再掲記事]ストリートの電線が地下化される前の島原駅付近、昭和53(1978)年3月11-12日 | 余生庵 カラスの晴耕雨・読ぶろく…クンセイが肴

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☆余生を送っている人間が書いている記事ですので、恐縮ですが
 「記事更新頑張りましょう」といったコメントにはお返事できま
  せん。

本稿は2014.2.22に当ブログに公開されたものを、ほぼ、変わらぬ形で再掲したもので

あります。ただしあまりにも、時代背景にそぐわない箇所などは、カットし、

是非とも加筆を要すると思われた箇所には+αをしておりますが、

いずれの足し引きも最小限にとどめてあります。

ここに、本稿を載せたのは、最近「千々石」をはじめとする島原半島の記事を書いて

参りましたが、過去の記事を自分でも時々確認したくなることもあり、ここに再掲するのも

有意義と考え、再掲に及びました。

どうぞ、勝手をご容赦ください。<加>→今回加筆

 

<島原半島をめぐる鉄道網>
島原半島の鉄道群も、平成9(1997)年、島原鉄道の西側半分、島原外港ー加津佐(35.3km)が廃線となり

すっかりさびしくなりました。

古ーーーーい話をすればきりがないのですが、

島原鉄道、明治44(1911)年、本諫早ー愛野間の開業を皮切りに

大正2(1913)年、省線・諫早ー島原湊(→現・南島原)が開通しました。
元々、島原鉄道は、半島東側半分のエリアだけをガバーする鉄道でした。


そして、

半島の西へ続く部分は、「口之津鉄道」が大正11(1922)年から昭和3(1928)年までに、
島原湊ー加津佐間を全通させましたが、

昭和18(1943)年、島原鉄道に吸収合併され、諫早ー加津佐間が経営一元化されました。

この間、島原鉄道開業にあたっては、鉄道院No150蒸気機関車(1号機関車)を譲渡されて
おりますが、昭和5(1930)年、保存のため鉄道省に返還され、鉄道博物館で一旦展示された後、
戦後交通博物館に移されました。


一方、半島の西海岸には、島原鉄道・愛野駅から海岸線に沿って17km余、肥前小浜
(→後・雲仙小浜に改称)まで鉄道線を開業した「雲仙鉄道
」がありました。

実は元々、島原・口之津鉄道は一人の社長さんが、かけもちで経営にあたっておられたのですが、
今度は、その社長さんの手により、温泉軽便鉄道(*)が大正12(1923)年、島原鉄道・愛野ー千々石
(ちぢわ・・・犬とは違います)間を開業、さらにその先の肥前小浜までは「小浜地方鉄道」が

昭和2(1927)年に開業・・・となります。
しかし、小浜の中心部が小浜駅のさらに2km先とあっては業績が上がろうはずもなく、両社は、

昭和8(1933)年合併、「雲仙鉄道」と改称、体質強化を図るものの有効策とはならず、昭和10年、
経営を島原鉄道に委託・・・と次々手を打ちますが根本的なところが解決されておりませんでしたので
収支が改善せぬまま昭和13(1938)年に廃止されてしまいました。

(*)温泉軽便鉄道:「うんぜんけいべんてつどう」と発音します。「温泉=うんぜん」はこの地方一帯の
古い方言なのだそうです。したがって、「温泉=雲仙」なワケです・・


<躍進する島原鉄道>
島原鉄道の過去のオリジナル・ディーゼルカーには3形式ありました。
本鉄道では、車輌番号「4」は忌番としているようです


◇キハ4500形(4501-03,05):昭和28(1953)年ー日本車輌・帝国車両製造。
国鉄のキハ17に相当。エンジンはDMH17Bx1(170PS)。後年は17C(180PS)x1に換装。
バス窓。正面両サイドとも非貫通。2枚窓ー湘南型。横3本の赤線が入り、湘南型の風貌と相まって、
「猫のひげ・・・東武の5700系程似てはいませんが・・・」のように見えました。線内列車専用


◇キハ20(2001-2003):昭和33(1958)年製造。
国鉄キハ20に相当。DMH17B。バス窓。長崎本線乗り入れ用。
国鉄・他社からの転入車もあわせ、一時18輌が在籍。
2500形新製以後廃車が進み、最後まで残っていた「2008」が島原外港ー加津佐廃線に伴い廃車となり、
形式消滅となりました。


