今日8月15日は終戦記念日です。
それにちなんで(?)THE 貧乏だった私のルーツ、父の話を少し。^^
既に他界している父は昭和一ケタ生まれで、
たしか私が高校生くらいから、父が亡くなるまでの長きに渡り、
事情を知らない人からは、
『おじいちゃんと孫』の関係だと誤解されることが多く、
父はもともと、そういうのどうでもいい人だから訂正しないし、
途中から私もその都度訂正するのが面倒くさくなってきて、黙認。
父が亡くなる最期の最期まで、病院の一部の看護師さん達の間では、
微笑ましい『おじいちゃんと孫』の関係が続き、
『お孫さん、こんなにおじいちゃんを面倒見てあげて偉いわね』と言われ、
テキトー返事で『ハイ』と答えてました。(-"-)![]()
どうでもいい前置きでしたが、
そんな経緯で?
父から事あるごとに戦中、戦後の話しを聞かされてきました。
とくに『食』に関しては、酷いもので、
大根の切れ端とか、ごはん粒とか、サツマイモの切れ端とかを
水で煮てふやかして量を増やし、ほとんど水みたいなごった煮を、
兄弟8人奪い合いながら・・・っていう
おしんちゃんの世界みたいな食事だったとか。
※『おしん』とは東北山形を舞台に、苦難に遭いつつも決してあきらめず、
明治、大正、昭和を生きた主人公・おしんの姿を描き、
平均視聴率52.6%をたたき出したNHKの連続テレビ小説
果物なんて、柿はよその家の柿の木から盗むか、
家では一個を兄弟で分けて食べたとか言ってて、
子供の頃は『それってホント?』って思ってたけれど、
生涯を通して、
柿やりんご、梨をそこまでやるかと突っ込みたくなるくらい、
芯ぎりっぎりまでかぶりついていた父の姿は
幼少時代の貧しさが偽りではないことを証明していた。
もちろん父の実家がよその家より貧しかったのもあると思うけれど。
晩年まで
『食えるだけでも
ありがたいと思え!!』
が口癖でした。
↑今あるのかな?山形にあるおしんの生家。
父が亡くなってから、
父の兄、伯父と話す機会が増え、
『こりゃ、父が伯父にのり移ったか!( 一一)
』
と疑いたくなるくらい『食』の話しが再登場し、
父より年上だけあって、さらに悲惨なエピソードだった。
父の実家は東京でもド田舎で、
伯父は子供の頃もう一人の伯父(そのまた兄)と畑仕事を任されていたという。
朝から自宅より5キロほど離れた遠方の畑までリヤカー押して行き、
朝ごはんもろくに食べてなく、
お昼頃になると、お腹が空いてしようがなかったという。
私:『お弁当は持たせてもらえなかったの?』
伯父:『そんなものあるわけ
ねぇだろうが!(笑)』
↑口調まで父と似てるし・・・(゜д゜;)
私:『じゃあ、どうしたの?』
伯父:『まだ根っこみてぇな、
こ~んな小さい(指で小ささを表現しながら)大根を
兄貴が見てない隙に引っこ抜いて食ってたんだ』
私:『土がついてるよねぇ』
伯父:『水道なんかないし、手で土を払ってそのままだ』
でもそれを収穫しなきゃいけないから、
その泥つきミニ大根さえもめったに食べなかったそう。
おしんの家パート^^
父の実家はもうちょっとマシだったと見栄を張りたいところだが。。。( ̄_ ̄ i)
地主で畑がいっぱいあるわけでもなく、
自宅から離れた畑(たぶん借地)で、
収穫した野菜は米と交換したり売り歩いたり、
残った分が一家10人分(男7人)の食材となったという。
伯父は『いつも腹が減って腹が減ってしようがなかった』と
父と同じことを言っていた。
太平洋戦争真っただ中、戦地に赴いた方々に比べれば、
年齢的に召集を免れた父や伯父は何百倍も恵まれているのだけど、
子供の頃からそんな話ばかりを聞いてきた私にとって、
その時代に生きた人々のこと、
戦争で亡くなった方々のこと、
今自分が食べることに困ることなく生きていること、
いろんなことを考えてしまう。
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