ジャニー喜多川社長が87歳で永眠いたしました。私はエンターテインメント関連事業を携わっている一員として、この訃報はやはり敏感に反応しました。社会人になってから色んな人に出会い、ジャニーズ事務所の近くを歩いていると、隣にいる取引先の人が「ホラ、あの人ですよ」と教えてくれた。思わず「あっ!本当だ!ジャニーさんだ!」と心の中で声を上げたものです。
ウチの母親の世代がフォーリーブスだと言って「知らねーよ、てかなんだフォーリーブスって?」と何度も返した覚えがあります。私ぐらいの世代になると記憶に残るのは光GENJIで、姉がローラースケートを買ってもらって「おねえちゃんだけずるーい!」と言ってもう一足買ってもらった。でも光GENJIが何なのかよく分からなかった。小学校で女子の先輩がキャーキャー言っているだけ、ウルサイったらありゃしない。
でも、90年代に入ると今度はSMAPかTOKIOかになって、私のリアルタイム世代はそのぐらいかと思いますが、のちにV6やらキンキキッズやらがいろいろ出てきて、訳が分からなくなってきました。とりあえず、なんでもカッコ良きゃ顔でなくてもいいんだろ?って感じで。
私はけっこう真面目に考えるタイプで、「世界に一つだけの花」なんてどれだけ自己中なんだよ、とか、そんなもん声を大にして言うことかよ、あたりめーじゃねーか、とか、これが売れるなんて納得がいかない、とか、いろいろ巡らせて来ました。そういう意味ではバンドという形態もあって私はどちらかと言えばTOKIOの方が好きなのですが、叙情的な音楽性も好きなので、そこは好みの問題。
ただ「私」「君」「あなた」が世界共通だと思って欲しくないのです。まず大阪弁では相手を「ジブン」と言います。それは相手も自分も同じだからです。関東圏ではまずこの感覚はありません。侍の「己」が「オノレ…許さん!」になり、下町の「手前ども」が「テメー、コノヤロー!」になるのと同じ。むろん前者の「己」と「手前」は自分で、後者は相手を指しているわけです。江戸ではこの感覚があったわけですが、明治以降の西洋近代的自我が確立してから、自分と相手は切る存在になってしまいました。
こうなると、ウソつきが増えるんです。例えば振り込め詐欺もそうだし、小保方晴子氏のSTAP騒動もそうだし、あと以前のサイトでもやたらとマイ・ルールを押し付けてくるホラッチョ川上ならぬ、ホラッチョ浜口という人物も現れました。私は法学部出身で大学で犯罪心理学を勉強していたために「ついにこの時が来たか!」とワクワクしたものです。コイツ、どんな頭の中身をしているんだろうな~と思ったわけです。
次にラテン語のフランス語、イタリア語、スペイン語では動詞変化に悩まされます。英語の文法に悩まされたのに、また第2外国語の文法に悩まされるハメになるのか、と。大学で第2外国語に西欧言語を取った人は、たいていこの手の動詞変化に悩まされたはずです。つまり英語では「I am a girl.」で良いところを、主語を抜かしてしまうのです。この点で言えば英語も「am」であれば主語は「I」に決まっている。でも、名前から何から省略したがるアメリカ人でさえ主語は抜かさない。
あとで気づいたのですが、これは責任をハッキリさせるためなのではないかと思うのです。例えばドイツではヒトラーが悪いんだから、第二次世界大戦はナチスの謀略だってことでよろしいですね?ハイ、終わり。オランダではアンネ・フランクが酷い仕打ちを受けました。だから日記として出しましょう。「アンネの日記」として、うう…可哀そう。ハイ、終わり。…などと、ゲルマン系の国では論理がハッキリしているのです。だから、常に答えは正義という名の下にひとつしかないのです。白黒ハッキリしろ、と。
しかし、フランスやイタリアやスペインやブラジルあたりの国では責任が曖昧です。言い換えればテキトー。その曖昧さやテキトーさが日本では大阪にも残っているのです。私が「東京から来たからまけてくれ。じゃあ500円を400円で2つ、そしたら800円だよね?」と言ったら「ええよ!まいどおおきに!」となるのです。東京ではまずこれが通じない。もはや横浜中華街で試しにやってみたら、やな顔されたぐらい。
そこが人と上手くいくかどうかの違いだと分かったのです。小学校でケンカして色んな人がいると分かったつもりでいても、世の中に出れば方法論や答えは必ずひとつだとは限りません。そういう意味ではジャニー喜多川社長も「YOUやっちゃいなよ!」みたいに相手からメッセージを受け取る言い方をするのだと思います。ここはどちらかというとラテン的ですね。ジャニー喜多川社長は必ず「YOU」であり、相手と話すときに「I」は絶対に使いません。こんな人は西洋近代的自我が確立した日本では良い意味で珍しいと思います。
先述の言葉の使い方にしてもそうなのですが、この言葉を使うとたいてい嫌がられます。
● 「だから」がやたら多い人(自己中心型)
例:だからメロパワが好きなんだよね!(のちにひたすら連発)
● 「意外と」がやたら多い人(自己顕示欲型)
例:意外といい人だよね!
