モーソーJR北街道の野暮ー:列車正面のモニター画像、琴似駅付近にて(2/2-2) | 余生庵 カラスの晴耕雨・読ぶろく…クンセイが肴

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残り少ない余生をテキトーにいきていくブログ
◇監修 左上野 老鶴 ◇GM 経田野 横鋤 ◇照明 当代元 蔵志
☆余生を送っている人間が書いている記事ですので、恐縮ですが
 「記事更新頑張りましょう」といったコメントにはお返事できま
  せん。



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<図-12>高架・琴似駅と4分遅れで進入中の「千歳行1760M」731系電車
「羊蹄」1輌目、正面モニターからの画像、11:57頃。


[鉛筆:Staedtler F,Mitsubishi Hi-Uni 9B & Uni 4B, & 三菱色鉛筆・朱色
Tombow 色鉛筆・黒、青、紫 + ペンテル修正液]
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各高架駅、札幌・桑園・琴似はホーム部分がシェルターで覆われているため
写メでホームから列車全体像をとろうとすると、私の腕ではピンボケになるか、
それとも、コントラストがきつくなるのを覚悟で、ホームからとるかどちらかでしょーか?
上の電車の正体、実は
「下り・岩見沢行き、区間快速(手稲ー札幌快速運転)いしかりライナー」

平成26(2014).5.19.17:16、写メで撮影したもの(琴似駅)を模写

(実写版よりいくらか自在な塗り分けで時間の設定ができるのでは・・・?
とやってみましたが、自分ごときウデでは無理でした・・・)

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この日本で3番とも4番目とも評価できる「手宮~札幌間起業」には、工事開始から11カ月で
開通しておりますが、工期としては大変短時間で完成までこぎつけました。

小樽開発建設部ホームページ http://www.ot.hkd.mlit.go.jp/」様の一文、
一般国道5号 銭函ー小樽間の歴史 文献 小樽市史より抜粋編集許諾済
 
によりますと、
 当時の開拓使・鉄道官僚としてアメリカから招聘されていました、ジョセフ・クロフォードさん
おっしゃるお方が、

元々ありました
①小樽ー銭函間道路は鉄道専用に転用
②始めから複線設計で5m幅を確保すべきでないかい・・・
と開拓使長官に進言(●7)。

もちろんこの方が一番鉄道に詳しい方ですから、開拓使のお役所の中には反対する人間が
いようはずもなくあっさり決まりました。
しかし、クロフォードサンは見識高く、人格高潔であったことも周囲から異論が出なかった
原因とも言われておりました。

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じょせふ・ゆーりー・くろふぉーど
Joseph.U.Crawford(1842年~1924年)
      
       アメリカ ペンシルバニア州生まれ
        同地大学卒業
       幌内鉄道建設の功労者
      
       南北戦争中(1861~1895年)は北緯大尉(北軍大尉)として野戦の土塁構築に従事し、
       戦後、パシフィック鉄道やペンシルバニア鉄道技師として、鉄道建設について
       十分の経験を積む。
      
       1878年~1882年の間、開拓使に招かれ幌内鉄道の建設に力をそそぎ帰国。
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●官営鉄道の機関車たちを御紹介しましょう(●7、前項と同じ参考図書です)。
1.「義経」号;1880年(明治13)年、明治開拓使の輸入第1号でアメリカのポーター社製です。
     ⇒官営鉄道編入後は7100形と付番されました。
2.「大勝」號:国産第2番目の蒸気機関車で、現存する最も古い国産蒸気機関車です。
  北海道炭礦鉄道が1895(明治28)年、手宮工場で製造。
  日清戦争の勝利が確定した時に完成したのでこの愛称に。
  現在は、小樽市総合博物館に保存されています。官営鉄道編入後は7150形。

●次に手宮線の歴史と、現在の南小樽駅について御説明しておきたいと思います(●8)。
   明治13(1880)年10月、手宮桟橋- 熊碓第4隧道間で試運転
             11月、官営幌内鉄道が手宮 - 開運町 - 札幌を開業、手宮・開運町の各駅を新設。
   明治14年       、 開運町を住吉に改称。
   明治22年       、北海道炭礦鉄道に譲渡
   明治36(1903)年8月  、手宮 - 室蘭間に急行列車が運転開始。
   明治38年       、北海道鉄道(初代)、小樽(初代)(現・南小樽) - 高島(現・小樽)間開業。
   大正9(1920)年    、小樽を南小樽に改称。

