明けましておめでとうございます
本年もよろしくお願いいたします
※AIに、「淡路島から見える初日の出」とお願いして作画してもらいましたが、この場所は実在しているのでしょうか?
久々に「『波多門部造』から想像される久米の歴史」の副題を付けた記事を書くために、国立国会図書館デジタルコレクションで検索していたところ、淡路島の野口に、淡道国造に定められたとされる矢口足尼が居住していたのではないか?という考察を偶然見付けましたので、ご紹介いたします。
野口 同じ村の地名也 野口氏の出たる處にや
矢と簳と通ひて矢口ものくちにて
矢口足尼の居たる處にや
仲野安雄氏著 淡路常盤草 巻之5-6 - 国立国会図書館デジタルコレクション 40コマからの引用ですが、読みやすくするために段落を変えました。
ログインなしで閲覧可能ですので、興味を持たれた方は原著をご確認ください。
伝承ではなく考察である点が残念なのですが、解説といえそうなものが、淡路国名所図会 巻之二 - 国立国会図書館デジタルコレクション の60コマ、「野口屋敷跡」の項にあります。
草書の箇所があるので、AIくずし字認識アプリ「みを」と「古文書カメラ®」の助けを借りましたが、大体次のように書かれているようです。
常盤草に矢と簳と通ひて矢口ものぐちにて
往古矢口足尼の居住せし所にやト云々
「簳」の読みに「の」があるのかと思ったのですが、漢字「簳」の部首・画数・読み方・意味など には、次のように書かれています。
音読み カン
訓読み やがら
意味 矢柄(やがら)。矢の幹。棒の部分。 しのだけ。しのだけの幹。矢柄を作るのに用いられる。
他にも幾つか調べてみましたが、「簳」の読みに「の」は確認できませんでした。
「淡路常盤草」の著者である仲野安雄氏については、兵庫県史 第5巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション の115コマで、「豪農としての経済力の余裕から学問を深く身に着けた」ことなどを知ることができました。
なので、当時は「簳」の読みに「の」が使われていたのかも?と想像するのですが、
矢口(やぐち) →野口(やぐち)→野口(のぐち)と変化したという可能性もあるのではないでしょうか。
阿波の久米安芸守義広に興味を持つ私にとって、野口は大きな意味を持ちます。
たとえば、三好氏の系図から想像する土佐吉田氏と久米義広との関係について | 久米の子の部屋 で次のように書きました。
「志知」と「吉田」が揃いました。
もし、土佐の吉田備中守が三好実休の舅の一人であるならば、
そして、「野口万五郎の母」の母も吉田備中守の娘であるならば、
吉田備中守の同族が、野口氏の本拠地である 志知に関わり、
三好実休も居した勝瑞城の近くである吹田に住んでいても不思議はありません。
また、カミムスビの子らを結ぶライン | 久米の子の部屋 では次のように書きました。
伊勢の志知は久米村の字でしたので、淡路島の志知も波多門部の管理下にあったことを想像しました。
倭文神社と掃守神社と志知城も、直線状に並んでいます。
私にとって志知城とは、「久米の乱」とも記される鑓場の戦いで戦死した野口氏の城です。
久米義広を自刃させた三好実休が久米田で撃たれ死亡したことと合わせて、特別な意味があるような気がします。
今回知ったのですが、南あわじ市志知松本281に伊勢神社が鎮座していて、伊勢神社|兵庫県神社庁 神社検索 によると、天正4年(1576)、志知城主野口長宗本殿建立なのだそうです。
主祭神が 天照大神だから伊勢神社なのでしょうが、伊勢の志知が、伊勢湾岸地域の古代条里制 - 国立国会図書館デジタルコレクション の32コマ「第二章 伊勢国の条里制/ 第一節 桑名・員弁郡の条里制」に「六ノ坪=志知(久米村」と書かれていることから気になります。
そこで、「志知」の意味が気になったので検索すると、志知姓の由来 起源 ルーツ が見つかりました。「‘知’の由来」を引用します。
