前回のクメールに繋がった?久米のライン | 久米の子の部屋 の最後で、奄美の奄美姑神社(阿麻弥姑神社)ー久米島の天宮城ー古見島の古見岳ーオ・ケオのラインが偶然ではないのなら、オ・ケオに似た名前が日本にあるのでは? と妄想しました。
そして、伊賀市の久米の地と、桶子(おけご)神社の旧社地が1㎞ほどしか離れていないことを知りました。
そこで、扶南に似た名前の寺社などの位置を地図で確認し、ラインを見付け、それを今回はご紹介する予定でした。
けれど、本当は、最初に思い出さなければいけない人物があったことに気づきました。
それは、オケ王(後の仁賢天皇)とヲケ王(後の顕宗天皇)の兄弟です。
[ID:31958] くめのわくご : 資料情報 | 研究資料・収蔵品データベース | 國學院大學デジタル・ミュージアムによると、
「紀(顕宗天皇即位前紀)に顕宗天皇(弘計天皇)の更名(またのな)として『来目稚子』とある」ということですから、
日本の正史にヲケオウとクメの近さが記されていることになります。
おまけに、オケ王とヲケ王を発見し朝廷に報告したのは伊予来目部小楯ということから、クメに対する印象が強まります。
更に気になるのは、二人の同母姉の別名である青海皇女(あおみのひめみこ)について、飯豊青皇女 - Wikipediaの「名前」の項に次のように書かれていることです。
(前略)
また、「青」とは、縄文中期以降、東北アジアで財宝となっていた日本列島産出の翡翠(ヒスイ)のことを表すこともあり、「青海」(あをみ)とは、海際で翡翠を産する地、の可能性もある。
(引用終わり)
「オ・ケオ」はクメール語で「水晶の運河」を意味するそうです。
翡翠は水晶ではありませんし、運河=海ではありませんが、「翡翠の海」と「水晶の運河」は私としてはイメージが重なります。
とはいえ、これだけでは、いくら素人のブログとはいえ、「日本の正史にクメールの要素が組み込まれている」とは言えないと思いました。
そこで、クメールの神話で日本の神話に似たものを探すことにしました。
外国の神話なのに、日本の神話と似ている有名なものに、ギリシャ神話「オルフェウスとエウリュディケ」と「イザナキとイザナミ」の、亡くなった妻を死後の世界から連れ戻そうとして失敗する話があります。
比較神話学の本に何冊当たれば、クメールと日本の神話で似たものが見つかるのだろう? と検索を始めたのですが、すぐに吉田敦彦氏 著ギリシァ神話と日本神話 : 比較神話学の試み - 国立国会図書館デジタルコレクション が見つかりました。
95コマから引用します。
王家の祖先が海神の娘と結婚するという話素に関しては、日本のヒコホホデミとトヨタマヒメの婚姻の物語はまた、印度支那周辺に分布する、主人公が水中または地下に住む竜王(ナーガラージャ) の娘の竜女と結婚して王家を興すという形の伝説との類似を指摘されて来た。この型に属する印度支那伝説の典型的一例として、古代クメール王国の全盛時代の王都アンコール・トムの起源を説明する、 次の説話を掲げておこう。
ムオンロンまたはロマヴィセイという国の王子プレア・トンは、度重なる乱暴のために人民の顰蹙を買い、遂に父王の命令によって髪を短く刈られ肩に木の枷を嵌められ、筏に乗せられて海に流され てしまった。筏は波のまにまに漂って行くうちに、シェンレアプの近くのある島に流れ着いた。王子が島に生えていたトロク樹の枝を掴むと、彼の身体は瞬く間に木の天辺まで持ち上げられ、木はぐんぐん高さを増しはじめた。王子が慌てて木から下りて見ると、その幹に洞があって地下の竜の国(ナーガローカ)まで道が続いていた。彼がその道を下りて行くと、途中で竜王フネア・ナクの娘ナン・ ナク姫が、 水浴のために上がって来るのと出会った。 ナン・ナクはプレア・トンの凛々しい姿を見て、 彼に好意を抱き、彼を父王の宮殿に案内した。竜王もまたプレア・トンが気に入り、さっそく彼を娘と結婚させた上に自分の後継者に任命した。しかししばらく地下の世界で暮すうちに、プレア・トンは地上がたまらなく恋しくなり、ともすれば溜息ばかり漏らすようになったので、竜王も致し方なく地上にアンコール・トムを築いてやり彼をその国の王にした。