 この間明治43(1910)-昭和18(1943)年手宮線は複線でした。
 一方、ずーーーッと私鉄でありました函館線・南小樽以西は単線のままでした。
 「小樽・南小樽の複線化」は昭和39(1964)年9月27日に完成しました。

 そして厄介なことに、「小樽」「南小樽」とも駅名が随分変わっていますし、
 中には随分紛らわしい駅名が ありました。


 小樽の話は、難しいですね。

 ●現在の「小樽」は「初代・北海道鉄道」の駅
 ●現在の「南小樽」は官営鉄道、北炭の駅で、中間に「色内臨時駅」がありました。
   そこから山手を目指すと、日本銀行小樽支店をはじめとする数々の金融機関を擁した
     「色内地区」に出ることができました。
   当時の色内地区は札幌・函館の経済力をおさえており「北のウォール街」といわれました。

 ●また、市立病院や、小樽市内で一番位の高い神社であります「住吉神社」は、今に至るまで、
   いずれも南小樽駅から徒歩数分でいくことが可能であります。

  このように、昭和の初期のころまでは、金融関係は「色内」、官庁街の一部は「南小樽」にあって、
  小樽の中心部と言えば、「南小樽とその一円」でありました。

    次に小樽・南小樽駅の駅名の変遷を並べてみましたが、

  ☆小樽中央(明治36[1903]年)⇒高島(明治37年)⇒中央小樽(明治38年)⇒小樽(大正9[1920]年)
  ☆開運町(明治13[1880]年)⇒住吉(明治14年)⇒小樽(明治33年)⇒南小樽(大正9年)

 
  そのほかにも小樽にまつわるお話、運河や、南小樽の駅のレイアウト方式ですとか、
  また近くなりましたらご説明いたします。

 さて、そろそろ手稲が近付いてまいりました。
 手稲が札幌と合併したのが昭和42(1967)年でありますから、もう半世紀近くもたっております。


 手稲駅は官営鉄道開通と同時に、付近の川から名前をとって、明治13(1880)年に
 「軽川がるがわ駅」として開業しました(●9)。
 
 始めは客・貨があるときだけ駅員さんが「旗を出して列車を止める<フラッグ・ステーション>
 と呼ばれるもので、臨時駅に近いものでしたが、明治17年、一般駅に昇格しております。
 そして、昭和27(1952)年、先住民の方々の要望から、「ていね駅」と改称再スタートを切って
 現在に至っております。


 「ていね」は先住民の言葉で「デイ・ネイ=よく埋まるところ」という意味らしいのですが、
 ひょっとして、「泥濘⇒テイ・ネイ」という言葉が、和人ー先住民ー和人と一周してきたのかも
 しれません。


 また、札幌市内のJR駅乗車人員連続2位と偉そうな顔をしなさっているということですが?

 次に、2012年統計の地下鉄の乗降人員を加えた値を御紹介いたします。
 そーしますと、如何にJRのみの乗降人員だけでは、都市交通を語れないかが御理解
 いただけるかと存じます。


 (単位:人/日)
 1位   札幌     JR 91575人+地下鉄・南北線と東豊線:2路線合計84404人
 2位   手稲     JR 14429      地下鉄なし
 3位     新札幌 JR 13879     + 地下鉄東西線               19401

とはいえ
札幌ー手稲間は、一日普通列車、札幌⇒手稲133本と最頻繁運転区間です。
これは1997年の1.1倍。
2位は札幌⇒千歳の普通列車116+特急5+急行1でこれは1997年の1.0倍とほとんど
増えていません(●10)。
線路容量が限界に近いと思われます。

 また、大麻ー白石間のところでも触れましたが、函館本線は、路線の北側は泥炭地が広がっており
 手稲付近も例外ではありません.。


   ひとつ札幌寄りの「稲積公園駅」付近が昭和58(1983)年高架になったお話は前回の(2/2-1)出させて
 いただきました。

   この、手稲から稲積公園駅一体の日本海側の「字」を「前田」と申しております。


  明治28(1895)年、加賀百万石16代目御当主、前田利嗣公が、「士族授産」の命を受けまして、
  この地で土地の改良を行うかたがた「牧場」を始めました。
  最終的には昭和10(1930)年から経営難に陥り、昭和21年には「前田牧場」は解散となりましたが、
  「前田」という地名が正式に昭和17(1942)年この地に残されました(●11)。