種類: 会意文字
意味: 知恵の知。矢と口を合わせた漢字。「矢」「口」はそれぞれに「誓う」という意味が含まれている。二つを合わせて「(神様に誓いが通じて)物事を悟る」様子を表す。しる。 しらせる。
由来: 「矢+口」で、矢のようにまっすぐに物事の本質をいい当てることをあらわす。
(引用終わり)
もしかして、「志知」という地名には、矢口足尼が隠されているのでしょうか。
なにせ、諷歌倒語を用いたという久米ですので、ありえそうな気もします。
野口長宗 - Wikipedia の「略歴」の項には、次のように書かれています。
『淡路常磐草』によると、野口則守の孫で菅弘宗の子。また、『昔阿波物語』では長宗は三好実休の子とされる。
(後略 引用終わり)
「矢口足尼の居たる處」の考察と同じく、『淡路常磐草』によるのですね。
「『昔阿波物語』では長宗は三好実休の子とされる。」について調べてみると、
三原郡史 - 国立国会図書館デジタルコレクション の485コマが出てきましたので、引用します。これは、野口長宗 - Wikipediaの出典でもあります。
野口氏の興亡
志知城の野口氏は南北朝時代の志知の武士である菅氏の子孫であるという。享禄年中(一五二八— 三一)管領家の畠山尚順(卜山)が領国河内を逃れて淡路に来り、野口氏を頼り志知川の光明寺で客死した。 野口氏が畠山家の家臣遊佐氏につながっていたからであった。
天文二十二年(一五五三) 阿波細川氏の家臣久米義広が三好義賢(実休)に対し義戦をおこした。主君細川持隆を弑した義賢を討つというわけである。義賢は淡路の安宅氏と野口氏の軍勢を招き、 中富川の鎗場のあたりで戦った(鎗場の義戦)。その時、久米方の野田内蔵助と志知の野口肥前という剛勇の二人が組み打ちをし、野口が助太刀をえて辛くも勝った話がある(『阿波国昔物語』。 『淡路常磐草』によると、野口肥前は、
菅道忠・・・・・ 野口則守 (肥前守)—菅弘宗 (万五郎—)野口長宗 (孫五郎)
となっている。また、同書には「将軍家譜に曰く、淡路安宅野口等三好一族也。 実休弟冬長野口之家を続ぐ。按ずるに冬長右の系図に見えず、則守同人にや」とある。しかし冬長が則守 (肥前守)と同人であるか否かは断定で きない。則守は遊佐氏の一族ともいう。
(後略 引用終わり)
「 野口氏が畠山家の家臣遊佐氏につながっていた」のですね。
これで、やっと 野口氏と遊佐氏との繋がりが分かりました。
上の系図は、三好氏の系図から想像する土佐吉田氏と久米義広との関係について | 久米の子の部屋 にも貼った、「芥川系図」(諸系譜 第5冊 - 国立国会図書館デジタルコレクション96コマ)の一部です。
左端に記された女子は野口万五郎の母であり、遊佐長孝の室でもあるということです。
遊佐長孝は、本朝通鑑 第十四 (国書刊行会刊行書) - 国立国会図書館デジタルコレクション 120コマに、「畠山高政及遊佐長孝去高屋城」と書かれています。
Wikipediaで調べていくと、畠山尚順(卜山)の息子が畠山政国で、政国の息子が畠山高政という三代ということです。
畠山高政 - Wikipedia の「生涯」の項には、次のように書かれています。
(前略)
永禄5年(1562年)3月5日[20]、和泉久米田の戦いにおいて、長慶の弟である三好実休を討ち取るという戦果を収めて、高屋城を奪還する。
(後略 引用終わり)
畠山高政が三好実休の娘の夫の主君ということならば、三好実休は娘の夫が敵側という状態で久米田で討たれたことになります。
三好実休は舅である久米義広を自刃させているので、因果応報ということなのでしょうか。
私は、三好実休の子供の中に、実休の正室であった久米安芸守義広の娘が産んだ人物がいるのでは? と想像しています。
「芥川系図」を信じるならば、野口万五郎の母の母は不明ですので、久米義広は野口万五郎の祖父である可能性が出てきます。
