東京都港区田町/三田~高輪あたりには薩摩藩の屋敷が点々と存在していたことがわかったところで(昨日のブログ)、そういえば、江戸時代、この界隈には島原藩の中屋敷もあったっけ、と思い出しました。
その島原藩の旧敷地は現在どのように使われているのかご存じでしょうか?
細かく分割して民家が建っているわけではなく、尾張藩徳川家上屋敷の敷地にそのまま防衛省がごっそり入ったように、あるひとつの組織のために有効活用されています。
それはーー慶応義塾大学です。
といっても創設されたのはこの地でなく、別の場所からの移転です。
慶応義塾はもともと安政5年1858年、現聖路加病院の場所にあたる中津藩中屋敷跡に設置されました。
下の写真は、聖路加で人間ドックを受けたときに撮影したもの。
石碑は谷口吉生作です(谷口吉生作 大学発祥記念の碑)。
そうなんです、慶應義塾というわりに、創設は慶應年間ではなく、それより前のことなのです。
その後、慶應4年(1868年)に芝に塾を移し、その時の年号をとって「慶應義塾」と名付けられました。(現在浜松町エコプラザがあるあたりらしいけど、行ったことはありません。)
その後、島原藩の中屋敷の土地の貸下げを受けて移転した先が三田でした。
当時正門は、現在の正門の場所ではなく、藩邸の門があった東側に定められました。
具体的にどの当たりかというと、下の写真の黄色い枠で囲った建物「東館」(これは図書館を真似てごく最近に建てられたもの)が当時は存在せず、そちら側に建っていた黒門をそのまま正門としたのです。
移転当時、写真左手にある旧図書館の建物は存在していません。
この図書館が着工したのは1907年のこと。
1858年開設の義塾創立50年記念事業として着工されたのです。
(竣工は1912(明治45年)4月15日)。
なぜこのように重厚な図書館が計画されたのか?それには理由があります。
先述の通り、当時正門は下の写真の奥側にありました。
つまり、50周年記念図書館は、正門から高台にある三田キャンパスを眺め見て真っ先に目に飛び込む位置に建設予定。
とあれば、インパクトのある壮麗なものを建てよう、と関係者は意気込んだわけです。
実際、上の写真の黄色い枠で囲った建物のトンネルのような入口(当時正門があった場所)から図書館を見上げると、こんなふうに威容が飛び込んできます:
こちらの説明版にも、図書館の建物の建設経緯が書かれています。
図書館着工は1907年と先に記しましたが、実は本建物の設計を担った曾禰中條建築事務所の開所は1908年のこと。
この大きな案件を契機に曾禰達蔵と中條精一郎が共同で事務所開設に至った、とはどこにも書かれていませんが、事務所開所にこの受注が関与していなかったのかなぁ、と思ったりします。
中條は曾禰より15歳年下で、そんなふたりがどういう経緯でタッグを組むことになったのかちょっと気になります。
そして以前も書いた通り、中條の娘は作家の宮本百合子です(本名は中條ユリ)。
さて、この図書館の入り口ですが、外から見ると扉がないように見えます。
でも3段ほどの階段を上ると、内側に扉がありー
中が暗がりになっているので外からパッと見ただけではわかりませんが、内側扉に近づいてみると、上部の尖頭アーチ窓部分がバラ窓みたいな意匠になっていてオシャレなのです。
震災で被害を受けた右手の八角塔は、現在上まで登ることはできないけれど、1F部分が例の喫茶室になっています。