(後略 引用終わり)
王子が樹のところにいて王女との出会いのきっかけになったことや、故郷を思って溜息をつくことなどの共通点は、山幸彦と海幸彦 - Wikipedia で確認できます。
私が今まで知っていたのは、カンボジア - Wikipedia の「国名」の項にあるように、「インド系の商人クンダンニャ(Kaundinya)とナーガ族の王女ソーマの婚姻によるカンボジア建国伝説」くらいでしたので、プレア・トンと ナン・ナクの話には驚いてしまい、引用することを一時はためらいました。
けれど、次の96コマに、吉田敦彦氏がKaundinyaをカウンディニャと読んでの考察がありましたので、引用します。通読せずに検索機能に頼っていますので、こういう見落としをしやすいのです。
(前略)
ところでわれわれが他所(「東アジアの太陽王朝創建神話ー比較構造論的分析の試み」 『成蹊大学文学部紀要第六号』一九七〇)でくわしく論じたように、この型の説話は印度支那ではカンボジャにおいて特に古く、三世紀前半にはすでに存在していた。そのもっとも古い形は、晉書、南斉書、梁書などに記さ れた扶南の伝説と、チャンパの碑文の記述との比較から復元される、次のようなものであったと見ら れる。
婆羅門僧カウンディニャ(混填)が、ドゥロナの息子アシュヴァトターマンから授けられた投槍 (または弓)を携え、外国から海を渡って単身カンボジャに来り、竜王の娘ソマーと結婚して王家を 開いた。
そしてこの伝説はセデスの研究によって明らかにされているように、実はドゥロナの子アシュヴァ トターマンが、一人の蛇女と結婚してガンガ・パラヴァス王家の始祖となったという、南インドの伝説が東へ伝播したものであった。インドにはこの型に属する王朝創建伝説は、数多く見出されるが、これらはすでに指摘されているように、ヘラクレスがボリュステネス河にほど近い洞窟の中で、上半身は人間の女、下半身は蛇の形をした蛇女と媾合し、スキュタイ王家の祖スキュテスを含む三人兄弟 の胤を授けたという、ヘロドトスの伝えるスキュタイ伝説とも同型である。 専門家の一部には、 東南アジアに見られるこの型の王朝創建伝説の起源をスキュタイに求める説を唱えるものもある。このように日本のトヨタマヒメ伝説との親近性が従来から指摘されて来た印度支那の竜女伝説は、その起源を辿って行くと究極的には、古代スキュタイ神話とも類縁である可能性がすこぶる濃厚なのである。しかもこの型に属する印度支那伝説のどれと比較しても、前掲のオセット説話は日本神話との類似が はるかに著しい。
(後略 引用終わり)
スキュタイ云々については、今のところは、私の興味の範囲外です。
私が、飯豊青皇女とカンボジアとの共通点として気になるのは、「第22代清寧天皇の崩御後に一時政務を執ったとされ、飯豊天皇とも呼ばれる。」ことと、古代クメールが女王によって治められていたことです。
ログインなしで閲覧可能なASEAN諸国のジェンダー政策 : ミャンマー・カンボジア・フィリピン (CLAIR report) - 国立国会図書館デジタルコレクション の50コマから引用します。
カンボジアでは、太古の昔には女性の地位は比較的高く、古代クメールの歴史上では、女性の優れた指導者が数多く存在した。カンボジアでは伝統的に母系制である。既にアンコール時代では王の世継ぎを決めるのに母系制の伝統が適用されてきたことを示す碑文が残っている。
