもう、懲り懲り。



人生残り半分くらい、自分から愛されたいじゃん。(←やっとこーゆー自覚が持てたこと自体、奇跡!今までこんなこと、思ったことも無かった!
やっぱり私は、
サイコドラマが好きで。

やっぱり私は、
サイコドラマしか無くて。



みんなで、
集まって、
顔寄せ合って、
肩寄せ合って、

1人の主役のために、
みんなが心を貸してあげる。

そしてその対価を、
その心に、遺していく。




あぁ、
こんなにも、優しいなんて、
今まで、気付かなかったよ。


当たり前に私も、
心も体も、それこそ、全身全霊でもって、
主役の世界を展開していくんだけど、



私の心にも、
私の体にも、
それこそ私の、全身全霊にも、


溢れんばかりの優しさが、
確かに、確かに、遺されてたよ。



2020年 7月
サイコドラマ、やります。


シャバの仕事を長くしていると、
人間性の扱いについて、とても難しくなる。



結論から言って、
世の中、人間性でしかない。

ただそれは、
人それぞれ過ぎて、曖昧過ぎて、主観過ぎて、
均一的で画一的な人事には不適合だから、
それらから目を逸らす「ため」に、
数値だとか実績だとか勤続だとか、
そーゆーものが「後付け」されたんだと思う。




それに
薄々気付いていたくせに、

人間性という評価基準を、
誰よりも疑っていたわたしは、

当て付けのように、数値をあげ、実績を作り、
そして、潰れた。
誰も、心配も同情もしてくれなかった。
(当たり前か



人間性というものは、
良いものも、良くないものも、
とにかく引き寄せてしまうものなので、

拒否や反論ができない人にとっては、
とにかく扱いに困るし、
わたしに至っては、
何処かに投棄してきたいと思うほど、
しんどい思いも、存分に、してきた。


(鬱な内容なので閲覧注意




まだ、
完全に自分の人間性を受け入れられた感じは無いけど、

拒絶スキルが上がるにつれて、

少しずつ、
少しずつ、

投棄してきた人間性を
拾って、受け入れて、統合して、

そうしていつか、
自分を怖がらない、自分へ、なれるといいな。


弱い人ってさ、
実は、
自分より弱い人には、


普通に薄情なんだよね。





優しさは強さ。





だから、
本当に弱い人は、
誰にも優しくできない。

自分自身にも、ね。





先ずはお母さんを、きちんと他人として扱うこと。


これができないと、
本当の意味での「他人」が、
分からないままだ。



他人が困ったとき
他人が大変なとき
他人が絶望しているとき
他人がしんどそうなとき

どの程度で接するのか?
が、とてもとても、大切だけど分かりにくい。


そこをちゃんと、
自分の意志と
自分の根拠で、線引きする。



その、第一歩が、お母さん。



共倒れだけは、避けたいからね。
お母さんが望むから、
お母さんが命令したから、
それを守ったんだ。



それが、
お母さんの幸せへの道のりだと信じたから。



でも、
いくら言うことを聞いても、
いくら命令に従っても、
いくら望みを叶えても、



お母さんは、
ちっとも幸せにはならなかった。

し、
不幸にもならなかった。



つまり、そういうこと。



わたしは、
お母さんの幸福請負人にはなれなかったし、
むしろ、そんなものになってはダメなのだ。




わたしがどんなに有能でも、
確実に幸せにできる人間は、この世にただ1人。
そう、自分自身だけ、なのだ。
お母さん教から解脱した話。
もう少し、続きます。



(奇しくも、母の日直後の5/15の出来事でして)