  廃線になりましたが、岩内線の終点近くの前田地区も、利嗣公縁の土地であります。


 そして先ほど来話題としてお出ししております「稲積」は、現在、前田内で小字として「軽川」「中の川」
 「三樽別川」に囲まれたひじょーに狭いエリアとなってしまいましたが、


 実は、泥炭のこの地区を立派な放牧地あるいは農地にして見せようぢゃないかと、小樽の
 稲積次郎氏が、前田公のやり方にあこがれてここに牧場を営む傍ら、土地改良に挑戦しました。
 結果は途中で資金難に陥り、うまくいきませんでしたが、実は、この付近一帯の土地改良工事が
 完成をみるのは、ようやく昭和59(1984)年のことで、こんな国家事業レベルの土地改良に
 取り掛かったわけですから、資金がいくらあっても足りることはなかったでありましょう。


 そのいきさつは、いまだ地元の「稲積中学」の校舎の中に功績をたたえる文章が大切に保管・公開
 されておりますし、学校近くにある稲積記念会館玄関前の事業完成記念の碑
 「郷栄乃碑(きょうえいのひ)」にその労苦と功績が顕彰されております
(●12)。


 さて土地改良の話は、これくらいにしまして、手稲駅の駅舎側の線路(向かって右の軌道)をずーッと
 小樽寄りに伝っていきますと、隣の駅「稲穂駅」につきます頃、やっと函館線の海側に、札幌運転所が
 見えてまいります。
 苗穂運転所がディーゼルカーの基地とすれば、こちらは一応オールマイティなのですが、
 やはり電車が主力の基地でしょう。


 

ここの変わったところは、入れ替え用の小型ディーゼル機関車の常在は位置がないので、
 「毎日、苗穂運転所から入れ替え用DL」が出稼ぎにやってくるところです。


 次の星置は、軌道敷と国道の標高差が約10mと30mと20mもあり、国道から駅ホームの姿は
 全く見えません。
 この約20mの
軌道敷と国道の標高差は、朝里まで続きます。、  

 札幌の近郊区間でしたので、正面カメラでのご紹介の方が面白いかと思いましたが、御紹介内容が多すぎて
 却ってモニターをご覧になる時間がなかったかも
しれませんね。


  そろそろ日本海が近付いてきましたので、しばらく日本海独特の荒々しい波濤を車窓からご覧ください。


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<●6以降の参考図書>
●7:鉄道ピクトリアル 1980 臨時増刊号 12 「北海道の開発と鉄道」 青木 栄一、
       Vol 30,No 12 通巻 No 384 北海道鉄道開通百年記念号 pp7、鉄道図書刊行会
●8:Wikipedia手宮線、
       http://www.bing.com/search?q=%E6%89%8B%E5%AE%AE%E7%B7%9A&x=0&y=0&form=MSNH69&qs
       =n&sk=&mkt=ja-jp&sc=8-3
●9:日本鉄道旅行地図帳 1 北海道 今尾 恵介 監修 新潮旅ムック pp34 新潮社 平成20年5月1日
●10:鉄道ピクトリアル 1998 8  <特集> JR北海道 総説;JR北海道 北海道旅客鉄道(株) 、
        Vol 48,No 12 通巻 No 657 pp12、鉄道図書刊行会
●11:さっぽろ文庫 2 札幌の街並み 西区 「不毛地をよみがえらせた前田農場」 及川 武雄 氏談
        pp280-281 昭和52年11月30日 札幌市教育委員会文化資料室 編集
        (この当時、手稲区はまだ西区から分区しておりませんでした:カラス註)
●12:札幌市稲積中学校
        http://www.inazumi-j.sapporo-c.ed.jp/data/data.htm
        「校名の由来と校区の歴史」
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モーソーJR北街道の野暮ー:列車正面のモニター画像、琴似駅付近にて(2/2-2)  了


次回は多分・・・モーソーJR北街道のヤボー:北街道電化区間の西端をゆく(2/2-3:おそらく終)です。