現在のカンボジア領土と重なる最初の古代国家フナンは、ネアン・ネアクという女王によって統治されていた。また、9世紀以降、サンパウルと呼ばれた王国は、代々、女王によって治められていた。また、女王たちは哲学に造詣が深く、瞑想を学び、大乗仏教の導入にあたり、王に絶大な影響を及ぼしたとされている。アンコール王朝においても、意思決定やその他の場面で支配的な役割を果たしていたのは女性であった。
また、クメール語でMeとは「母」を意味し、「Me toup(司令官)」「Me krom(指導
者)」のような派生語が生まれる等、言語学的観点から見ても女性の地位が、古代クメールの歴史上において高いことが伺える。
「メ」が「女」の訓読みであること、ヒメヒコ制のことなどから、クメールと日本との共通点といえるのでは? と感じています。
ところで、もし、飯豊青皇女とナーガ族の女王との関係を神社の位置関係で匂わせるとしたら、どこを見ればいいのだろうと考えて思いついたのが、イザナミとイザナギでした。
飯豊青皇女は、政務を執った忍海高木角刺宮の伝承地である角刺神社(つのさしじんじゃ)の位置が重要だと思ったので地図で確認したのですが、伊弉諾神宮のほぼ真東であることに気づきました。
〇淡路國一宮 伊弉諾神宮、 兵庫県淡路市多賀740
34.4600676732301, 134.85249357534948
〇角刺神社、 奈良県葛城市忍海322
34.47671722744883, 135.7305113435886
〇熊野本宮大社、和歌山県田辺市本宮町本宮1110
33.84025, 135.773583
これだけでも結構驚いたのですが、角刺神社のほぼ真東には、皇大神宮(伊勢神宮 内宮)があります。
飯豊青皇女は天皇だったという説があることを考え合わせると、単なる偶然ではないように思えます。
そして、もうひとつ気になるのが、別名に「青海皇女」があり、政務を執った伝承地が「忍海」であることです。
伊弉諾神宮と伊勢神宮 内宮の鎮座地が海の近くですし、熊野三山のうち、海に一番近い熊野速玉大社との位置関係が気になりました。
そこで、熊野速玉大社と角刺神社を結ぶラインを海の方、つまり北方に伸ばすと、浦嶋神社(宇良神社)の辺りに向かうことが分かりました。
けれど、少し東を通ってしまい、どうやら若狭湾に入ってしまっているようです。
忍海高木角刺宮は、現在の角刺神社の境内より広かったのだろうと想像しました。
角刺神社 (改定) | かむながらのみち ~天地悠久~ を拝読して知ったのですが、角刺神社は「大和葛城山」の東側平坦地に位置しているけれど、紀の顕宗即位前記に「倭邊也(やまとべに) 見まほしものは 忍海の この高城 名は角刺宮」とあるのだそうです。
現在の角刺神社の少し西側をラインが通れば、ちょうど浦嶋神社(宇良神社)に着くのかもしれないのでグーグルマップで確認し、久米の岩橋があることを思い出しました。
けれど、久米の岩橋は、熊野速玉大社と浦嶋神社(宇良神社)を結ぶラインからは少し西に外れてしまいます。
そこで目を付けたのが、旧忍海郡14ヶ村の総鎮守社である葛木坐火雷神社(笛吹神社)です。
上のグーグルマップには、☆資料館☆ くすり資料館 (附 飛鳥時代からの高取と薬) | かむながらのみち ~天地悠久~ のコメント欄にて天地悠久様に教えていただいた「薑(はじかみ)」の地も入れてあります。
「薑」は「大和志」によると、紀の履中天皇即位前紀にある「攪食の栗林(かきはみのくるす)」の「攪食(かきはみ)」が「薑(はじかみ)」に転訛したものとしているということですが、私としましては、久米歌のハジカミと関係があるのでは?と気になっています。
葛木坐火雷神社 (改定) | かむながらのみち ~天地悠久~ によると、
「葛城山麓の東麓、小山の頂付近に鎮座する社。計百段はあろうかという石段を登った先に社殿があり、ご本殿右(向かって左)には古墳の横穴式石室が顔を覗かせています。」とのこと。