◇キハ26形(2601-03、キハ55形(5501-3,5,6):
国鉄の同一形式を基本に設計された両運転台、準急型ディーゼル車。
キハ26は3輌製造でエアサス車、キハ55は5輌製造、180PSx2で長崎本線の急行に併結され
博多・小倉や長崎まで乗り入れました


しかし長崎本線の電化[昭和51(1976)年]、引き続きディーゼル急行が昭和55(1980)年全廃になると、
島原鉄道の乗り入れ急行の役目も終焉がやってきました。
この辺までが絶頂期だったでしょうか?

<加>急行乗り入れ:50.3-55.10

両形式とも昭和35(1960)年製造、平成12(2000)年までに全廃となりました。
冷改はキハ26が昭和47(1972)年に受けましたが、2台エンジン車のキハ55は床下艤装の
スペースの関係で冷媒用発電エンジンを搭載できず冷改はお預けとなりました。
キハ55の中には省エネで、長崎本線仕業がなくなると、1台エンジン車にされた車もあるようです。


<諫早駅とキハ17>
昭和53(1978)年3月11日撮影
  

駅舎自体は昭和9(1934)年製なので、当時も今も大きく変わってはいません。
「0番線ホーム」は今でも島原鉄道専用で、従って非電化です。
キハ17は当鉄道のキハ4500と同期というより、同一仕様で外観のみ変えたものであります。
従って、昭和28(1953)年かそのあたりの製造でしょう。
このときお歳は25歳。もー少し働けますね!!


とはいえ、昭和61(1986)年にお役御免になっていましたね・・・
写真の下半分はボケない程度に拡大してみましたが、
行き先が「有家・原城・口之津・多比良」などと、比較的近距離の案内がないのが面白いなと
思いました。
また、柱の右影、16:58の急行も見えますが、欲を言えば、行き先も見えればといった
ところでしょうか?

<加筆>長崎発で諫早に速く着き加津佐まで各駅停車と

      小倉を上の長崎発列車より遅く諫早について、南島原で上の列車に追いつき

      あとは併結で?打ち切り?加津佐まで各停という列車パターンが比較的遅くまで

      残っておりました

      答は南島原?
このころ、急行は、全線1往復、諫早ー島原間急行、加津佐まで各停というパターンが多かったと
思います。


<島原駅とぐるり> 

昭和53(1978)年3月12日:次の二葉とも
<島原駅>

さてさて、3月11日の半島めぐりは無理!!でしたので、その日は長崎に泊まって、翌日出直しです。
 
いまはすっかり「城壁」の色とあわせてしまって、それこそ、お城の大手門のような気取った
面構えになった島原駅ですが・・・そりゃ、もー、見ようによっては「ふぉとじぇにっく!!」な感じに
なりましたよ。
でも、この正面のハーフティンバー風の模様ですとか、扁額にみたてた?駅名票もフーカクがあって、
個人的にはこっちの方が素敵だと思うんですけれど??


<島原駅前通り>

 
 ちょっと保管が悪くて色アカンですね。
駅前通りから正面が島原城です。
この頃はまだ、電線の地下化が終わっておらず、近くても、遠くから撮っても、
電線が入り放題でした。


<そして・・・あの日・・・・>
 雲仙普賢岳大火砕流、平成3(1991)年6月3日・・・消防・報道関係者、地質学者に死者43名。
一部に過剰な報道をもとめたことも死者を増やした原因とあったが・・・本当?
鉄道は再起不能と思われました・・・

平成9(1997)年4月1日、島原外港から4つ加津佐寄りの深江まで、餘部の鉄橋とも思えるような、
骨太のコンクリート高架橋ができました。ヤレヤレ・・・
これなら、どんな火砕流・土石流でも下を通り抜けて行ってくれるでしょう・・・

でも、その区間を含めて平成20(2008)年4月1日、加津佐までの線路がなくなりました。

 

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再掲記事]ストリートの電線が地下化される前の島原駅付近、昭和53(1978)年3月11-12日

                                                                      
                                                            了

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心より感謝申し上げます

 

 カラスのクンセイ 拝