ものがわかるということ | 北条得宗家の鎌倉めぐり

北条得宗家の鎌倉めぐり

鎌倉散策や鎌倉散歩の様子の他に養老孟司教授の著書を中心として紹介

 

御年85歳にして初めての書き下ろしだという。元気さだけが取り柄となっているのは、やはり飽くなき執着心であろう。もちろん良い意味で捉えて構わない。分かるはずだと思って勉強しても、結局は分からなかった。そういう物事が時々、出てくることがあるのだ。例えば数学なんて分かるだろうと思って教えても、一向に分かる気配がない。たいていの中学生は計算さえ合っていればオーケーだと思って数学が余計、苦手になる。イコールの意味と左辺と右辺を徹底的に叩き込む必要があると知った。それ以上は本人の問題になる。本人が新たなる発見をしないとダメなのだ。そういうのを日本では古来より気力の問題とされて来たが、ここにも大きな間違いがある。物事はすべて正しいとか間違っているとかで出来ている訳ではない。正解思考が仇となってしまった。

 

 

人間の脳は、できるだけ多くの人に共通の了解事項を広げていくように発展してきた。人間の脳は個人的な差異を無視して、とにかく同じにしようとする性質を持っている。生まれてすぐ言葉に囲まれる。言葉を覚えるということは、周りにある言葉に脳を適応させていくこと。言葉は死んでもなくならない。もう少し広い概念でいくと記号になる。絵画や映像や音楽は言葉ではないものの人に何かを伝える記号である。個人的にも鎌倉時代の史料を見れば訳と共に何かが書かれているのか、よく分かる。寺社仏閣の修繕や僧兵の人員削減などが、そこに実際に書かれている。でも昔の人は諸行無常や万物流転をよく知っていた。現代は鎌倉のような身体性に生きる時代ではなく脳の中に住んでいる社会なのである。そこで養老孟司教授は「脳化社会」という言葉を創った。

 

 

情報化社会と言うと、自分というカッチリしたものがあって、その周りに変化の激しい社会があると、つい思い込んでしまう。私と同じぐらいの年齢なら大学や専門学校などで情報処理を学んだ人もいる。だから余計に思ってしまうのかもしれない。しかし、そんなことはかなり前から指摘されていたはずなのだ。イコールですべてを埋め尽くす社会にしてしまった。今現在はどうなったか。実は真逆なのだ。数学者の新井紀子氏が中学生に数学の問題を解かせた時、読解力が落ちていることを挙げている。果てには選択問題を答えたくない、ということだ。間違えるのが怖いということもあるけど、正解を選びたくないとも取れるのだそうだ。

 

 

ところが世の中には訳の分からないものが出てきて、取り敢えず正体不明のウィルスを新型コロナと名付けた。流行が始まると今度は「新型コロナウィルス感染症」と呼ぶことにした。何となく知ったつもりになるのは感染症だけでなく、デジタルトランスフォーメーションやSDGsなんて皆さんは説明できないでしょう?ということ。言葉はカッチリしていて、実体はモヤっとしているのだ。20年近く前にも養老孟司教授が述べていた明石家さんまの言葉がポンポン出てくるのをテレビで見てみんなでゲラゲラ笑っている場合のことを話していた。明石家さんまの年齢を考えれば、決して私ぐらいの世代だけではないことはよく分かると思う。

 

 

他人の子供のことは何とも思わない。それが戦後教育を受けた人達の言い分であろう。では他人のことを思っているからと言って自分の考えを一方的に押し付けるのも間違っていると言わざるを得ない。意見だと言うけど、意見というのは、こうすればどうだろうか?とか、こういう方法もあるけど、というのが意見であり、あーした方がいい、こーした方がいい、というモノではない。

 

 