そして、宝賀寿男氏を会長とする古代氏族研究会公認HP『古樹紀之房間』の管理人・樹堂氏が「笛氏と笛吹連 wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/fuefuki1.htm」の中の「Ⅱ 樹童の感触・検討など」で次のように考察されていることから、葛木坐火雷神社と久米との近さを感じました。
(3) 葛木坐火雷神社で祀られる火雷神は、紀伊国造・大伴連などの山祇族の祖神であり、笛吹神社は尾張連などの海神族が祀る神社であるから、これは本来は別社であって、どこかで混同ないし併祀され、同じ地域において祀られた結果だと思われる(『日本の神々4大和』の葛木坐火雷神社の項、木村芳一氏もほぼ同旨か)。笛吹神社は式内社ほどの神格がなかったことにも留意しておきたい。
(後略 引用終わり)
熊野速玉大社ー葛木坐火雷神社ー浦嶋神社(宇良神社)のラインは、次のように良い感じです。
1,熊野速玉大社、 和歌山県新宮市新宮1番地
33.732167, 135.983528
2,葛木坐火雷神社(笛吹神社)、 奈良県葛城市笛吹448
34.471741351517885, 135.71006251357903
3,浦嶋神社(宇良神社)、 京都府与謝郡伊根町本庄浜191
35.728889, 135.257806
上のラインを見付ける過程で、若狭彦神社と熊野本宮大社、そして、新沢千塚古墳群が東経135度46分で南北に並んでいることに気づきました。経緯度は、Wikipediaから引用しました。
上若狭彦神社
上社:北緯35度27分57.9秒 東経135度46分42.5秒
下社:北緯35度28分44.1秒 東経135度46分48.3秒
熊野本宮大社
北緯33度50分24.9秒 24.9秒 東経135度46分24.9秒
新沢千塚古墳群
北緯34度28分40.3秒 東経135度46分26.2秒
本当は、新沢千塚古墳群ではなく久米御縣神社が南北に並ぶことを期待したのですが、東経135度47分24秒と少し東にズレています。
東漢氏と〝久米〟との関係について | 久米の子の部屋 にも書きましたが、「新沢千塚古墳群は、大伴・久米氏の墓域で、そこには東漢氏も葬られていることが126号墳の埋葬品から考えられるという説に私は共感しています。
東漢氏の後裔に坂上氏があり、代表的な人物に坂上田村麻呂がいますが、清水寺を建立していることが今回気になりました。
清水寺 - Wikipedia によると、清水寺の 東経は135度47分6.01秒。
久米寺 - Wikipedia によると、久米寺の東経は135度47分24.11秒です。
これは、偶然なのでしょうか。
坂上田村麻呂に清水の地を与えたのは桓武天皇で、桓武天皇の諱は山部。
坂上田村麻呂が最初に功を上げたのが、大伴弟麻呂の副将の一人としての東征だったことからも、清水寺と久米寺が南北に位置するのは意図されたことのように、私は感じています。
新沢千塚古墳群はともかく、若狭彦神社と熊野本宮大社が南北に位置するのが偶然ではないとして、共通点は何だろう?と考えましたが分かりません。そこで、検索エンジンにたずねると、「近畿の五芒星」なるものを教えてくれました。
国立国会図書館デジタルコレクションで検索すると、中学生の社会 (高校受験講座 ; 第2) - 国立国会図書館デジタルコレクション 15コマ目に、次のように書かれているのを見付けました。
C)リアス式海岸 山地が沈降してできた溺れ谷の海は、山地が海に迫っているが水深があるので港として良い。日本では三陸·若狭·熊野灘沿岸がこれである。
もしかしたら、航海する人たちにとって、良港が南北に位置することは奇跡のようなことなので、それぞれに特別な神を大切に祀ったということなのでしょうか。
けれど、若狭彦神社について書かれたものに幾つか目を通しても、熊野との繋がりは見つかりません。
