皆様には、私が昭和42(1967)年3月31日まで寿都に住んでいたこと、寿都鉄道は、国鉄岩内線延伸の際、
自己の鉄道業廃止に伴う保証金目的で最晩年は粘りに粘り、しかし諸施設老朽化も著しく、万策尽きた
最後は、1日運行回数片道1本という信じられない「キシュウセンポー(北海道でもキシュウというあたりが
ポイントでしょーか?)」に出ましたこと、過去に幾度かお話しする機会があったかと思います。
****<図ー1>****
寿都鉄道の大体の位置です
緑線・寿都鉄道から見て右手が
当時はよく氾濫していた朱太川
<参考>日本鉄道旅行地図帳①北海道 pp14 新潮「旅」ムック 新潮社 今尾恵介氏 監修
平成20年5月18日発行
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今回は、寿都鉄道が、
昭和42年春、時ならぬ大雨により、「樽岸ー湯別間」の路盤流出という不幸に出会い、不本意ながらも
閉店せざるを得なくなってしまったお話です。
*******<図ー2>朱太川と樽岸***********
[2-A]朱太川と樽岸ー湯別間国道(229号)の関係
黒破線は旧・軌道トレース、矢印の先には、旧軌道跡を利用した道路が?
赤数字は海抜
<追加参考図書>ニューエスト北海道都市地図 昭文社 pp100 1998年3月発行
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[2-B]朱太川の軌道敷部分を拡大してみる
20年近く前の印刷物ですので褪色しております。茶色の線に沿って小径がご覧いただけますか?
寿都鉄道の軌道敷で良さそうであります。
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ほとんどの区間で、鉄道は国道より山側を通りますが、樽岸を抜けてすぐ、黒松内方向へ
わずか向かったところから、寿都鉄道のほうが、国道より河川敷近くを走っていました。
この時代は、まだ道路と鉄道は平面交叉がほとんどで、[2-A]では樽岸側の軌道跡が道路として、
使われているように見えますし、拡大を大きくした[2-B]では湯別側でも廃線跡は道路として
使われているようです。
**************<図ー3、寿都鉄道路線図>-(駅間距離、km)*************
●寿都-(3.2)-樽岸-(3.4)-▲湯別-(6.0)-中の川-(3.9)-●黒松内(省)
●:運転管理駅、列車交換可、▲:列車管理駅:列車交換不可
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実は、大雨による、この付近の路盤ホーカイは過去にもあったそうなのですが、当時は会社自体に
ある程度の余裕があり、地域住民の「おらが町の鉄道を守るべ」といった寄付で何とか切り抜けは
しましたが、その後も災害対策は行われぬままに昭和」42年のこの日に至ってしまいました。
さすがにしぶとい寿都鉄道でありましたが、小樽・札幌方面へのメインルートが、雷電トンネル貫通により、
「寿都ー黒松内ー函館本線、または、寿都ー港町(蘭越町の外港)ー蘭越ー函館本線」から
「寿都ー岩内ー小樽・札幌」にとってかわられた後に、こーゆー災害事故にあってしまっては、
今後ゾーシューのあてもなく、地域住民もあきらめムードだったとか・・・
半年の休止期間をおいて、そののち廃止となりました・・・なったつもりでした・・・
「中の川駅」は唯一、バス通りからも離れており、その後どーしたのだろーと子供心にも心配でありました。
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ところが、後日譚があって、平成17(2005)年(廃線後38年経過)、同鉄道の清算事業団の清算終了の
手続きが関連省庁、裁判所に提出されていないことが判明。
つまり、「起業の意思」のある人が、借金をしょって立つなら、寿都鉄道は再生の見込みがあったわけです。
しかしそれもむなしく、何年後か、商工会議所が清算終了の手続きを代行。さすがにこの行為は、ファンや、
鐡道フリークに知れるところとなることもなく、静かに、寿都鉄道の幕は下りたのでした。
<<オマケ:寿都鉄道前夜ー1>>
明治期、ニシン漁が盛んなとき、鉄道敷きたい町手ー上げろ!
といったときに、「江差、瀬棚、寿都、岩内」が名乗りを上げました。
しかし、独力で鉄道を敷いたのは寿都のみで後は省線でした。
当時の寿都の勢いが知れる逸話と思います。
しかし、江差線が最近まで残っていましたが、結局4線とも廃線となってしまいました。
最後の群来クキは昭和29(1954)年と言われております。
<<その2>>
寿都の語源は「矢柄に用いる茅のある川」を表す、シュプキペッ(Syupki-pet)がつまった「スッツ」
(壽都鐡道の駅の表記は「すつ」)ですが、「ことぶきーのーみやこ」という漢字をあてたのも、
町の繁栄と誇りが感ぜられます。
<<その3>>
寿都鉄道の開業は大正11(1920)年でした。
ホントーはもっと繁華な下町の中心・大磯町ですとか、ちょっと転勤族がおおい「新栄町」のあたりに
駅を作りたかったようです。
寿都は海岸段丘の街で道路1本1本が階段のように海岸線に沿って大きな劇場のような形をしている・・・と
想像していただければよいかもしれません。
ただ、一段、一段、の階段の「踏面」に相当する部分はそれほど広くはなかったような記憶がありました。
ですから、駅を作るといっても、寿都鉄道寿都駅は、「駅」+「車輌基地」+「本社機能」、つまり、そこに
駅設備一式と、機関区、本社等々沢山の建物、設備を押し込めることが必要でしたが、大磯町、
新栄町では狭くてあきらめちゃったのかもしれません。
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<図ー4>寿都の老舗が並ぶ大磯町と駅の関係
#海岸線の赤点の道路は旧国道
①以前の小学校の位置②同じく旧中学校の位置(各々寿都町学区だけの学校)
現在はスクールバスで、寿都町の大小のすべての集落を廻って、一か所の合同校舎授業
④→消滅:映画館、⑤信号機がつきました。、「舗」むかし舗装はここまでしかなかった
赤字は標高
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そこでいっそのこと利便性を無視、町の東側の比較的広い場所に作ることになったんでしょーか?
或は、そのころ、あまり海岸線沿いに敷設予定を見た、参謀本部が、「ロシアの艦砲射撃に会うから
もう少し高台に上がるように」と指示を出したですとか、鉄道院(省?)が「瀬棚町」迄路線を延ばすのには
高台からではないと、寿都以南の地勢が軟弱なので無理だべさとダメ出ししたですとか諸説あります。
しかし寿都ー旧瀬棚町、茂津多トンネル1974m挟んで、やく80kmあります。
本気だったんでしょうか?
***<図ー5>道床が流出した、樽岸ー湯別間*****
の写真をご覧いただいてフィナーレです。
昭和42(1967)年4月5日
前夜からの夜通しの豪雨と、朱太川の増水・氾濫で
写真の如くなった寿都鉄道にはもう立ち上がる力が残っていませんでした。
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いいだけ列島が台風でたたかれてからこのような記事を御覧になって、
不快感を覚える方もおいでになりましょう。
なにとぞご容赦ください。
この時はひょっとして、雪解け水を巻きこまなければ起きなかったかもしれないのです。
想定外なんて「けち臭い言葉」を使うのはもうやめませんか?
最後までお読みくださいましてありがとう存じました
カラスのクンセイ 拝