子供は何か目的を持って生まれてくるわけではない。人の一生も実際には目的など、よく分からない。生きる意味なんて問うたとしても、僧侶や牧師や神父らはそれなりのアドバイスをくれるものの正解が出る訳ではない。だいたい子供の将来なんて分からなくて当たり前。都市に暮らしていると、その分からなさが気持ち悪い。なぜかというと、都市はすべて脳の中で作られたものであり、あーすればこーなる、という考えの元に計算されている。子供は計算式に当てはめられるほど簡単ではない。養老孟司教授がバケツ一杯にカニを捕って遊んだり、虫が集まっているのをジーっと観察したり、そんなことしてどうする?というのが大人の理屈であり、意味で満たされるのがすべてだという勘違いをしている。子供が病気ですぐ亡くなる時代だったのが、戦後は亡くならないことになったので、大人の予備機関になってしまった。キャンプを例に出しているけど、山や森や川に行くのが最も健康的。

 

 

明石家さんまの話題で「武士に二言はない」と比較されるように、言葉が多くポンポン出るほど一言は軽くなり、他人に教えるつもりなのが単なる罵詈雑言にしか聞こえなかったり、同じくカバン一つとっても生産されれば多くの一つでしかなくなるし、職人が丁寧に仕上げたカバンなら高級感が浮かび上がる。子供も同じで生産されたモノではない。しかし現代はもうすでに試験などで情報処理の速い人が有利になっている。良い大学に合格した挙句、政治家の失言や官僚らの勘違いが起きてくる。それはテレビで報道されるからであり、一般人はそんなことしない、というのは大間違いで、もっと勘違いしている人が多いに違いない。山に行って何をするか、は行ってから考える。森に行くと良いことがあるのか?と聞いている間は、よほど人生が貧しくなっている。何を発見するかは行ってみないと分からない。だいたい怖がりの人ほど行かずに終わってしまう。花鳥風月を見て学ぶべきなのだ。

 

 

夫婦同士、言った言わないで揉める。こういうのも分からないことの一つ。分かる訳がない。正解なんて存在しないのだから、そこは落としどころを見つけておく。養老孟司教授は黙っておくのが一番だという。付け加えると私的に、そこまで大人になれる人が現在どのぐらいいるだろうか?と勘繰ってしまう。自分は正しいと思ったら絶対曲げない人は、多少の差はあるものの決して少なくない。でも、そこは正解なんてないと普段から自覚していれば、少なくとも争いが激しくなることはない。ピッタリ合わないとダメだなんて、物事は計算で何でも出来ている訳ではない。ものがわかるということの結論は、脳の中で同じということで、そういうものは数学や物理に限ってしまうが、時間が経てば別の発見がある。それと同じく時間が解消させてくれるのだという。どうせ自分も変わると思っていれば、他人のことをあーだこーだ言う必要もなくなる。10年も経てば、まったく別人になっている。

 

 

グレゴリー・デイビッド・ロバーツの『シャンタンラム』という小説がある。主人公がインドのムンバイの空港から出てくる人を一瞬でコイツだ!と見つける。人が分かるとは、そういうこと。心情把握が出来て他者が自分に合わせてくれるのを待つという意味ではない。だいたい自分のその時の心情は誰も分からない。だから少なくとも感覚を磨くのに飲み屋が有効だと言う。余談だけれども京都のイノダコーヒーなんて、そういう場だった。明治期のような逆玉の輿で妻に「あんた邪魔!」と言われればフラフラ出て行ってイノダコーヒーにて若旦那同士で「妻に追い出された」という話をする。確かに昔の人の方が、そういう面白さがあった。建物の中にいれば、人間関係がすべて、仕事の能力がすべて、になってしまってギスギスする。だから養老孟司教授は学生に教室を出ろと常に述べていた。新しい発見は外にある。私は飲めないから子供と遊ぶのもいい。忖度されない時が本当の意味で試される瞬間なのだ。私的には、お世辞やゴマすりばかり強要する幼稚が大人が多い気がする。金だけ今だけ自分だけの3だけ病こそ本当の意味で蔓延防止にして欲しいものだ。そこまで昔が良かったと思うなら共同体を復活させればいい。発見はまさに脳の外にある。飲めなくても飲み屋だってアリなのだ。どれぐらい飲めるか自慢する人はなるべくいない方がいい。そういった程度の低い問題ではなく、目的は新たな発見なのだ。その目的がハッキリしている間は発見できないだろう。知らない人同士が良いのだ。