最近までは、自分でも妄想に近いと思っていたのですが、前出の淡路国名所図会 巻之二 - 国立国会図書館デジタルコレクション の40コマの「古城蹟」の項に、「天文年間久米安藝守居住及此人旧奥州二本松より来住して」とあるのに気付きました。
奥州二本松は、戦国時代まで畠山氏の所領だったということです。
久米安藝守が居住していたという古城蹟の位地を調べると、淡路之誇 : 御大礼紀念 上巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション の24コマの廣田村に「中條古城(久米安藝守住)」というのがあるのが分かりました。
廣田村で検索し広田村 (兵庫県) - Wikipedia を見付け、次に、兵庫県南あわじ市中条中筋に久次米という地名があることを知りました。
その位置をグーグルマップで確認していて、久米安藝守義広の居城跡と伝わる芝原八幡神社を直線で繋ぐと、高知県南国市久礼田へと向かうことに気づきました。
グーグルマップで分かった経緯度を地図に複数住所を一括表示 | しるしーずに入力し、表示されたポインターの先を繋いでみると、偶然とは思えないラインになりました。
1,久次米、兵庫県南あわじ市中条中筋
34.31124809173547, 134.82863963032435
2,芝原八幡神社のイチヨウの木、 徳島県徳島市国府町芝原宮ノ本
34.09267862891825, 134.46354806805186
3,久礼田、高知県南国市
33.61784018714873, 133.64952579522807
久米さん高知県南国市ランキング|名字検索No.1/名字由来net|日本人の苗字・姓氏99%を掲載!! で確認できるのですが、久礼田は久米姓の人が多い地なのです。
これが、私が久礼地名を気にしている元々の理由です。
豊臣政権下の土佐国の久礼田について知るには、長宗我部地検帳にあたるのが良いように思います。 殖田郷久礼田村地検帳(天正十六年十一月十五日)は、長宗我部地検帳 長岡郡 下 - 国立国会図書館デジタルコレクション の118コマからです。
そこには「久米」は記されていませんが、ファミリーサーチ・カタログ:御侍中先祖書系図牒 [ 久米養恵、久米克吉家系図 ] に「 初称沢村。」とあり、沢村姓は久礼田村地検帳に多数見つかります。
けれど、沢村姓で久礼田に多くの土地の権利を長宗我部地検帳において持つ人物が、後に久米に復姓した家とは別であることが、その方のご子孫と運良く知り合うことができたおかげで、ほぼ確認できました。
私は、「久米養恵、久米克吉家系図」を高知県立図書館にコピーしてもらい持っているのですが、「先祖澤村喜右衛門廣實 生国阿波」は「久米安芸守藤原義廣嫡男也 幼名亀壽丸義實」とあります。
通説では、久米義広の嫡男である亀寿丸は、久米義昌 - Wikipedia にあるように、蜂須賀正勝の家臣となり、天正13年(1585年)の四国攻めで、当時は長宗我部方だった一宮城の攻略で、断水による水攻めを進言したといいます。
なので、「久米養恵、久米克吉家系図」を鵜呑みにしないようにしているのですが、阿波で久米義広の子孫と伝える4つの家の系図が、全て一致しているわけではないのです。
今回注目したのは、上助任村を代表する旧家・烏野氏から徳島藩に仕えた宇野氏の系図です。
とくしまヒストリー ~第21回~:徳島市公式ウェブサイト によると、「その期間は長いものではなかったが、助任は豊臣家、そして徳川家の時代の初めには城下町徳島の玄関口になっていた。」ということです。
名東郡史 - 国立国会図書館デジタルコレクションの214コマには、次のように書かれています。
上助任村 烏野氏 郡付浪人なり。久米義広戦死後、其子烏ヶ森に蟄居し、七郎左衛門と改名せり。 家政入国の時これを出迎へ 、一宮城等の案内を勤む。以後も藩主の優待を受けてゐた。其子孫一度板野郡へ移りしも、又た当村に来り住む 本人一人は夫役銀御免である。
