白鳥塚古墳(しらとりづかこふん)
三重県鈴鹿市
この古墳は古くから日本武尊 (倭建命)の墓と言い伝えられ、尊が死後に 白鳥となって飛び立ったという伝説にちなみ白鳥塚と呼ばれています。
以前は東西78m、南北59mの県内最大の円墳とされていましたが、 平成16・17年(2004-2005) に実施した発掘調査の結果、墳形は 東側に造出をもつ墳長78mの帆立貝式の前方後円墳であることが判明 しました。
「白鳥座 能褒野の天に懸かりたり」
墳丘には河原石が葺かれ、埴輪がめぐらされています。
その埴輪から5世紀前半代に築造されたとみられ、鈴鹿川流域を支配した 有力な首長の墳墓と考えられています。
令和6年3月
5世紀前半だと、ヤマトタケルの時代よりは後であるように思われ、当時この地域を支配していた有力な首長の墳墓というのが妥当といえば妥当なのだろう。
けれど、それはさておき、「ヤマトタケルの墓」として長く信じられていたのは確からしい。
以下は、加佐登神社で紹介されていた「白鳥塚の描かれた浮世絵」。
なんと、江戸時代には浮世絵としてよく描かれていたということだ。
https://www.touken-world-ukiyoe.jp/meishozue/
【白鳥塚の描かれた浮世絵 ①】
『五十三次名所図会(四十六 庄野 白鳥塚古跡)』~ 歌川広重
東海道、庄野付近から見た「白鳥塚古跡」です。
このシリーズが竪(たて)型版であるため、一般に「竪絵(たてえ)東海道」と呼ばれていま す。安政2年(1855) 広重晚年(59才)の作品となります。
広重の東海道作品は大体、横型の風景画が多いなかで、竪型物もいくつかあります。この名所図会シリーズではほとんどの宿が鳥瞰図(ちょうかんず)で描かれています。町並み等に 遠近法を用い、横型判では見られない雰囲気をかもし出しています。
[歌川広重(うたがわひろしげ)]
江戸時代の浮世絵師。東海道の風景を描いた浮世絵木版画「東海道五十三次」が有名、ゴ ッホやモネなどにも影響を与える。
[白鳥塚]
日本武尊の御陵とされる「白鳥塚古墳」は、江戸時代の国学者、本居宣長、平田篤胤らにより、諸国に広く知られることとなりました。 特にこの高宮の地(現在の加佐登町)は、東海道の宿場町「石薬師宿」と「庄野宿」の間 に位置していることもあり、都や伊勢へと向かう旅人たちが立ち寄るには最適の場所でし た。
この白鳥塚の側に、日本武尊の形見である「笠」と「杖」を納め、尊の御霊をお祀りした のが加佐登神社の元である「御笠殿社」です。ここにお参りすると「諸病平癒」の御利益があると、近隣諸国に知られておりました。
【白鳥塚の描かれた浮世絵 ②】
『双筆五十三次(四十六庄野女人旅)』~歌川国貞・歌川広重合作
歌川広重と歌川国貞(三代目歌川豊国)の合作『双筆五十三次(そうひつごじゅうさんつ ぎ)」安政2年(1855年)の作品です。東海道庄野付近から見た「白鳥塚古跡」です。
「双筆」とは、二人の絵師による合作のこと。東海道五十三次の宿ごとに、前景の人物を 国貞(三代目豊国)が、背景の風景を広重が担当しています。豪華なコラボですね。 旅姿の女性が二人描かれており、コマ絵は一面の雪景色。陀面中央に鳥居、その先に熊野 ノ社(熊野神社、現在は加佐登神社に合祀、後ろの小社の一つが式内社倭文神社)が見える。 画面左遠景の丘が「白鳥塚」となります。雪景色もまた風情がありますね。
[歌川広重(うたがわひろしげ)]
江戸時代の浮世絵師。東海道の風景を描いた浮世絵木版画「東海道五十三次」が有名、ゴッ ホやモネなどにも影響を与える。
[歌川国定(うたがわくにさだ)]
江戸時代の浮世絵師。のちの三代目歌川豊国。美人画、役者絵などを描き、生涯の作品数は 1万点以上に及ぶ。「豊国にかほ(似顔)、国芳むしや(武者)、広重めいしょ(名所)」と云われる。
【白鳥塚の描かれた浮世絵 ③】
『東海道名所風景(御上洛東海道、行列東海道)」より『東海道名所之内 白鳥明神』 ~一橋齋艷長筆
