ともみと髭マンの、ともみです。
子どものイヤイヤ期って、
育てる側としてはほんまに
すんごい苦しい時期。
この苦しさを「ま、今だけだから」と
言ってしまえば簡単なことなのかもしれん。
この時期が通過するのを、
待っていればいいだけなのかもしれん。
このコロナ禍、
仕事での課題もたくさんある中で。
正直言って、子育てばかりに翻弄されて
いる場合ではない。
だから許してくださいよ。
ワガママは見ないふり、
泣き疲れて眠るまで放っておく。
大事なことは保育園で教わるでしょ。
だからお任せ(丸投げ)しまーす。
て、おい。
ちょっと待って。
ほんまにそうなんかな?
今の、私の関わり方が「娘の心の育ち」
にたくさんの影響を与えるのだとしたら。
私の、娘との関わり方を、
本気で考えなければと思ったんよね。
この子の心が育っていく大切な時期に
そばにいられることは喜ばしいことだって。
子ども以前に、私自身の心を育てなきゃって。
「育てる」
子どものお尻を拭いて、
ご飯を食べさせて、お風呂に入れて…
て、体を育ててるだけじゃないんだね。
大人の言葉が、行動が、
どれだけの影響を子どもの心に与えるのか。
大人は、「子どもの心」も育ててるのね。
『親はなくとも子は育つ』の由来は、
実の親がいなくても子は世間に助けられてなんとか育っていくものだ。世の中のことはそう心配したものではないという例え。
なんだけど、
言葉だけ取り出して、
子どもは放っておいても一人で勝手に
(立派に)育つ
と勘違いされとる気がする。
どんな子どもも、大人の、世間の助けがないと生きていけん。
それでも親って、ヘタしたら、
支配者になり、拘束者になり、敵にもなる。
だけど、
子どもの成長過程を正しく知ることで、
確認することで、いちばんの理解者にも
成り得るんよね。
自分の親には、いちばんの理解者でいて
欲しかったよね。
弱い私も、ワガママな私も、強情な私も、
受けとめて、抱きしめて欲しかったよね。
親に否定されたとき、叩かれたとき、
話を聞いてもらえなかったとき、
忘れられていたとき、
待っても待っても迎えにこなかったとき、
絶望したよね。悲しかったよね。
褒められたときは、嬉しかったよね。
もっと褒めてほしいから、親が求める
「おりこうさん」の基準に合わせようと、
背伸びしたよね。
私は、「…ねばならない」ていう言葉は
あまり好きではないから使わないけど。
私は今ね、
自分自身に問いかけてるんです。
「あなたは、あなたの子の、
いちばんの理解者になりたいですか?」て。
この「ともみと髭マン」ブログを
読んでくださる方はきっと
(いや、ぜひ)
私達の様々な葛藤を見てくださり、
応援してくださっていると思うので…
この子育てについてもどうか
温かい目で見守ってくださいますよう。
ガガ(娘)がどんな人に成長していくのか、楽しみにしてくださいますよう。
よろしくお願い申し上げます。
さてさて、昨日に引き続き
保育園の先生がコピーしてくださった
本から、私の心が※ざわざわした箇所を
抜粋します。
※ざわざわ→知る→変化
ダダコネと気持ちの切り替え
一歳を過ぎた頃から、子どもたちは
次第に強情な姿を見せるようになります。
「洋服を着替えるよ」に「イヤ!」
「ご飯食べるよ」にも「イヤ!」
「保育園に行くよ」にも「イヤ!」。
子育てに慣れない第一子の時には
「ワガママな性格にしてしまったのではないだろうか」と心配になるほどです。
なぜ、一歳すぎから強情がはじまるので
しょうか。強情に対して大人はどう対処
したらよいのでしょうか。
ダダコネをする口調の強さや、泣き方の
激しさには、かなりの個人差があります。
「怒り泣き」に聞こえる泣き方をする
場合には、それを聞く大人の精神的な
緊張感も高まりますし、心の余裕も
失われがちです。
このような個人差は、多くの場合、
第一章で述べた子どもの生来的な気質に
起因するものと考えてよいかもしれません。
しかし、現れ方に個人差はあるにしても、
どの子も一歳すぎから強情になるという
点では共通しています。
強情はどの子にも共通な発達の現れです。
この点をまず確認しておくことは、現代の日本で子育てにある親にとっては、ことのほか重要なことです。
