江戸時代、薩摩藩は都内日比谷~三田あたりに広大な屋敷をいくつも構えていた・・
それを知ったきっかけとなったのは、江戸東京博物館で開催されていた洋館展と、日経新聞朝刊の連載小説「江戸を隠してふところに」でした。
まずは、洋館展。
鹿鳴館の門は、薩摩藩島津家の中屋敷黒門がそのまま使用されていたという説明がありました。
調べると現在の日比谷あたりです。
今の基準でいう一等地に屋敷があったんだなぁ、、と思った矢先のことーーー
日経の「江戸を隠してふところに」に薩摩藩邸の記述がありました。
丁度明治維新直前を描いたくだりにー
・勝海舟と西郷隆盛の会談は高輪の薩摩の下屋敷で行われた、
・なぜなら三田の上屋敷は全焼してしまったから、
・しかし決着がつかず、翌日田町の薩摩蔵屋敷で仕切り直しになった、
(小説の中の該当箇所を本ブログ最後に記します。)
という記述があったのです。
一体都内に屋敷をいくつ持っていたの?
調べたら都内だけで7つほどあり、勢力の大きさが伺われます。
結局「江戸を隠して・・・」にも述べられている通り、最終的に田町の屋敷で行った会談で無血開城の運びとなりました。
田町は私的にはそこそこ土地勘のある場所だけど、一体どのあたりだろう?と疑問に思っていたら、なんだ駅そば。
田町タワーの大きなビルの脇にちゃんとした碑が造られていました。
碑の左端には、西郷吉之助書とあります。
隆盛のお孫さんです。
いくつもある薩摩藩邸のうち、この碑がある田町の屋敷跡一帯は、下の黄色い四角で囲んだ部分。
今の田町駅をごっそり内包している格好です。
そのほかもう一つの藩邸が、下図右下に一部記されています。
燃えてしまったという三田の上屋敷だった場所なのかな。随分広そうだし。
この会談の碑は、浮彫や説明板とセットになって、きれいにまとめられていました。
田町タワーは数年前に竣工したようなので、(ここって、昔三菱自工の黒っぽいビルがあった場所かな)その際に整備されたのかもしれません。
実際2016年頃の碑の写真を見ると、碑/説明版/浮彫の配列が異なっていました。
上の浮彫の隣にはこうした説明書きがあります。
セットでこんな配置:
注目されるのは前面部分だけど、実は裏側にもこのように情報が書き込まれているんです。
左には「大●謹書」の文字。残念ながら、「大」の次の文字が読めませんでした。
なお、JR田町駅には「西郷南洲・勝海舟会見の図」という陶板レリーフがあるそうです。
原画・監修は、本ブログで何度か触れたルイ・フランセン。
薩摩藩邸跡地巡りをしたときはJRを利用しなかったのでこのレリーフには気づかずじまい。
今頃になってその存在を知りました。
ただ、このほか、三田寄りの地に薩摩藩邸跡地の碑などがあり、そちらのほうは巡ってきました。
機会があったらまた別途記します。
最後に、上述の小説「江戸を隠してふところに」で薩摩藩邸が登場する部分は以下です:
なにせ高輪はお城から遠い。いくら討伐軍の使者が薩摩藩士と申しても、勝(かつ)さまも高輪の下屋敷くんだりまでお出かけになることはなかろうに」薩摩藩はかねて三田に上屋敷を構えていたが、そちらは昨年末、不逞浪士取り締まりをご公儀より命じられた庄内藩士らの襲撃によって火災に遭い、全焼している。
「日延べじゃ、日延べ。今日の話し合いでは、皆目、決着がおつきにならなんだ。明日、田町の薩摩蔵屋敷にて、再度の会談と相成った」
小説のほうは、江戸から明治へという激震の時代を描いています。
世の中が変わっても、冴えない主人公の下っ端すぎるお役目は一向に変わる気配がありません。
至って地味な内容ですが、なぜかけっこうハマってしまい、毎朝一番で読んでいます。