これは歌川国芳の三回忌にあたる文久3年(1863年)4月に版行された揃物の錦絵で、 師の芳艶とともに参加しています。東雲の白鳥塚の情景、第14代将軍徳川家茂の行列です。 艶長は御上洛東海道では2枚を描いています。 文久元年(1861)に芳艶の大判錦絵三枚揃い「鎌倉殿中慶賀の図」で艶長の署名のある画 中があることから、かなりの腕であると考えられています。
当時は「白鳥明神」とも呼ばれていたようで、公に記載のあるものはかなり珍しいもので す。当社に明神鳥居が奉納されているのも、このことからかもしれません。
[一橋斎艶長(いっきょうさい つやなが)]
江戸時代末期から明治時代にかけての浮世絵師。歌川芳艶の門人。生涯は良くわからない ようです(生没年不詳)。『浮世絵師便覧』(飯島半十郎著)によれば芳艶門人として明治期 に活動したとされるが、俗名や経歴については不明。作は他の絵師たちとの合作による「東海道名所之内」が知られるのみである。
【白鳥塚の描かれた浮世絵 ④】
『書画五拾三駅 伊勢庄野 白鳥塚遠景』 ~ 歌川芳虎
明治5年(1872)の作品、歌川芳虎作「書画五拾三駅」です。
庄野の田植えの風景から白鳥塚古墳を遠景に望みます。男性は洋装で、髪型も維新後らしいですね。上には鳥が描かれていますが、どうも白鳥ではないような・・、せっかくなら白鳥にしてほしかったですね。
[歌川芳虎(うたがわよしとら)]
歌川国芳の門人で通称は辰五郎。作画期は天保年間(1830-1844)から明治20年頃(生 没年不詳)。安政5年頃(1858)に国芳の門を去りましたが、明治初年には人気絵師と して名を上げており、師・国芳風の武者絵や、維新前後の目新しい風俗を描いた横浜絵や開化絵などで幅広く活躍しました。
[白鳥塚]
日本武尊の御陵とされる「白鳥塚古墳」は、江戸時代の国学者、本居宣長、平田篤胤らにより、諸国に広く知られることとなりました。
特にこの高宮の地(現在の加佐登町)は、東海道の宿場町「石薬師宿」と「庄野宿」 の間に位置していることもあり、都や伊勢へと向かう旅人たちが立ち寄るには最適の場所でした。
この白鳥塚の側に、日本武尊の形見である「笠」と「杖」を納め、尊の御霊をお祀りしたのが加佐登神社の元である「御笠殿社」です。ここにお参りすると「諸病平癒」の 御利益があると、近隣諸国に知られておりました。
【白鳥塚の描かれた浮世絵 ⑤】
『東海名所改正道中記(庄野)』 歌川広重
「東海名所改正道中記」は、「東海名所改正五十三驛」とも云われ、歌川広重(うたがわひろしげ)の作品です。明治前期の東海道各宿駅の風景が華やかな色彩で 描かれているシリーズの1枚となります。
明治8年(1875)の出版で、初代歌川広重の「東海道五十三次・保永堂板」からは、およそ40年後の作品ということになります。
旅の絵といえば、初代歌川広重の「東海道五十三次」が有名ですが、この「東海名所改正 道中記」は、東海道の主要な宿場とその付近にある観光スポットを描き、更に文字で関連事項を記入してくれています。
ここに書かれている文字は・・・
「白島塚(志ら志まづか)」、「範頼の社」、「佐々木高綱の乗りて宇治川にて先陣なしたりしとぞ」の3点。
当社に関わりのあるのは、「白島塚(志ら志まづか)」の記載。白鳥(しらとり)」塚が「白島(しらしま)」塚となっていることがかえって貴重ですね。書き間違えた上に、さらに文字の通りに読み仮名をつけてあります。
また、籠ではなく、「人力車」が描かれているのが、維新の後らしい風景ですね。交通手段として、東海道でも人力車が走りだしたようです。
なお、鳥居と共に描かれている「熊の権現」(熊野神社)は、延喜式内社倭文(しどり) 神社とともに、明治41年加佐登神社に合祀されております。
≪ヤマトタケル白鳥伝説≫
・ヤマトタケルの墓決定後に出来た能褒野神社(のぼのじんじゃ)
・ヤマトタケルの笠(かさ)を祀った加佐登神社(かさどじんじゃ)
・歌川広重「五三次名所図会」等、浮世絵にも描かれた白鳥塚古墳
















