前回<橘湾と唐比(からこ)浜と千々石のなぞ>と題しました上に、
オワリに
①ハマ:の漢字の使い方が違うのではないか?
②「からこ」の「こ→比は此の誤転写ではありませんか?」
とユーところで終わっておりました。
私は
「ちぢわ(千々石または千々岩)」というのは、「過去における火山活動+地殻変動」の結果を
あらわす九州独特の表現だと思っておりました。
そして、それも限られた地域でしか使われないもので、「板状節理*」のことかと勝手に
思い込んでおりました。
*板状節理:溶岩層が何重にも流れているところが、何らかの理由で層状に何重にも
固まってしまうことをいいますが、日本では「東尋坊(福井) 他」「柱状節理の方が
名が通っていて影が薄いですね・・・・
それとも簡単に考えておいた方が得だと思いましたので、
理由は、やはり日々?火山活動を起こしている島原半島に住所が集中しているからと
頭のどこかで決めつけているからでしょうね?
ところで、
調べえた限りでは、やはり下記の通り、「特定の」場所に集中してありましたのですが・・・
*************************************************
<長崎県雲仙市千々石の甲から庚までの住所の位置取り>
<千々石の正確な名前:したの②-④、⑥-⑧・・・等の関係は
「甲きのえ(木の兄)ー乙きのと(木の弟)と同じ関係でありましょーか??
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なぜ、甲ー乙ー丙ー丁ー戊ー己ー庚 が時計回りで住所を表わすことのなっているのか
わかりませんでした。
次に「ちぢわ」自体についてのオハナシ・・・「火山活動と無関係な部分」について少々・・・
佐賀県では「人名、地名」すべて<千々岩さん>と表記するようであり、安易なl推論は禁物ですが、
この難しい字の組み合わせには、意外なほど、読みが沢山あって
*せんせんいわ*ちくいわ*ちじいわ*ちじわ*ちちいわ*ちじいわ*ちぢわ
と非常に多彩で、九州島内では、長崎>佐賀>宮崎の順に多しとありましたが、
転勤族の方かもしれませんが、私は、北海道内で定住されておられる
千々岩チヂワさんに10年ほど前にお目にかかったことがあります。
一族の分散がすでに始まっていると思われました。
ぢゃ、ちぢわ、とゆーのはおまえのゆーとーり、板状節理のことかい?と考える前に、
地名は、千々「石」、人名は(長崎以外は)千々「岩」と使い分けているよう感じました。
例えば、岐阜県の明知地方出身の土岐氏の親族の「明智氏」、
一時期は、淡路島の南半分を版図にしておりました、志知が本拠地の志智氏。
いずれも、土地名の「知」に「+日」と画数を多くし、自分たちの縄張り意識を強め(日=日の本の国から転じて
中世は一国のエリアのイミ)、同時に武装集団の長が誰であるかを明確にしようとしています。
同じく、千々岩は「おら、山持ってるぞー」ではありませんが、何らかの「資産を持っていること=人としての
生活ができることの保証を表している」と、石の上にも不動産とでもゆーのでしょーか?
(イエローカードが2枚になりました・・・)。
では、ここで、「千々石」についての
「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」を御覧いただきます。
長崎県南高来(みなみたかき)郡にあった旧町名(千々石町ちょう)。
現在は雲仙(うんぜん)市の中央部を占める。
●旧千々石町:昭和3(1928)年町制施行。
●平成17(2005)年、千々石が中心となり、国見(くにみ:高校サッカーで有名ですね)、瑞穂(みずほ)、
吾妻(あづま)、愛野(あいの)、小浜(おばま)、南串山(みなみくしやま)の6町と合併
→、市制施行、雲仙市となる。
●旧千々石町域は島原半島の北西部に位置し、雲仙岳西麓(ろく)に広がる。
千々石断層崖(がい)下に発達する地域で、橘(たちばな)湾に臨む千々石低地は、
『肥前国風土記(ひぜんのくにふどき)』に記されている土歯(ひじは)ノ池に相当し、
古くは入り江であったが海岸砂丘の発達とともに潟(かた)(池)となり、さらに陸化したもので(■1)、
低地内に残存する蓮田(はすだ)はその名残(なごり)である。
国道57号が通じ、JR長崎本線諫早(いさはや)駅からバスがある。
地域の中心野田地区は近世には旧街道沿いの街村であった。主産業は農業。小倉(おぐら)には中世、
千々石氏の山城(やまじろ)があり、初代城主は天正(てんしょう)遣欧使節千々石ミゲル(本名清左衛門
(せいざえもん))の父という。山麓(さんろく)に日露戦争の軍神とされる橘周太(1865―1905)中佐を
祀(まつ)る橘神社(■2)がある。西部の海岸砂丘上には塩屋(しおや)、塩浜(しおはま)、船津(ふなづ)の
漁業集落があり、イワシ網と煮干しを主とし、近年ハマチ養殖を導入。塩屋には海水浴場がある。
■1:もともと日本列島は2-3m/100年、東北震災以後は5-6m/年東へ移動しているとされています。
ひじは(土歯)=ちぢわの古語であったとすれば、
700年初頭、元明天皇の「風土記編纂」の命により、「ひじは・・・以下の記録が残っているとするのも、
納得がいきます。しかし、列島移動説から、海岸線が、上記のように移動していたとしても、
