養老孟司「養老先生と虫 - 役立たずでいいじゃない」(2023) | 北条得宗家の鎌倉めぐり

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鎌倉散策や鎌倉散歩の様子の他に養老孟司教授の著書を中心として紹介

 

養老孟司教授の文庫化シリーズ。この他にカナダ人作家との共著も出ているので興味のある人はチェックしてみて欲しい。とはいえ私的には、そこまで興味はなかった。というのも本を買いまくったって本棚が目一杯になるだけだからね。頭が良くなる訳でもない。でも本を読む意味って恐らく他者の考えを取り入れるキッカケになるからだと思う。スマホの考えを取り入れてみたら、むしろ東京都知事選の石丸伸二が旋風を巻き起こしたように訳の分からない人間を持ち上げるだけになる。どう考えても怪しいのに日本人って単純なんだな~と思う。ビッグマウスでいられるほど世間って、そんなに簡単ではないよね。本は考える訓練になる。

 

 

では話を戻そう。ラオスやブータンなどで昆虫採取をしていると蜂の攻撃に遭う。道端の草むらを叩いたらアシナガバチに額を刺されたという。痛みは大したことないが、しばらくすると景色が変わった。最初はキラキラして良い景色だったが、すぐさま白黒映画のようになった。立っていると吐き気を催すから車の座席で横になった。毛虫にやられた箇所が55あって全部が猛烈に痒い。

 

 

マツケムシにやられたところが痒い。みんなが掻いてはダメだというけど痒い。だから、かゆみ止めの薬で、やり過ごす。これがアナフィラキシーショックというもの。やっぱり、そうなんだ。私は昆虫ではないけどワクチンの後に、いつも痒い。赤くボツボツしたものがブワーっと出てきて腫れあがった。東京都知事でも神奈川県知事でもなく愛知県知事、大村秀章氏の発表で知った。

 

 

プークンの宿でベッドに横になる。立ち上がると、まだ吐き気があるので立って歩ける気がしない。抱えられてベッドに横になったら天井の電気の笠の中に虫がたくさん溜まっている。指を差したら若原君の奥さんが「あれは笠の模様です」と言うのだ。しばらくしてかなり具合が良くなったので見ると机の上に灰皿がある。タバコを吸おうと思ってベッドの脇にいてくれた若原君に、灰皿をとってくれといったら「どこにある?」と訊く。養老孟司教授が「机の上にあるじゃないか」と言ってみたが、そんなもの実はなかった。なんと養老孟司教授の眼鏡が灰皿に見えてしまった。アナフィラキシーでは平滑筋が収縮して気道が狭くなり呼吸困難が起こることがある。あるいは血圧が急激に下がっていわゆるショックを起こす。養老孟司教授の場合は意識朦朧状態だった。

 

 

人はなぜ生きるのか、たまに問われることがある。現代人は意味のないモノに違和感を抱くようだ。世の中がどんどん都市化して街になった。街には理由のないものは存在しない。目に入るものにはすべて何かの目的や理由があり、それが分かるようになっている。しかし、いくら都会が脳化しても、その中には人間がいるからややこしい。意味のあるものだけに触れて育っていくと理由のあるものしか目に映らなくなる。机に石を置く。何で、こんなものが置いてあるのか聞く。でも河原に行けば石ころなんて、たくさん落ちているから「何でお前はここにいるんだ?」などと、いちいち聞かない。街中にいる人、特に脳だけで解釈する人にとっては「そんなことして何の意味があるんだ?」と問いかける。役に立つモノに囲まれたって脳が退化する訳ではないが、むしろ考える癖が付かなくなる。昆虫採集をしていると「何でこんな虫がいるんだろう?」と疑問に思うことが、よくある。仕方ない。

 

 

仕方ない、とは便利な言葉な反面、使いすぎると嫌われる。都会の人は「仕方ない」のではなく「どうにかせいー!」で、すべてを終わらせようとする。実際、首相が「ワクチンを確保します」と発表したって新型コロナウィルスはなくならない。では人間はなぜ生きているのか。それは仕方ないから生きている。昨日への続きが今日、明日へと続くのみ。動物も昆虫も植物も、みんな行きがかりで生きている。樹木は生えてしまったから仕方なくそこにいる。我々は生きているから死ぬまで生きる他ないのである。

 

 

ファーブル『昆虫記』が、なぜすごいかというと、まさに「この道一筋」の人だった。現代人が考える一生、同じ会社に勤めていた、という意味ではない。道というのは本来、地味なモノ。その大前提は「人は変わる」ということである。現代社会で人は、どこまで行っても「その人」であるから名前も一生変わらない。でも豊臣秀吉の時代なら日吉丸から始まり、そして木下藤吉郎、羽柴秀吉、豊臣秀吉から「天下」になった。名実ともに「人は変わる」ものだったのである。それは、地味な仕事を一生やっている職人だって同じである。そんなに「人は変わる」のに相変わらず虫を追いかけている。こういうことを「やりがい」と呼ぶのだ。

 

 

ところが現代人の前提は「同じ自分」だから、そんなことを思いもしない。自分がいつも同じなら同じことをやっていれば飽きるに決まっている。でも自分が変われば同じことが違って見える。同じ自分なら他人や社会を変えるしかない。実は、それこそ大変に面倒でエネルギーがいる。だから自分から動かず何もしないでネットの画面を見るかブログで自慢するのが、やっとのことなのだろう。ネットなら相手が変わるのが面白い。自分の思い通りになれば、もっと面白くてたまらない。そのぐらい現代人は幼稚園児なのだ。若い人というけど現実的には、いい歳こいた中高年もブログで自慢してるしね。若い人って養老孟司教授から見てだ。

 

 

冷泉為相・筆

 

変わるとは、そういうことではなく「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」のこと。鐘は剛体で固有振動数があって叩けば同じ周波数で振動する。じゃあなぜ諸行無常なんだってのは聞く方の気分が、そのつど違うから。現代社会は意識が作り出したもので埋め尽くされている。意識が作らなかったものは「何をするか分かったものではない」ので撲滅しようとする。養老孟司教授は虫から教わった。物事は人から教わるものだと思っているが、そうではない。これが分からないのは現代人だからこそ。なるべくしてなったのであって、こうなろうと意識した訳ではない。別に虫が説教したわけでもない。抽象的な概念だと自然ということになるだろうが、ただ養老孟司教授が「自然」を「虫」と置き換えているだけ。どこまでも昆虫好きで羨ましいなあとは思うけど。

 

【ニューソース】

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