(前回からの続き)
「えっ⁈ 逃げるんですか?」
「左様。君子危うきに近寄らず。参拾六計、逃げるに如かず」
「敵に背を見せて逃げるなど、卑怯ではありませぬか」
「敵こそ姿を見せぬ卑怯者ではないか。
まあよい。ふふふ、しかしそれも作戦の内、
埋伏の計じゃ」
「まいふく?」
「左様、陥穽の策も併せて、味方の兵を伏せておく。
そなたは何も知らず麻布まで逃げて来れば良い」
「なにやら分かりかねまするが、拙者をおとりに使うおつもりですか?」
「心配するな。心配なら、ワクチン2、3本打っていくか?」
「それには及びません。これが鳴ったら逃げればよいのですね。
宮益坂の方へ」
「左様、コロナも羽が生えて飛んで来りはせんから、安心せい。
但しおびき寄せるようにゆっくりとだぞ」
「しかと賜りました」
緊張して金打(きんちょう)を打つ兄弟。
こうして弟二郎は渋谷村のハチ公の前に立った。
むかし来たきりだった。
確か、東急文化会館にプラネタリウムがあった筈だが。
と、青学の方へ行こうとした矢先、
往還でなにやら白い前掛けをした
西洋のお女中のような娘御が、
近づいてきて、御懐紙のようなものを渡された。
「ん?」
丁度その時だった。
兄から渡された陽性者接近警報がけたたましく鳴った。
ハッ、と弟二郎は身構えた。
腰を落とし、左方の足を引いて半身の姿勢に
一挙動でなったはいいが、
肝心の左腰に得物が無い……
「や、不滅の刃を家に置いてきた……」
虚しく左手が空を掴んで、一瞬ほぞをかんだが、
「こうなりゃ武術格闘技で応戦だ」と肚をくくった。
「うぬっ、その方、くの一か?」
「……」
「ころな方の患者、もとい間者(回し者)か?」
向かいに不可解な面持ちで佇立しているお女中だったが、
さっきからの殺気で緊迫した面持ちに変わり、この男弟二郎を凝視している。
すると、さっきから鳴っていた警報音が徐々に低く、遠ざかっていく。
「やや、おぬしが陽性キャリアーではなかったのか?」
「はっ、ナンチュウセイ?」
弟二郎は辺りを見回し、四方へ遠ざかっていく通行人の背に
警報機をかざすが、それらしい反応は徐々に小さくなって
……しまいには消えてしまった。
「無念。捕り逃がしたか……」
悄然とした面持ちで天を仰ぐ
青空に夏雲のような白い雲と、
真っ赤に燃えたギラギラ照りつけるでっかい太陽が、
デンとニラミを利かしている。
「大丈夫ですか?お客さん……」
ふと娘御に声をかけられた。
弟二郎はあらためてそのお女中の奇妙奇天烈なナリに目を瞠った。
「えっなにっ?」
と、言おうとしたが、お女中に舐められてはいかんと、言葉を呑みこんで
「いや、失礼した。お女中のナリを見てコロナ方の回し者かと思うたまで」
「あのう……」
「失礼ですけど……女中ではありません。
(胸を張って)メイドなんですけど」
「ん?」
「左様か、いかいこれは失礼いたした。冥土殿」
許されよ。ご無礼つかまつった」
第2話 end (次号に続く) 吟

