6月某日、ヤマトタケルの墓巡りをしました。

 

能褒野神社

 

最初に訪れたのは能褒野神社

 

 

『古事記』や『日本書紀』によると、ヤマトタケルは能褒野(能煩野)で亡くなります。

そしてそこに、最初の墓が造られます。

 

能褒野神社

 

「能褒野にある墓」がどこなのかは諸説あるのだけれど、明治12年(1879年)に明治政府によって比定されたのはここ、亀山市田村町の能褒野王塚古墳よ。

サムネイル

 

能褒野王塚古墳

 

能褒野王塚古墳

(景行天皇皇子日本武尊能褒野墓)

名: 丁字塚古墳

 

三重県亀山市田村町1393

 

能褒野王塚古墳


御幣川と安楽川の合流点に近接する、標高四五m程度の段丘端部に所在する前方後円墳である。

 

能褒野王塚古墳

 

全長九om、後円部径五四m、同高九m、前方部幅四Om、同高六・五mで、北勢地域最大規模の古墳である。

 

能褒野王塚古墳

 

この古墳から採取されたという鰭付朝顔形円筒埴輪や器材埴輪から四世紀末頃の築造と考えられる。

 

能褒野王塚古墳

 

これらの埴輪は、奈良県北部地域や京都府西南地域との関係がうかがえ、畿内周辺地域の勢力が濃尾地方へ伸展するルート上にある地理的条件によってもたらされたものであると考えられよう。

 

能褒野王塚古墳

 

日本武尊(倭健命)が東征の帰路に伊勢国能交野(能煩野)で薨じたとの『記紀』記述により、明治十二年(一八七九)

内務省によって「景行天皇皇子日本武尊能野墓」に定められ、墳丘の修復に併せて、畿内の王陵墓に倣い周庭帯が設けられた。

 

能褒野王塚古墳

 

しかしながら、近世においてはこの古墳が日本武尊の墓という認識はほとんどなかったものと見られる。

 


周囲に十数基の円墳が所在し「培塚」とされているが、これらは後期古墳と考えられる。

 

平成十五年十月

電山市教育委員会

 

能褒野王塚古墳

 

 

 

 

≪ヤマトタケル白鳥伝説≫

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