ところが、若狭彦神社から東大寺二月堂への「お水送り」は、まさしく南北の繋がりであることを地図で確認できました。グーグルマップを貼る前に、若狭彦神社 - Wikipediaの「主な祭事」の項を引用します。
・お水送り
若狭彦神社の神事としては「お水送り」が知られる。当地の伝承では、ある年、奈良市の東大寺二月堂の修二会で神名帳を読んで全国の神を招いたが、遠敷明神は漁で忙しかったため遅刻してしまった。そのお詫びとして、遠敷明神は二月堂の本尊である十一面観音にお供えの閼伽水を送ると約束したという。白石から下った所にある鵜ノ瀬と呼ばれる淵は、二月堂の若狭井に通じているとされている。旧暦2月には、鵜の瀬で二月堂に水を送る「お水送り神事」が行われる。その水を受けとる祭事が二月堂の「お水取り」である。ただし、今日では、元は当社の神宮寺であった若狭神宮寺が主体となって行われている。2015年(平成27年)4月24日、「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群 - 御食国(みけつくに)若狭と鯖街道 - 」の構成文化財として日本遺産に認定される。
(引用終わり)
若狭彦神社と東大寺二月堂の位置をグーグルマップで見て、このラインが波多神社に続くことに気づきました。
マーカーは、若狭彦神社ではなく、「お水送り神事」の出発点である鵜ノ瀬にしてみました。
1,鵜の瀬、 福井県小浜市下根来
35.44768606959757, 135.79131733120914
2,東大寺 二月堂、奈良県奈良市雑司町406−1
34.68913526077421, 135.84425273777077
3,波多神社、奈良県高市郡明日香村冬野152
34.45707338674074, 135.85879567505293
大和志料 下巻 改訂版 - 国立国会図書館デジタルコレクション 144コマに「波多神社」の項があり、五郡神社記の記述を基に「門部氏ノ祖伸を祭レルナリ」と結論付けています。
門部連が大久米命の子孫であると伝えられていることから、若狭彦神社ー東大寺二月堂ー波多神社の繋がりがありそうだと確認すると、マーカーの先で繋がったというわけです。
若狭と東大寺との繋がりは良弁 - Wikipedia にも見つかりました。
良弁は東大寺を開山したのだそうです。
「生涯」の項より引用します。
持統3年(689年)、相武国造後裔の漆部氏の出身である漆部直足人の子として生まれる。鎌倉生まれと言われ、義淵に師事した。別伝によれば、近江国の百済氏の出身、又は、若狭国小浜下根来生まれで、母親が野良仕事の最中、目を離した隙に鷲にさらわれて、奈良の二月堂前の杉の木に引っかかっているのを義淵に助けられ、僧として育てられたと言われる]。東大寺の前身に当たる金鐘寺に住み、後に全国を探し歩いた母と30年後、再会したとの伝承もある。しかし現在では別人ではないかとされているなど、史実であるかは定かでない。ただし、幼少より義淵に師事して法相唯識を学んだのは事実である。
(後略 引用終わり)
鷲にさらわれて杉の木に引っかかっていた云々は信じにくいのですが、
「漆部直足人の子として生まれた」というのは本当なのではないか、と思います。
「漆部」といえば、高志国(越国)と久米との関係について | 久米の子の部屋 で宝賀寿男氏の考察を引用しましたので、再録します。
ところで、久米部族には同じように軍事を職掌とする物部氏に従属したものがあり、後に物部連の系譜のなかに織り込まれた氏がいくつかあった。例えば、漆部連は、「天孫本紀」には物部連一族で三見宿祢の後裔とされるが、大和国宇陀郡には床石足尼を祖とする漆部造があり、実際には大和の門部連の同族とみられる。
『大伴氏 列島原住民の流れを汲む名流武門』の139ページから抜き出しました。