 

 

不愉快なことがあれば他人のせい。これが都市化で顕著である。石で躓けば、誰が石を置いた!ってことになる。不幸なのは自分だけ。他人がラクしている。本当はそう思い込んでいる本人がいちばんラクしている。インターネットを使うとイライラする。だから、こういう結果になったのは他人のせいだとなる。また本気で取る人が少なくない。多くの人が思えば正解になってしまうのは、それは正解を求めている証拠。本当は正解なんてない。ワガママな人に譲ってドミノ倒しになっていく。これ実際にあることで、恐らく家庭や学校や職場だけでなく、ブログをやっている人はワガママな人が結構いる。それが私にとってブログをやっているからこその言い分。正直よく分からない人が多い。相手が自分に対して、そう思っているというけど現代の日本人がマトモだとは正直、思えない。本当は半分ずつが互いに良い落としどころのはずなのにね。そして深入りは禁物。膨大なエネルギーを使うことになるから、私も違うんだよって言うことはやめた。本人が日本語を読めなければ、それまでとしか言いようがない。だいたい日本の成人は3人に1人が日本語を読めない。短い文章もツイッターなら8割の人が読めない。分かるとは世間を知ることからだ。

 

 

論語の「明日に道を聞かば夕べに死すとも可なり」は、朝に学問をすれば夕べに死んでも構わない、ということ。現代人はそう解釈している。しかし本当に、朝に学問をして夕べに死んでしまったら使い道がない。そうではなくて、本来は目から鱗が落ちることを言う。自分が変化する。それまでの自分が死んでいる。つまり万物流転を表している。変わりたくない人は知ることが出来ない。確固として自分があると思い込んでいる現代人は、このことがよく分かっていない。むしろ変化することはマイナスだと思っている。しかし人は状況に応じて否が応でも変化させなければならない時が来る。都市では建物のない空間を見ると、空き地だと言いだす。でも、これは本当は間違い。草が生えて、鳥がいて虫がいて、モグラがいるかもしれない。岡山県の小さな神社で境内に生えている樹齢八百年のケヤキを売り、そのお金で社殿を立て直した。これが今の世の中。二千年はもつかもしれないケヤキを育てるのを諦めたということ。人間の脳にとって自然は現実ではないという妄想に駆られている。ここまで来れば分かると思うけど、都会人にとって子供は必要悪。本当は子供どころではない。お金をかけてもドラ息子になるかもしれない。良い大学に入っても罪を犯す人はいくらでもいる。にもかかわらず、お金をかけて良い大学に入った方が勝ちだと思い込んでいる。この育て方は明らかにおかしい。子供とは、人間が種を蒔いて世話をする。稲やキュウリと同じで、それを「手入れ」と言った。田畑と同じだ。

 

 

