2025年1月1日(元旦)の朝、卒業生のK君のお母さんから、私のラインに年始の挨拶が届いた。年始の挨拶の最後の方にK君のことが少し書かれていた。
『Kにとって、昨年は良い一年だったようです。Kの名前で会社の特許を取ることが出来ました。SNSを検索すると、Kの名前が出てきます。その開発が何なのか難しすぎて、私には分かりませんが、大変名誉な事らしくて、これから徐々に製品化されてゆくようです。親としては、息子も社会人6年目になりますが、安心して見ることが出来るようになりました。先生に於かれましても、お身体ご自愛くださいませ。』
=情報処理装置及びその制御方法、放射線撮影システム、プログラム=
発明者:F・K
出願人/特許権者:C社
公報種別(国際出願番号):○○○○・・・・
公開番号(公開出願番号):○○○○・・・・
出願日:20○○年○月○日
公開日(20○○年○月○日
要約:「課題」骨密度測定に必要な領域について位置合わせ・・・・以後略
請求項(抜粋):第一の放射線エネルギーに対応する第一の放射線画像・・・・以後略
この仕事に携わって40年、1000人近い子供たちと、関わって来た。中には・・・。『○○先生ですか。(私です)私は、中学生の時、そちらの塾に通っていました』。と、二代に渡って指導したこともある。その間、教師、官僚、大学教授、医師、看護師、弁護士、有名ラーメン店の店長、バーテンダー、公務員、クラシックのヴィオラ奏者、パティシエ、大工、銀行員、調理人、介護士、作業療法士、薬剤師、臨床検査技師、会社の経営者、タレント、デザイナー、半導体の研究員、公認会計士、税理士、一般企業・・・など、様々な分野で活躍している卒業生はいる。しかし、特許を取得した「発明者」は、初めてである。
『高校は、理系に特化した学部がある、私立高校に行きます』。と、K君は、地下鉄と電車を乗り継いで、家から1時間以上(往復で3時間ほど)もかかる私立高校を選択した。
毎朝6時半には、家を出て、帰りは7時過ぎという生活を、K君は、3年間続けた。K君も大変だが朝5時に起きて、食事の用意とか、弁当を作ったりするお母さんも大変だったであろう。加えて、生真面目なK君は、3年間一度も学校を休んだことはなかった。
高校入学の何日か前・・・。『本人が言うものですから・・・。毎週、日曜日、朝から学習をしたいので、教室を開けてくれませんか?』と、母親にお願いされた。
私は、毎週、日曜日、朝の9時半に教室に行き10時に、K君を迎え、夕方6時に教室を閉めた。リーダーシップ力の高いK君は、別段、優等生というわけでもないが、友人も多く、先生にも信頼されていたので、学校行事には積極的な参加し、中心的な役割を果たしていた。しかし、学校行事で休む日以外の日曜日は、3年間毎日、教室に通ってきていた。
3年間とは、ひとことで簡単に言い切ることは出来るが・・・。「雨の日」もあれば「吹雪の日」もあるし、猛暑の日もある。並大抵の努力で、できる事ではない。私は、K君を思い浮かべた時、躊躇なく「努力」という文字が思い浮かぶ。
K君のお母さんは、『Kには、それほど才能が有るとは思えませんが、努力する才能だけはあると思います』。が口癖であった。そして、学力よりも「人格形成」をとても大切にして、慈しむように、彼を育て上げていたように思う。
私は、夕方の6時に、教室を閉めに行った時、必ず、30分ほど話をした。それは、社会学の話だったり、歴史の話だったり、経済の話だったり、政治の話だったり、哲学の話だったり、宇宙の話だったり、物理の話だったり・・・。私にとって、とても楽しくも充実した3年間であったと思う。そんな3年間は、足早に、あっという間に過ぎ去りって行った。
K君から将来(大学)の相談を受けたのは、高校2年生の時であった。彼は、私の目をしっかりと見て・・・。『将来、医療機器の研究開発を目指したいので、○○大学の理工学部に行きたい』とはっきり言いきった。彼が、その道を選んだのは、必然的な事であったと思う。
彼が高校生になって、すぐに、私は、厚別区にある『開拓の村の中にある「札幌農学校の恵迪寮」に連れて行った』。彼は『寮歌「都ぞ弥生!」』が流れる寮舎の中に貼ってある、セピア色に染まった当時の学生たちの集合写真をじっと見つめていた。『自分が出来る、人々のためにという「志」』が形作られた瞬間であった。
K君が東京の大学に旅立つ朝、私はこんな手紙を送った。
『「努力」という、途轍もなく「美しい行動力」を示してくれたK君に』
Kくんの旅立つときがついにやってきたね。
今日、君に贈る手紙には、「困ったことがあったら、いつでも、ここに戻って来ても良いんだよ」。と書こう!