お母さん教信者の時は、
その理不尽で不合理な戒律を、
「守ることが愛」だと思っていたので、
破ることはできませんでした。

愛されたいと願うより、
愛したいと望む気持ちの方が、強かった。


ただ、
戒律を死守する「以外にも」愛する方法があると、
何なら、
戒律を破ってあげることもまた、愛だと、気付けました。



そしたら、
偶然か必然か、
「親に迷惑をかけてしまうのではないか?」
という不安や
「親に迷惑をかけてしまったらどうしよう」
という恐怖も、



すっかり、消えました。




迷惑や恐怖の所有者が、
しっかりと「自分」になったので、




わたしがどんなに無茶しても、
親は全く困らない!という
至極当たり前にして、最大の勘違いに、ようやく気付きました。







お母さんを、
ちゃんと突き放してあげることで、


わたしも、
お母さんも、
やっと自分を生きられる。


寄り添うためには、
まず、
ちゃんとお互いが別々の存在であると、
認識しなくちゃ、意味がない。



今まで、
お母さん教でガチガチに整型していたわたしのアウトラインは、


一旦、

ゆるんで、

どこまでも膨張して、



今度は、


何の制限もない、


どこまでも、どこまでも、


広く


大きく


まるで、


シシ神様の姿に収まっていた、デイダラボッチのように。
先日、お母さん教から解脱したら、
その瞬間、自分そっくりの他人を見つけました。



(この表情、すちw)←




年齢も性別も違うんだけど、
何て言うか、
プログラミングが同じだなーと、瞬時に分かりました。

同じ物事に直面したとき、
捉え方が、思考の方向性が、優先するもの、犠牲にするもの、
それらが、ことごとく、わたしにそっくりで。



そして、
そんなわたしそっくりの他人は、
わたしがタブーに思うことを、(当たり前だけど)何とも思わず、
赤裸々に世界へ飛び立っていました。



何だか、
捨ててきた自分が、成就した姿のように見えて、
とても眩しかった。





あぁ。


わたしも、ああやって輝けば良かったんだと。

わたしも、ああやって羽ばたけば良かったんだと。

わたしが悩むべくは、もっと進んだ先にあったんだと。




今、直面している問題は、
本当に本当に、

自分で作り出している虚像に過ぎないんだと、

自分そっくりの他人から、教わりました。




わたしもいつか、
その人に、
恩返しできるように、なれたら良いな、と。
昨日、久しぶりにお母さんに会って、
初めて「ただの他人」として、見ることができた。


今までは、
どんなに意識したって、教祖の座からは揺るがなかったのに。




今までわたしは、
他人に、自分のことを話すということに、
他人に、自分のことを尋ねるということに、
とてもとても、抵抗や嫌悪感があった。

それは、お母さん教の戒律だったから。

だから、
自分のことも話さないし、
自分の名前を呼ばれない話は、全て無視してた。

それが礼儀だと思ってた。
それが正義だと思ってた。
それが思いやりであり、気遣いだと思ってた。




まぁ、違うよね(笑)




結婚3年目に、
遂に、
無礼を承知で、旦那に、自分のことを尋ねてみた。
自分とお母さんの違いについても、尋ねてみた。




本当に、バンジーだった。




でもここで、初めて、他人の言葉を信じてみようって、自然と思えた。
(意識して信じることはできてたけど、自然と思えるのは、初)


そしたら、お母さんが、ただのおばさんに見えた。




衝撃だった。





そして、
わたしを縛っていた戒律の「存在」にも気付けて、
それが本来は、
お母さん自身を縛るための戒律だったことも、わかって、



謹んで、返上申し上げたよね。




お母さんの戒律には、
お母さんの悲しみや、辛さや、絶望や、
そういったものが寄り集まってできていて、
重くて冷たくて、とても怖かった。



でも、それを脱ぐことができたとき、
何だか本当に、空も飛べそうなくらい、軽くなった。



お母さん、
わたしは、

あなたが思うほど、
強くも弱くもありません。

あなたの戒律は、外部からの情報を遮断するので、
気付くにはとても時間がかかりました。


お母さん、
わたしは、

あなたの言葉を信じたように、
他人の言葉も信じてみようと思います。

あなたの言葉以外が全て、
お世辞や批判や嘘や社交辞令だとは、
どうしても信じられません。

あなたもまた、
お世辞や社交辞令を言うし、
他人だって、真実を語ります。


あなた「だけが正しい」などということは、有り得ない。


自分の意志で縛られた戒律を、
自分の意志で解脱します。