他人のことが分からない。これは当たり前。私もいい歳こいて承認欲求の強い人の気持ちがよく分からない。ちょうど先日、中居君(中居正広)が「SNSとかブログとかって知らない人から褒められて嬉しいの?」なんて言っていた。予め断っておくが、ジャニーズは先輩でも君付けで良い。50歳を過ぎれば、そう思って当然。でも他者って分からなくて当たり前。理解力ではない。すべてを分かろうとするには限界がある。近寄るのはまずい、などの地雷を踏まなければ大丈夫。私とて少々イラっとしたからって今すぐ殴り掛かれる訳ではない。だからコメント欄を正しく使えなければ、それでいい。ほとんどは承認欲求の欄として使っているイメージがある。本当は会話はコメント欄から生まれるはず。相手を尊重できなければ使う価値はない。自己中の人は、この言い分が理解できないだろうね。変なことを言って憎む訳ではない。人はそんなにおかしなことをしない。でも、なぜ私が頓珍漢なことをコメント欄に入れられるとイラっとするのかは、次の通り。つまり猫の良さが分からない人に語っても、猫の良さは通じないのと同じ。養老孟司教授は猫が好き。でも猫が嫌いな人は、とにかく嫌だの一点張り。これが現代の日本人。人によって差はあれど、山に石がゴロゴロ落ちているのを許せない、というのと同じ。マイルドな植松聖なのだ。学校なんて閉鎖的で、学問を立派にしたからって、そういうことが理解できるようになる訳ではない。意識ですべてがコントロール出来ない。朝起きるのと同じだ。

 

 

東京で暮らす人と地方で暮らす人は話が通じない。住んでいるところが違うから仕方ないを前提にする。例えば京都に行って長居した時に「ぶぶ漬けでもどうどすか?」と聞かれるのと同じ。養老孟司教授自身も「どうしてこの程度が分からないんだ!」と何時間も夫婦喧嘩を繰り返すことになる。近い距離だと余計に相手の意見を直したくなる。でも実は、ほんの些細なことでも相手を変えさせるのは難しい、ということ。だから私も余計に相手を変えさせようとする人の意図がよく分からない。違うんだもんね。

 

 

日本では相手に合わせるのを強要したがる人が多いけど、外国に行くと違うことを前提としているから、ちょうど良いしラクだということ。少し脱線するけど、佐助稲荷神社で女のガイジンに声を掛けられたし、今現在は鎌倉近郊に住んでいるから、この前も買い物に出ていた横浜駅から横須賀線に乗ろうとした時、男のガイジンに声を掛けられた。しかも双方とも英語のままナチュラルスピードで来た。横須賀線の場合は「この電車は鎌倉駅に向かうのか?」ということだった。急に話しかけられたので半歩、遅れるも「イエス!」とすぐさま答えられたのだ。大したことではないけど、その前に湘南新宿ラインで小田原行きに乗ろうとしてオロオロしていたのをチラッと見ていたから聞いてきたのかもね。大したことではないけどキリスト教風に言えば神に誓って成し遂げた。無事を祈る。アーメン。最後は要らないけど、それでいい。語学なんて改めて勉強し直す必要はない。話し言葉は通じれば良い。学校で習った文法や語法を使って並べればいいんだよ。養老孟司教授の言いたいことは、そういうことだと思う。とにかく相手に伝えてみる。そうすると何かが必ず返って来る。こう?違う。ではこう?そうそう、そういうこと。などというように会話はキャッチボールなのだ。たいてい「バカの壁」なんて読まなくたって、あれは世間の当たり前が書かれている。喋り言葉だから読者から「先生は何だかブツブツ言っていますね」と感想が返って来るらしい。ブツブツが気に入らない人は強迫神経症の人で完璧主義者でもあり、すべてが自分の思い通りに真っ直ぐでないと気分が乗らない人。本当はブツブツぐらい、いい加減でも構わないのだ。日本の連歌と言って、その場の雰囲気で詠みあげるようなもの。昔の日本人は、コミュニケーション能力に長けていた。

 

 

