・井戸を掘った人たち・・・(Ⅱ) | 日本哭檄節

日本哭檄節

サミュエル・ウルマンの『青春』の一節、
≪ 希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる。≫
こそ、人生の糧(よすが)か・・・!
既に古希寸前に達した今こそ、この言葉に励まされながら、さあ、もうひと踏ん張りしてみるか・・・(笑)

 徐(おもむ)ろな話だが、この『日中国交回復交渉』を演出した『周恩来首相』は、1898[和暦・明治33]年のお生れらしいから、この日中交渉の2年間は、既に『齢73~4歳』の老大人で有られたことに為るが、若くして日本留学に失敗して、志半ばで帰華して、毛沢東氏が旗揚げした『中国共産党』に入党してからは、亡くなるまでの半世紀以上を、当に獅子奮迅の働きで毛沢東氏を支えた

『能吏の鏡・・・!』

のような人だったらしい・・・?!

 

 この時、NHKの取材を受けた当時の側近や部下の人たちの証言に依れば、

『朝まで働いて、午前中(=昼)に寝て、午後からはまた働いて居た・・・!』

と云う人だったらしい・・・。

 

 だから、傍に侍る側近たちは夜中に呼び出されることも度々で、当に

『油断為らぬ人だった・・・!』

と云うことだったらしいが、何せ、あの抗日運動(=中共合作抗日戦争)の先頭に立って戦い、生き残った人物でもあるから『肚の据わり』も尋常では無かったことも、容易に察しが着くような・・・?!

 

 この辺りのことについては、日本側の主役だった田中総理が、当時、訪中を前に、

『毛沢東も周恩来も、あの抗日戦争の修羅場を潜り抜けて来た人物だから、人物は相当練れて居るハズだから、往って肚を割って話せば判り会えるハズだ・・・!』

と云った趣旨のことを話したと云うが、さすが、

『人誑(たら)しの名人・・・』

の読みは当たって居たと云うことだろう・・・!

 

 そんな『能吏の鏡』は、自分たちが建国した『中華人民共和国』と云う国家の将来像も明確に脳裏に描いて居たようで、同志・毛沢東のネタミで始まった『文化大革命』の嵐が吹き荒れる中でも冷静沈着を保ち、自分の地位を保ちながらも国家100年の大計に基づく外交戦略への布石も怠らず、何れ訪れる『中米・中日国交』を見据えての人材配置を巧みに仕込み、その情報収集にも余念は無かったらしい・・・。

 

 加えて・・・、周氏は若き青年時代(≒19歳頃~)の数年を日本に遊学しても居るから、『知日派』でも有った訳で、これが、中国国内に渦巻き残って居た

『強い反日感情・・・』

への細かな配慮に繋がり、我が国の『対中国・国交回復』に大きな助力を与えてくれたことも、我々は頭の隅に置いて措かなければいけないポイントでは無かろうか・・・?!

 

 

 この細やかな配慮(=下拵え)を演出する意味で、当時、中国政府から送り込まれた友好使節の中に、

『上海バレエ団・・・』

と云う200人からの一行が、約一カ月掛けて日本の主要都市8カ所ほどで公演したそうだが、その団長を下命されたのは『孫平化氏』と云う外交官で、バレエなどとは全く縁の無い人物で、

『何故、孫氏なの・・・?!』

と訝る向きも有ったらしいが、この仕掛けも周氏の思惑で、氏が負わされたミッションは、来日中、兎に角色んな方面の日本側の要人と逢い、そこで得た情報を、夜に為ると毎日、北京の外務省の対日担当部局に電話報告し、それを受けた部局は、それを即座に文書に纏めて、中南海の執務室で仕事中の

『周恩来氏に報告する・・・!』

と云う作業を欠かさなかったのだそうで、それを読んだ周氏は、翌朝には、次なる一手(=指示)を部下たちに的確に下せるシステムに為って居たと証言されて居るのは、実に驚きだ・・・!

 

 日本の政治家のように、夜に為れば夜な夜な赤坂や新橋辺りの高級料亭に繰り込み、派閥の結束や数合わせに躍起に為って居るような能天気なことはして居ないのだ・・・(笑)

 

 もだが・・・、同時にこの『1971~72年』と云う時期は、我が日本でも政治的に大きな転換期に差し掛かって居た・・・!

 

 今でも語り種に為って居る、

『角福戦争(=田中角栄氏 Vs. 福田赳夫氏)・・・』

と云われる次期政権の座が、

『果たして、どっちに転ぶか・・・?!』

と云う局面が佳境を迎えて居たのだが、中国側は、この現象に非常な興味を持ち、色んな人物に、盛んに

『次は、田中さんですか・・・、福田さんですか・・・?!』

と訊いて居たと云う・・・!

 

 そして・・・、この問題の情報収集に一役買ったのが、『創価学会(=池田大作氏)』ルートで中国政府に、既に大きなパイプを築いて居た『公明党』と云う政党で有り、時の委員長の『竹入義人氏』と云う人物と、もう一人、『ポスト・佐藤栄作総理』の中で、自民党内では20名にも満たない少数派閥ながらキャスティングボードにも為り得た『三木武夫氏』だ・・・!

 

 三木氏は、『隠れた親中派』として、小派閥の気楽さで中国にも幾度か脚を運んで居り、この中で、

『田中さんが立てば大平さんが組みますから・・・、次は田中さんに為りますよ・・・!』

と云う永田町の風を伝えたことで、中国政府は、

『次は、田中氏だ・・・!』

と云う確証を得て、そんな中で訪中団を編んで中国に入った『公明党訪中団』に、周恩来氏は、人民大会堂に招き、暗に田中氏宛てに

『北京の空港は、いつでも開けてお待ちして居ります・・・!』

と云う訪中を促すメッセージを託し、加えて、

『わたしがホストとして田中さんをお迎えし、田中さんには、恥はかかせません・・・!』

とまで云ったと云うから、その熱意は相当なレベルまで達して居たと云って間違い無い・・・!

 

 しかし・・・、毛沢東氏のキッシンジャー氏への

≪ 台湾は、重大では無い・・・!≫

に続き、

≪ 百年後には、向こう(=台湾側)からやって来ますよ・・・?!≫

もだが、周氏も、

≪ 北京の空港は、いつでも開けてお待ちして居ります・・・!≫

など、実に粋な(=シャレた)発言で相手の心を擽るところは、さすが漢詩で遊ぶお国柄にして抗日に続き『対蒋介石・国民党』との同族闘争の修羅場を潜った強者は練れて居るわなあ・・・!

 

 てなことで・・・、この読書感想文はまだ数回続きそうだが、読んで頂いて居りましたら深謝申し上げます・・・(謝&拝)