(引用終わり)
宇野家が徳島藩に提出した家譜には、「嫡子長門秀廣儀病身」とあります。
つまり、久米義広の嫡子は、宇野家の先祖である長門だというのです。
一方、久米義昌の子孫の家譜には、久米義広の嫡子とは書かれていないようです。
「長門」は、久米邦武の先祖は、阿波の久米義広と同一人物か? | 久米の子の部屋 で注目した久米長門守との関係が気になります。
東与賀町史 - 国立国会図書館デジタルコレクション の123コマに、天文22年に龍造寺隆信が久米長門守らを指揮官にしたことが書かれているのですが、
久米博士九十年回顧録 上巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション の8~9コマには、歴史学者である久米邦武の先祖の久米義廣が、龍造寺隆信の家臣として天文22年に戦死したことが書かれているのです。
ややこしいので、久米邦武の先祖を義廣、阿波の方を義広とします。
義廣が、阿波で天文22年に起こったと伝わる「鑓場の義戦」で戦死した義広と同一人物である可能性はあるのでしょうか。
もともと義廣が従っていた大内義興は、義広の主君である細川持隆の正室の父なのですが、一条房冬の室の父でもありました。
一条房冬は土佐一条氏の2代目当主で、6代・政親は、外祖父・長宗我部元親の家臣久礼田定祐に養育されたと伝わります。
久礼田に土佐一条氏の当主が住んでいたのですから、久米義広の子孫と称する家とも少なからず関わりがあったはずです。
本能寺の変が起きた時の関白でもある一条内基の父・房通は、土佐一条氏初代当主・一条房家の次男です。
つまり、大内義興の娘は、やはり関白を務めた一条房通の兄弟の室となっていたのです。
土佐一条氏の第5代当主である内政の母は、伊予の大洲城主・宇都宮豊綱の娘ですが、大洲には、久米義広が居したと伝わる久米庄があります。
これらの繋がりを知ると、義廣と義広は同一人物で、息子のうち一人が土佐の久礼田にいても不思議はないと思えてきました。
阿波の久米義広について伝承で私が信用しているものに、阿波水軍を率いた家の祖が、森飛騨守と久米安芸守の取次で阿波国守護の細川氏に仕えたというのがあります。
家祖・佐田九郎左衛門は因幡国出身とされることから、森飛騨守と久米安芸守のどちらが、佐田九郎左衛門についての情報を持っていたのか気になっていたのですが、久米安芸守が奥州二本松でも本当に活動していたとしたら、因幡と阿波などは近いものです。
次に気になるのは、久米安芸守の人物像ですが、太田亮氏 著 姓氏家系大辞典 第2巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション の510コマ(「久米 クメ 30 清和源氏小笠原氏流」)に、次のように書かれていることが、もしかしたら参考になるかもしれません。
(前略)
三好家記には「細川持隆の家臣に久米安芸守と云ふ者あり。(中略)」と見ゆ。
豐鑑に「別所弟小八郎を始め、久米五郞云々」と、此の久米氏ならん。
(後略 引用終わり)
久米五郞は久米安芸守と同じ氏族であろう、と太田亮氏は考察していると思われるのですが、その根拠は分かりません。
『信長の野望・天道』で兵庫県三木市にまつわる武将データ配信 - 電撃オンライン によると、久米五郞は「三木合戦の際、敵軍に紛れて羽柴秀吉の陣に潜入。秀吉に切り掛かるが、取り押さえられて討死した。」とのことです。
久米邦武氏の先祖の義廣は、赤熊を冠りて村田樂浮立に擬し、大手口に奇襲して大に之を破ったそうなので、家来を大勢引き連れるというタイプではないように思います。
・・・ここまで書いて、今日は1月7日であることに気づきました。
あと少しで、関東地方の松の内が明けますので、新年最初の投稿をしたいと思います。
年ばかり重ねて成長しませんが、本年も久米について学んだことなどをご紹介させていただきたく存じます