前者は間違いなく、自分が正しいと思ったら絶対曲げない、というタイプの人です。それで私がホラッチョ〇〇とバカにするのです。ショーンKことホラッチョ川上と同じタイプ。ウソがばれたら、はぐらかして逃げまくるのが信条。そして後者は相手を見下すタイプ。相手を自分が成り上がる為の踏み台としか考えていない。あるいは、ある程度自分はこれだけすごいんだから、お前はこういう診断だと勝手にするタイプ。資格を持って人よりも勝った気になったり、あるいは医者でもこのタイプは稀にいる(発達障害の疑い?)。
自己中心型というのは治すことが難しく、幼少期の頃より人と馴染めなかった、とか、グループ行動が苦手、とか、相手の反応を見ずに一方的に喋りまくる、とか、落ち着きがない、集中力に欠ける、衝動的、などです。これはTOKIOの山口達也にも多少なりありました。
私がサッカーで培った経験というのは、人のせいにしてはダメだ。自分がスペースに入らなきゃ、と常に思っていました。FWか攻撃的MFはどんどん前へ出るタイプ。お前はチビだから、前へ行け、と。そして道に迷わないから適していると監督に言われたのを覚えています。MFでもパスを出してサポートする方は広い視野が要求され、サイドは足が速くなければいけません。DFやGKは大きい人。あと、足の速さもそうですが、しつこい人が適任です。わりと個人技だと言われるサッカーですが、自分が相手に要求されるものを示さなければパスが永遠に来ないのがサッカーです。かなり集団的なスポーツです。一方で自己中心型の人はサッカーに向いておらず、野球かテニスか武道でもやればいい。だから武道出身に犯罪者が少なくないんだよね。私は鈍いから武道の授業で習った柔道もからっきしダメなわけだし。
人はみな「YOU」であり「I」ではない、ということをジャニー喜多川社長に教わった気がします。ウチの会社でも関わった人は行くかどうかまだ分からず、お別れ会の連絡・情報も来ていないので出席できるかどうかわかりませんが、本当に関係者だけなのであれば、行かないでひたすら祈る方が得策かもしれません。。タレント、スタッフ、ファン、そして関わったたくさんの人々の胸に永遠に刻まれることでしょう。
勘違いして欲しくないので、今一度、無常論を軽く。無常論を言うのは死が非日常と言っているわけではなく、死は日常です。無常論は人々の気持ちです。3人称で知らない人の死は日常です。でも2人称は気持ち的に非日常になる、ということです。誰でも死ねば骨になって骸骨になる。溶けてなくなるまでそのままです。イタリアなどの教会には骸骨で装飾した骸骨寺というのがあって「メメントモリ(死を忘れるな!)」という意味を含んだ教会がいくつもあります。気持ち悪い、とかいうけど、むしろ死に向き合った生き方の方が真面だと思うのです。