君は「夏休みに帰ってきたときは、必ず顔を出します。」と手を振って、私から旅立ってゆくだろう。
思えば、中学3年生のときから3年半の間、大切に育ててきた(つもり・・・)わけだが、成長して、私の手を離れることになった。
君が高校を卒業する日と、この手紙を書いている今日と言う日は、君の門出を祝い、竹鶴21年の封を切り、ひとり静かに祝杯を上げよう。
おめでとう。・・・がんばるんだよ。(それから、もう一つ、決して秋葉原には近づくなよ!笑)
私から送る言葉は、それだけだ。
そして・・・。
「困ったことがあったら、いつでもここに戻っておいで」
これは、すべての「私の生徒たち」に告げてきた言葉だ。
この言葉をKくんにも贈るね。
新札幌教室の扉は私の救援を求める「私の生徒たち」のためにいつでもあけている。
Kくんは私の大切なたいせつな「生徒で同胞(どうほう=仲間という意味だよ)」の一人だから、当然、新札幌教室の扉はいつも君のために開けておくよ。
人間としてどう生きるかについての話は、新札幌教室で3年半、飽きるほどしたはずだから、いまさら言い足すことはない。
そして、残念ながら、いまの日本、いや世界中は、君たちが集団として幸せに、生き延びることが困難な時代になってしまったと私は思う。だから、一人ひとりが自分自身の努力で生き延びる他ない。
3年間、君が頑張って来たように困難な時代を生き延びてほしい。
私が「旅立つ」君に「贈る言葉」として言いたいことはそれだけだよ。
2016年・3月吉日(きっと晴れ) fado
それから2年が経って20歳になった夏休み、彼は約束通り、私に連絡をくれた。彼と再会した日は、新札幌の焼鳥屋で腹ごしらえをして、オーセンティックなバーに行った。そして、お互いへべれけになるまで、しこたま飲んだ。家に帰った彼は、お母さんに「お母さんが二人に見えるよ(笑い)」と言ったそうである。
日々、考え続け、そして、微かな可能性を模索し、「仮説」を立てる。それから、膨大な資料を漁り、多くの実験を繰り返す。こんな日々を彼は6年間過ごしてきたことだろう。
そして、君は漸く、医療機器開発という『夢を掴む入口』に立った。これからも、君には、なりふり構わず、人一倍努力してほしい。あの3年間のように。
For Ingrid 『木戸をあけて』作詞/作曲:小椋佳
You tube:歌 小椋佳
あなたの後ろ姿に そっと別れを告げてみれば
あなたの髪のあたりに ぽっと明かりがさしたような
裏の木戸をあけて 一人夜に出れば
明りの消えた街角 足も重くなるけれど
僕の遠いあこがれ 遠い旅は捨てられない
許してくれるだろうか 僕の若いわがままを
分かってくれるだろうか 僕の遥かなさまよいを
裏の木戸をあけて いつか疲れ果てて
あなたの甘い胸元へ きっと戻りつくだろう
僕の遠いあこがれ 遠い旅の終わるときに
帰るその日までに 僕の胸の中に
語りきれない実りが たとえあなたに見えなくとも
僕の遠いあこがれ 遠い旅は捨てられない
自分もそうだったように、親から自立し、そして、結婚し子供を残す。また、子供は、自立して親元を離れて行く。それをくり返しながら歴史は繰り返される。
毎日、子供たちを指導していて思うことは、「あと何年頑張ることが出来るのだろうか?」ということです。
スコットランドにあるウイスキーの蒸留所には、ウイスキーの原料である大麦をネズミから守るため、敷地内に猫を飼っている。その猫たちのことを「ウイスキーキャット」という。
ハイランド地方にある「グレンタレット蒸留所」に『タウザー』というメスのウイスキーキャットが飼われていた。1964年から1987年に死ぬまでの24年間で、なんと28,899匹という膨大な数のネズミを捕らえたことでギネス記録にも残っている。
晩年のタウザーは、目も片方が潰れ、歯も抜け落ち・・・。それでも、毎日ネズミを捕っていたそうである。私も『生涯現役』を貫いたタウザーのように『生涯現役』・・・。無理か「とても、とても!!」(笑い)
今年も宜しくお願いいたします。