養老孟司教授自身も勉強すれば何でも分かると思っていた。しかし自分の歳の時の写真を見て同じかどうか。脳というのは現実と乖離することが多い。例えば目の前にお菓子がある。食べたいと思ったから手が伸びたという。ところがメカニズムでは、脳がお菓子を食べる方へ向いてから「食べたい」という欲求が増す。自分を閉じ込めているのが現代人。スーッと息を吸う。それは自分の空気か、外にあった空気か、述べてみよ。だから養老孟司教授は以前から「田んぼの将来はあなただ」と言ってきた。稲は米になって自分の一部になり、海にいる魚も自分の一部になる。そのことを遮断して「自分は自分だ」「個性を発揮しろ」は、バカげた話だ。変化は身体を伴うことが必要。スマホなんか見ていないでカラスでも見ていればいい。老化も変化の一種で、自分こそ分からないのに、他者をどうやって理解するのか。分からんと思い煩ったところで簡単に打つ手は見つからない。相手にピッタリ合わせれば良いのかもしれないけど、それだと互いにストレスが溜まるだけ。気分の問題こそ簡単ではない。むしろ現代人の性格の悪さが前面に出ている証拠になってしまう。死んだらケリが付くと思えばいい。それまでに少しずつ「分かる」を積み重ねる。

 

 

もう一度、纏めると養老孟司教授は常に「謙虚になれ」と言ってきた。それは自分を発揮することが如何に無意味か現代人は分かっていない。戦後教育の賜物とは、団塊世代より自分を発揮してきたことに由来する。事実として池田清彦や南伸坊も学校で習った最も記憶に残るのは「個性を発揮しろ」だった。欧米の個人主義は個性を発揮するのではなく、世間が個性を作ることを各人に強要するのである。ゆえに日本人が自分のことしか考えなくなった理由は、まさにここにある。一人で本当に何でも出来るなら、たった一人でやればいい。まず自分だけで一生を終えられることなど無理だろう。そこは地球環境の問題もあるけれど、結局は何かを食べている。お金を払っているから偉いと思い込んでいる人があまりに多い。そういう考え方こそ命の儚さを失ってしまうのだ。身体が伴っていない。お金をいくら払おうと地球から収奪していることは変わりない訳で、やはり成長とは身体的に理解することから始まる。いくら学歴が高くても中身が伴っていないと社会は成り立たない。養老孟司教授にとって昆虫は一つの物差しだったのだろう。猫と同じく、自分がどうすれば本当の意味で充実した日々を過ごせるかは相手が人でない方が良いということだ。

 

 

スマホをイジり続ける理由はヒマで平和ボケしているから。つまり日本が変わるには、天変地異でも起きない限りは続いていく。

 

 

入力だけでも出力だけでも頭は良くならない。入力だけなら水を吸ったスポンジ。出力だけなら壊れたロボット。つまり脳は身体を伴ってこそ完成させる。赤ちゃんの認知機能は、生まれたばかりの頃に自分の手をしげしげと見つめている。動くことが理解できると今度はハイハイを始める。つまり生きる上で教わることは本来、何もない。遠くにいると猫だが近くは虎に見えない。そういう脳ならとっくに食われている。つまり目に見えて分かるのではなく、生まれた時から脳が知っている。上手に使いこなせる。

 

 

ここに来て現代人は死ぬことを理解できなくなった。つまり情報化社会。その情報とはパソコンやスマホのことではなく我々、人間自体のこと。カフカの「変身」を読めば分かる。主人公のザムザは朝目覚めた途端、虫になっていた。虫であるにもかかわらず主人公のザムザは最後の最後まで「私」であると確信し続けている。この小説は身体的に変化しても脳は変化しない、という現代人に通じるものが書かれていて警鐘を鳴らしている。昔の日本人は苗字も名前も変わった。今現在は変わらない。生老病死という四苦が世間から除外されてしまった。どうせ自分は変わるのに、個性を伸ばせ、などと言っても身体的には元からあるので発揮のしようがない。たとえ名前なんか無かったとしても、誰もあなた自身だと間違えることはない。まず顔が違う。そして立ち振る舞いが違う。親からもらった遺伝子であっても自分に皮膚はくっつかない。本来の意味の個性とはそういうこと。しかし、たいていは個性は心にあると多くの人が思っている。そこに大きな誤解がある。つまり分かるとは身体的なものであり、脳なのではない。

 

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