「潟=その昔海であったがゼロメートル程度の陸地になること」1500年代に山城が縄張り(設計)が
引けたりしましたでしょうか?・・・確かに雲仙市役所他繁華な所は海抜10-15mでしかありません。
しかし、国道57号線より内陸は、たとえば「木津駅あと」付近の57号線は海岸から2.5kmですが
国道の山側は、標高300mm前後で、おそらく隆起か褶曲が起こったと思われます。
参考までに
独立丘の中世山城といえば☆尼子氏の戸田城標高197m,
☆上杉謙信の春日山城162m
が有名ですが、300mという標高を聞くと、やはり1-2回の地殻変動があったと考えざるを得ません
・・・とおもったらやはりでてきました
「長崎県の地震活動の特徴 - 地震調査研究推進本部ー長崎県」様
http://www.jishin.go.jp/main/yosokuchizu/kyushu-okinawa/p42_nagasaki.htm
「緒言」で
<長崎県に被害を及ぼす地震は、主に陸域や沿岸部の浅い場所で発生する地震と太平洋側沖合で発生する地震です。>という一文で始まり・・・以下の実録に続きます。
(スペースの関係で多少コンパクトにしてあります)
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◎浅いところで発生した被害地震としては、
・1700年の壱岐・対馬付近の地震(M7.0)、
・1792年の島原半島の地震(M6.4)、
・1922(大正11)年の島原(千々石湾)地震(M6.9、M6.5)など。
☆このうち1700年の地震では、壱岐及び対馬で被害が大きく、
特に壱岐では石垣や墓石がことごとく崩れ、家屋も大半が崩壊しました。
佐賀や平戸でも瓦が落ちるなどの被害が生じました。震源の詳細は不明ですが、
被害状況から壱岐近海と推定されています。
なお、朝鮮半島でも被害が生じたことから判断すると、対馬の西方に震源があった
とも考えられます。壱岐対馬の近海には海底に活断層がある可能性があります。
☆1792年の島原半島の地震は雲仙普賢岳の噴火活動に伴って発生しました。
1792年4月頃より島原半島周辺で有感地震が頻発し、5月21日にはM6.4の最
大の地震が発生しました。この地震が引き金となって古い溶岩ドームである眉山(当
時前山)の一部が大崩壊しました。崩壊した山体は有明海に流れこんで津波を発生
させ、有明海沿岸に甚大な被害を及ぼしました。
この噴火活動の前から島原半島西部~千々石湾(橘湾)付近を震源とする群発地震
活動があり、1791年12月の地震では島原半島西部の小浜で家屋が倒壊して2名
が死亡しました。
☆なお、1990年から始まった雲仙普賢岳の最新の噴火活動(「平成3年(1991年)雲仙岳噴火」)でも、
噴火約1年前から島原半島西部~千々石湾で活発な地震活動がありましたが、地震の規模は小さく
被害はありませんでした。
島原半島周辺では直接噴火活動に結びつかない群発地震もたびたび発生しています。
1922年の島原(千々石湾)地震(M6.9、M6.5)
1984年8月には島原半島西岸の千々石町(旧名、現在の雲仙市)付近で最大M5.7の群発地震
長崎県では、このほか
1657年の地震(M不明、長崎で被害大)、
1725年の地震(M6.0、長崎、平戸で被害あり)、
1828年の地震(M6.0、天草、長崎、五島で被害あり)などで被害
● 長崎県では、南海トラフ沿いの巨大地震のなかで、四国沖から紀伊半島沖が震源域となった場合、
津波による浸水や地震の揺れなどによる被害を受けることがあります。
例えば 、
1707年の宝永地震(M8.6)では津波による浸水被害が長崎市で生じました。
1854年の安政南海地震(M8.4)や
1946年の南海地震(M8.0)でも、家屋への被害が生じました。
まとめ
県内地震:1657-1700(+43年)-1725(+25年)-(1792+普賢岳)-
-1828(+103年)-1922(+84年)
トラフ県外地震:1707-1854(+144年)-1946(+92年)
地震周期70年説に従うと、トラフ県外の1707-1854の144年が70x2で当たっているかも?
トラフ 県内
1657 ●
1707 1700 活動期68年
1725 ●
休止期 67年 ●
(1792) 活動期 62年
1828
1854 ●
休止期 68年
1922 ●
1946 活動期 1992?迄で現在休止期
かなりあてずっぽーです
忘れていました
■2)橘中佐)慶応元(1865)年生まれ:陸軍士官学校出身。明治37(1904)年、少佐で日露開戦時は管理部門の
一員として出征、ほどなく歩兵34聯隊第1大隊長に転出。その職務中戦死。軍功により戦死後
中佐に特進。
長崎県千々石湾は、地元民が中佐の軍功を誇りに思い軍部に掛け合い、名前を「橘湾」に
変更してくれるよう申請したところ、海軍水路部から正式に許可が下りて変わったものです。
橘湾と唐比(からこ)浜と千々石のなぞなぞ1/3 了
今回千々石/千々岩と地震70年周期説のほら話におつきあいいただきましてありがとうございました。
次回は「比(こ)は此」の御転写ではないか?とユー命題に挑戦してみたいと思います。
カラスのクンセイ 拝