強情をわが子の性格だと見てしまうと、
「私の子育てのどこがいけなかったのだろう」と考え込み、
強情を直そうと、「イヤじゃありません!」と叱れば叱るほど、強情が強くなってしまいます。
はっきりしているのは、周囲の働きかけや刺激に対して自分の意図を主張できるだけの主体性が子どもに育っていなければ、
「イヤ」という強情やワガママは出現しないということです。
ゼロ歳の子どもたちは、外側からの働きかけに忠実に生きています。
一歳をすぎて表象が生じる頃から、
子どもたちは外からの働きかけを拒否し、
自分の主体性=内的な意図を押し通そう
として強情を発揮するようになるわけです。
ですから、強情やダダコネの出現は、
子どもたちが自分なりの意図を持った
主体的な人間へ育っていく一里塚として、
ひとまず歓迎したいできごとであるわけです。
表象が豊かになり、心の中に様々な経験が豊かに積み上げられた二歳頃から、ワガママは具体的な提案を含むようになります。
「コッチニイキタイ!」といってゆずらない、「アソンデ!」と大人に要求して
「遊んでくれなければイヤだ!」とごねる等等、強情やダダコネという点では同じでも、
その内容には具体的な提案がこめられていきます。こういう点に、ワガママの中の主体性の育ちを見ることができます。
ダダコネを突き抜けていく
発達の方向。
ワガママやダダコネは、それ自体としては子どもにも親や保育者にとっても苦しいできごとです。
子どもにとっては「大泣き」のあとで結局自分の要求をあきらめざるを得ないかもしれませんし、大人にとっても「いいかげんにしてよ!」と言いたくなるほどストレスのたまるできごとです。
田中昌人•杉恵氏は、一歳代のダダコネには二つの種類があると述べています。
一つは一歳三か月頃に典型的にみられるダダコネで、「〜スルンダ」という自分の意図を一方的に主張して絶対にゆずらないダダコネです。
もう一つは、一歳六か月すぎにみられるダダコネで、いったん激しく自己主張したあとで、自分の気持ちを立て直し、切りかえていくようになるダダコネです。
日常の子育てや保育の経験からすると、手を焼くワガママやダダコネが一歳半以降なくなることはありません。
むしろ、ニ歳児クラスや三歳児クラスでワガママやダダコネが激しく出たときには、その激しさが保育者をノイローゼの一歩手前まで追い込むことさえあります。
一歳半になれば「…デハナイ…ダ」という思い直しや気持ちの切りかえがいつでもどこでもできると機械的に理解するのではなくて、その可能性が開かれるのだと考えるべきでしょう。
田中氏たちの理論化の意味は、ワガママを突き抜けていく発達の方向を指し示したことにあると私は考えています。
子どもの激しいワガママにあうと、大人は
「我慢を教えなければ」と思いがちです。
しかし、先に述べたように、「〜シタイ!」というワガママは子どもの主体性の育ちの現れなのですから、我慢を強要するだけでは育ち始めた主体性を圧殺することになりかねません。
ワガママをのりこえるというのは、子どもが自分の要求を引っ込めるということではなく、
周囲の状況に目を向け、状況確認をくぐり抜けたうえで自分の要求を実現する方途を探れるようにすることではないでしょうか。
そうすることによって、子どもたちの主体性は、周囲との軋轢ではなく、自分の要求を実現していくための道を開くことになるのだと思われます。
そのためには、二つの課題があります。
ひとつは、周囲の状況に目を向けられるだけの心の余裕と認識能力の育ちがあること、
もうひとつは、そのうえで今自分のとる行為を選択できるだけの選択肢が子どもの中に育っていることです。
「…デハナイ…ダ」のなかの「…デハナイ」の部分は状況認識を介して自分の行動を振り返ることだし、
「…ダ」の部分は「ではどうしたらよいのか、こうしたら、ああしたら…」と思いを巡らせて選択肢の中から自分の行動を選びとることを意味しているといえるでしょう。
ひとまず以上です。
ここからが重要なところ。
じゃあどうすりゃいいの!?
というところに入っていきます。
受けとめられて周囲に目を向ける
に入っていきますが。
もう手が痛いのでまた後日










