・井戸を掘った人たち・・・(余談) | 日本哭檄節

日本哭檄節

サミュエル・ウルマンの『青春』の一節、
≪ 希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる。≫
こそ、人生の糧(よすが)か・・・!
既に古希寸前に達した今こそ、この言葉に励まされながら、さあ、もうひと踏ん張りしてみるか・・・(笑)

『指を畳んむ・・・!』

と云いながら、まだ余韻を引き摺って居るアホジジイなのだが、今回の『日中現代史再勉強』に潜る中で、過去に齧って来た『中国史』に色々想いを馳せたりしながら、その中で想ったことを二つ、三つ残して措きたいと想った次第で・・・(汗)

 

 先ず、その第一は、後に『中国共産党』を旗揚げし、初代の委員長(=党首)に為る『毛沢東氏』が生れたのは『1893[光緒19]年』で、後輩の周恩来氏は、これより5年後の『1898年[光緒24]年』とは、共に、まだ『清朝』の時代なのだが、この世代は、且つての『皇帝時代』に措いては、非常に微妙な時代に生れて居ることが、二人の後の人生(=生き方)に大きく影響して居ると想えるのだ・・・!

 

 その『微妙な時代』とは、二人が生れて僅か10年前後の『1905[和暦・大正5]年』に、中国の『垂簾(帝政)政治史』に約1300年の長きに渡って厳然と立ちはだかって居た

『科挙(=役人登用)制度・・・』

と云う官僚登用システムが、遂に打ち切られて居る・・・!

 

 毛沢東、12歳・・・、周恩来、8歳の時だ・・・!

 

『科挙制度・・・』(=西暦598年から)

とは、ジジイが今更述べるまでも無く、皇帝国家中国では、日本で云うなら、所謂

『国家公務員・上級職試験(=今は総合職と云うらしいが)・・・』

に匹敵する大難関試験で、あの広大な中国全土から、毎年、選りに選りすぐられた大秀才たちが都に集まり知識を競う試験で、これに登第(=合格)すれば、その段階で、余程のシクジリ(失敗)か政変でも起きない限り

『超高級官僚の座・・・』

が約束されるのだから、中国全土の家庭では、我が家に男児(おのこ)を授かり、その児の智慧に些かでも『明(=賢さ)』を見出した親は、これに及第させるべく、幼い3、4歳の時から、裕福な家では家庭教師まで着けての英才教育を施すのだが、この試験が、何せ、

『3,000倍の狭き門・・・』

と云われたほどの猛烈極まりない試験で、中には、毎年受け続け、70歳を超えて及第した猛者も居たと云われるほどだが、中国の中内陸部『湖南省湘潭県』で、そこそこ裕福な『毛家』に生まれた『沢東』は、上二人の兄が夭折して長男的に育てられる中で、当然、その『英才教育』を受けての『進士様』を目指して居た途中で、この『進士への路』を絶たれる挫折を味わったのでは無かろうか・・・?

 

 一方の『周恩来氏』の方は江蘇省と云う沿岸部に生まれるが、家は『毛家』ほど豊かだった訳でも無く、逆に非常に貧しかったらしいが、生来の利発さは備えて居て、上海に出て『開南学校』と云う中学に学ぶ訳だが、ここでの成績の優秀さを認められ、周囲からの援助を受けて、『辛亥革命(=1912年)』を経て、『孫文』が打ち立てた『中華民国』に為って尚、混乱続く母国に比べれば、相当進んだ教育制度が整って居た日本への留学の路を選ぶ・・・!

 

 この辺りのことを、当時の周恩来氏は、鬱勃とする日々を過ごす中の1917[和暦・大正7]年9月(=周恩来19歳)、その志と決意を、

 

≪ 大江に詩罷(うたや)め 頭を掉(ふ)って東し、

  邃(スイ)密なる郡科 世の窮(きわ)まるを済(すく)う。

  面壁十年 壁を破らんと図り、

  酬(むく)われず 海を踏むもまた英雄。≫

【意】

 長江(揚子江)に詩詠(うた)うのをやめ、意を決して東(=日本)に向かい、

 科学をしっかり学び、貧しい祖国を救おう。
 達磨
(太子)のように十年間壁と向き合い、その壁を破ろうとし、

 それが果たせず、海を渡る(=還る)のも、また英雄だ。

【 邃密(スイミツ):『非常に奥深い』の意】

 

と云う七言絶句に詠い日本(=東京)へ向かうのだ・・・!

 

 だが、その志は、結果、最後の一行(=挫折)に帰結して帰国を余儀なくされる辺り、僅か二十歳を迎えたばかりの青年には、相当な屈辱で有っただろうことは想像に難くないが、その『志』に、

『 面壁十年 壁を破らんと図り、世の窮まるを済う。」

と云う決意を込めた詩文に、若き周恩来氏の『愛国の心』が詠まれて居て、帰国後の氏の行動(=共産主義戦士加盟)が理解出来る気もする・・・!

 

 片や・・・、一族を揚げての『科挙試験登第』の路(=夢)を少年期に断たれ、これまた鬱屈を滾らせつつ郷里で教師生活を送る中で、混乱する国内政局の中に持ち込まれて来た『マルクス・レーニン(=共産)主義』に活路を見出し、上海での『第一回共産党会議(=1921[大正11]年』に参加し、

『ロシア(=モスクワ)・コミンテルン(=社会主義指導部)・・・』

の導きの基、その一派(=初期・中国共産党)のリーダーと成った毛沢東と邂逅して、

『弱者救済(=労農扶助)思想・・・』(=『連ソ容共』と云うらしい・・・!)

を謳う共産主義に傾倒し、1924年に共産党に入党し、以降、死ぬまで『党首(=主席)毛沢東』の側に侍り、その慧智と決断・行動力で支えた続けたのが『周恩来』と云う頭の切れる闘士だったと云う訳だが、清朝崩壊に始まり、タダでさえ混乱した中華の国では、欧米列強に続き、直ぐ隣国の日本までもが『覇』を競って雪崩を打って乗り込んで来て引っ掻き廻す中で、国内でも、『孫文』亡き跡を引き継いだ『蒋介石』が党首と為って率いる

『国民党軍・・・!』

が国家樹立を謳い

『中華民国・・・』

と云う国名は、1949年に、現『中華人民共和国』と云う共産主義国家が樹立するまで、あの大国の正式名称で有り続け、その後は、今でも台湾島に逃げ込んだ蒋介石を総統とする『台湾政府』の正式な国名として遣われて居ると云う訳だ・・・!

 

 と・・・、ココまでが、ジジイの引き摺った『余談』の一幕目だが、肝心なのは、この後の

『余談の余談・・・!』

なのだが、字数が益々増すので、続きは後編に譲る・・・(汗)

 

 兎に角・・・、清朝末期から中華人民共和国建国まで約40年間のお隣大国は、兎に角、ややこしいのだ・・・!

 

 そして・・・、そのややこしさが、歴史好きには堪らない訳で・・・(汗)

 

 と云う訳で・・・義理で若し読んで下さって居る方が居られましたら、誠に申し訳有りません・・・(謝&拝)