はいどうも
まんとくんです
最近ちょっと
仕事とプライベートの境目が
混ざるような依頼を受けることがありました
子ども関係のことだったり
AIを使ったアプリやホームページの相談だったり
僕なりに考えて
こういう形ならできますよ
という提案を出したんです
でも相手の中には
もともと使いたいツールや流れがあった
僕は別のやり方でもできますよと出した
相手はこのツールでできませんかと返してきた
その時に
僕の中で少しだけ
熱が冷める感覚がありました
それやったら
自分でしたらいいやん
そんな反応が
自分の中から出てきたんです
そこで見えたのは
また僕の中に
自分が正しい
という感覚が立っていたことでした
人って
自分が正しいと思っていないと
どこか生きづらいところがあります
赤信号では止まる
車道の自転車には気をつける
人に砂をかけない
友達を押さない
社会の中で生きるための正解は
たしかにあります
でも学校の中で
丸がつく正解と
バツがつく間違いの世界に慣れていくと
いつの間にか
間違いがただの出来事ではなくなっていく
間違うことが
自分の価値が落ちることのように感じる
自分の存在が
小さくなるように感じる
だから僕らは
自分は間違っていない
という場所に立とうとするんやと思います
でも
自分が正しい場所に立ち続けるためには
目の前に
間違っている人が必要になります
失敗する人
抵抗する人
反抗する人
思った通りに動かない人
そういう人が現れるというより
そういうふうに見えてくる
今回の僕もそうでした
相手はただ
自分が使いたいツールでできるかを
聞いただけかもしれない
でも僕の中では
自分の提案に抵抗された
ように見えていたんです
この感覚は
子どもと接している時にも出ます
園の中で娘が
積み木をして遊んでいました
雨の日で
園舎の中で遊んでいて
そろそろ帰る時間になった
帰ろうと声をかけると
娘は泣きそうな顔になりました
普通ならそのまま
もう帰るよ
早く帰らないと
ご飯もあるし寝る時間もある
という流れになります
その瞬間
親の中の正しさが立つんですよね
でも子どもにとっては
そんな事情は関係ない
まだ遊びたい
積み木をもう少しやりたい
そこで僕は
少し一緒に遊びました
トンネルを作ったり
家を作ったり
帰ろうと言わずに
ただ一緒に遊んだ
すると娘の方から
もうこれ崩してもいい
と聞いてきたんです
いいよ
崩そう
と言うと
自分で崩して
自分で片付け始めました
不思議なことが起きたように見えるけど
実際には娘の中で
満足が起きただけだったのかもしれません
僕が
帰るのが正しいを握ったままだと
そこには抵抗が起きる
少し正しさを降りると
抵抗に見えていたものが変わる
この感覚は
断捨離にもつながっているなと思います
物を手放せない時
ただ優柔不断なだけではない
もったいない病だけでもない
その物を捨てた瞬間に
自分の一部が消えてしまうように感じることがあります
自分が正しいと思って
構築してきた世界を降りる時も
似た怖さが出ます
自分のアイデンティティがなくなるような怖さ
自分の立っている場所が消えるような怖さ
だから簡単には降りられない
でも
今の自分がどんな感情で生きているかが見えると
これからどんな感情を味わう現実が起きるかも
少し見えてきます
自分が正しいを握っている時
目の前には抵抗する人が現れる
自分が正しいを少し降りた時
相手はただ
相手の願いを出していただけだったと見えてくる
僕もまだ途中です
ただその途中で
また正しさを握っていたなと
気づけるようになってきた
今日はその自分を
少しねぎらってあげたいと思います
傲慢な自分も
正しくあろうとする自分も
少しずつ許していく
その先に
目の前の人を間違いにしなくてもいい世界
がある気がしています
今日もありがとうございました