たとえ、漆部連と漆部造とが大和の門部連の同族だったとしても、漆部直を一緒にしてはいけないと思いますが、繋がりはありそうです。
大和国宇陀郡の漆部についてもっと知りたくなり検索すると、渡辺伸一氏著「東大寺と水銀ー遠敷明神をめぐる考察ー」 のPDFが見つかりました。
11コマに、次のことが書かれています。
吉野の北東には隣接して宇陀があるが,図2に見るように宇陀地域にも昭和期まで多くの水銀鉱山があった。そこに見える大蔵鉱山は,宮滝から北へ直線距離で約8㎞の位置にある。宇陀地域も吉野と同様に神仙境と観念されていた時期がある。『日本霊異記』上巻第13話には,孝徳朝(在位645-654)のこととして,宇陀郡漆部里の女性が日々水浴し,仙草を食べることによってついに飛仙となって空を飛んだ話がみえている(和田1978:375)
(後略 引用終わり)
私が知りたかった大和国宇陀郡の漆部については、多分、これだけしか書かれていないと思います。
ところが、期待していなかった若狭と東大寺との関係についての情報は多く、6コマでは、「1991年,若狭彦神社と若狭姫神社との中間にあ たる地域で辰砂採掘跡が発見され,上質の辰砂が採取されている」「これによって,遠敷(小丹生) とは文字通り,硫化水銀(辰砂)を生じることに基づく 命名であったことが確実となった」ことなどを知ることが出来ました。
丹生といえば、『丹生祝氏本系帳』に小牟久君の名があるのですが、若狭彦神社の禰宜家の一族は、神社近辺の小地名牟久を名字の地として牟久氏を称したことが知られるのだそうです。
気になって「牟久」で検索すると、古事記における大国主神の「根国訪問」に、牟久の木(むくのき)が登場することが分かりました。
そういえば、根の国とは紀伊の国だという説がありますね。
ムクノキ - Wikipedia に、「ざらついた葉が漆器などの研磨剤に、」と書かれていますし、漆部にとって身近な木だったのでしょうか。
もし、本当にそうであれば、朱色の漆の材料となる丹を採取する人にとっても「牟久」は身近なものなのでしょうが…ムクを倒語で読めばクム…クメ。
久米に寄りすぎでしょうか(笑)。
一方、波多神社(奈良県高市郡明日香村冬野)の創建については、どちらかというと秦氏に傾いてきました。
何故かと申しますと、「若狭国遠敷郡遠敷郷に住む秦人牟都麻呂は、調という税として塩三斗を納めた。」という内容の木簡の存在が気になるからです。
そして、秦氏 - Wikipedia に目を通して、
「地方では秦人・秦部・秦人部という部民を支配して養蚕や機織、水銀の採掘・精錬や製塩などの生産活動に従事した。」
「忍海郡栗栖郷の戸主・忍海上連薬の戸口に、天平期ごろに優婆塞として貢進された秦伎美麻呂という人物が確認できる」
ということなどを知りました。
「平安時代の『新撰姓氏録』では秦の始皇帝の末裔とされるが、実際の出自については新羅系氏族とする説が有力である。」というのは、
『大同類聚方』には高市郡の波多神社に
新羅伝来の「志路木藥」が伝わるとある。
という脚注と繋ります。
久米である私としましては、波多神社が久米と繋がっていると思いたいのですが、久米の中から波多を名乗る人たちが出た時期と理由について、認識し直す必要を感じました。
長くなるので次あたりにしますが、東大寺二月堂と波多神社の間に、つまり、「お水送り神事」の出発点である鵜ノ瀬から続くラインの中に、石上神宮ー長岳寺(大和神社の神宮寺)ー大神神社が入ることに気が付きましたので、地図を貼っておきます。
奈良では、意図されていないラインが偶然出来てしまう確率が他より高いとは思いますが、意味深長なラインに私には見えます。
(竜王山の麓に建つ「長岳寺」には、もしかしたらナーガが隠されている?)
それから、福井県には水晶浜があることから、クメール語で「水晶の運河」を意味する「オ・ケオ」との近さを感じていることも最後に書き足して、拙稿をおわらせていただきます。

