3回ほどですが、夕張鉄道の廃線後の姿をご覧いただきたいと思います。
当初の予定では2-3年かかっても、全駅集めるつもりでしたが、生来の飽きっぽい性格が災いしたのか
1年目の夏でやめてしまいました。
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<表ー1>夕張鉄道駅名ご紹介
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まずは野幌駅からスタートです。
<夕張鉄道は「北海道炭礦汽船株式会社(北炭)」の子会社でありました>
この北炭はもとをただせば、北海道開拓使の厚い保護を受けて育った、明治22(1889)年生まれの
「北海道炭礦鉄道会社」でありました。
その後、同社は、明治39(1906)年の鉄道国有法の実施に伴い、鉄道部門約200kmを国に売却、
鉄道部門が抜けた後の社名を先ほどの「北海道炭礦汽船株式会社(北炭)」としたのでした。
また、夕張鉄道と言えば、たいてい北海道の(鉄さん達の)印象はやはり「ディーゼル先進国」と
いうイメージをもっていましょうか?
まず、昭和27(19552)年、国鉄のキハ07機械式ディーゼルカーを多少グレードアップさせた
200形(201,202)を就役させました。原型の省型キハ42500形(2代目)→キハ07の3扉から2扉、
正面上昇5枚窓から一部Hゴム支持の4枚窓化などですが、その翌年すぐ道内初となる液体式
トルクコンバータ付ディーゼルカーを導入(キハ251形、同型車は最終4輌)、最終的には
昭和43(1968)年6月にキハ300型3連1編成(キハ301+ナハニフ153+キハ302)を投入したところで、
すでに石炭産業は役目を終え鉄道もあとを追いました(※)。
途中定期急行運転が昭和36年9月-42年10月と6年間続いたのは、道内の産炭鉄道としては
当鉄道しかなく、また北海道で定期優等列車を運行させていたのは、他に定山渓鉄道のみで
ありましょうか
(特急:昭和29-36[1954-1961]年、急行:昭和24-41[1949-1966]年、準急:昭和27-39[1952-1964]年)。
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(※)国内のエネルギー政策の転換で、我が国の鉱業員の最高人員だったのが昭和33(1958)年、
石炭の最高出炭量は昭和35(1960)年でした。
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<写真ー1>国鉄・野幌駅(先代・ニ代目?) 、函館本線 
野幌駅自体は、官営幌内鉄道が明治22(1889)年11月3日開設といった大変歴史あるものです。
そこに、夕張鉄道が到達したのは昭和5(1930)年の事でした。
元々相対式2面2線の間に中線2本と言う2面4線(後中線は撤去)変則的配線に、南行方面(札幌方面・
上り)用ホームの国鉄線と反対側に、いわゆる一線ツッコミ型で夕張鉄道の場所を確保しました。
駅舎は明治33(1900)年に焼失とありましたが、その後、改築の記録がありません。
写真からは、とても築80年とは思えません。
かといって、途中改築の根拠がありませんので、2代目としました。
平成23(2011)年10月23日には、3?代目駅舎が高架構造でオープンしましたが、変哲もない
相対式2面2線の配線です。
高架橋の両端には退避線追加の準備造成工事は行われていません。
高架工事の時に、島式2面4線などとしていれば、特急の遅延などの時の臨時退避に使えたのにと
考えますと、せっかくのチャンスを・・・
あ、そ-いえばJR北海道さんって貧乏だったんでしたネ。
ちょっと聞いて下さいよ。北海道電力さんも2回目の値上げするんですよ。
あらゆる面で、ホッカイドーはビンボーなんですよ!!。
そんで、ごぞんじですか?あの、一昔前世界一の戦車大国と言われたロシア共和国の戦車保有
台数は、今や冷戦時代の5400から2800輌へ、
ドイツは1990年代の5000輌以上の戦車を今320輌にしました。
で、日本はとゆーとですねー、昨年末の戦車保有台数は、74式(280)、90式(341)、10式(39)輌の
約660輌保有があるわけです。
この中で、90式は運転重量50tonもあって、強度上日本の国道橋梁の65%しか渡れませんから、300台
売りまショー。中古ですからね・・・1台3億円くらいで・・・ほんとは新品ですと、9から11億円前後
なんです。すると900億が入ってくるわけです。
北電の値上げだってなくなりますよ。300台の戦車は、11旅団と5旅団の戦車大隊をつぶして
それから・・・
陸自の記事でなかったっけ?失礼、次行きます。
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<写真ー2>野幌バス停留所→北海鋼機前、旧・駅舎
「上江別」からここに新駅を作り移動させました。
速達便は、国鉄は朝の準急夕張(→準急第一夕張→急行夕張1号)で、夕張ー札幌間
2時間15-20分で走破。
夜行寝台急行が止まる江別も通過し、ひたすら走りました(札幌・岩見沢無停車便38-39分、
現在各駅停車1M2T電車42分、札幌・江別快速37分).。
一方、夕張鉄道は当時の追分町(平成の合併で早来と合併、安平あびら町に)境であるとともに、
分水嶺である「雨霧山509m」に、日本私鉄業界ここだけ、という本格的三段スイッチバック・錦沢
信号所を設け、急坂を駆け下り、ひたすら野幌を目指します。
夕鉄は列車乗車時間急行で67分+バス接続5分+バス乗車35-40分、計2時間弱で札幌の「大通り」
と言う繁華街に出ることができました。
しかし、
国鉄は、速達便でも夕張線(現・石勝線)内は明治の鉄道で線形が悪く、札幌ー夕張は距離が長いという
弱点がありましたが、夕鉄はなんと言っても乗り換えがネックでした。
錦沢信号所ですが、付近の景色が秀逸であることから、いつしか近隣の人々の耳目を集める
ようになり、翌年には早くも駅に昇格。夕鉄では、池にボートを配したり、豆汽車を走らせたり、
300本の桜の植樹を行ったりしまして、しばらくして、春は桜の,秋は紅葉の名所「錦沢公園」
として名をはせ、麓、遠方の角田、南幌からも集客しておりました。
夕鉄の合理化から昭和45(1970)年閉園。
今は場所によっては踏破確認するところが難しい箇所が出てきているほど自然に戻りつつあるようです。
駅に昇格なった諸設備は、スイッチバック中段に置かれておりましたが、かかる配置は国鉄にも
見いだせず、今にして思えば、、スイッチバックの箇所だけでも駅設備とともに実物を残しておけば、
産業遺産としての価値があったのではと(結局中段以外には平坦部は確保できなかったということで
ありましょうから)・・・
雨霧山の急こう配のところに敷設した様子などもわかるでしょうし、おしまれてなりません。
写真の北海鋼機前駅は、鉄道廃止後もしばらくバス待合室に使われておりまして、写真右手の方、
何台かバスが止まっているのがご覧いただけますでしょうか?
やってきそうな駅舎のように見えます(腕木信号機も使われているようでした)。
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<写真ー3>上江別駅跡
写真ー2の野幌バス停ができるまでの札幌行き連絡バス発着所でした。
列車とホームに乗ったボンネットバスが並んで写っている写真をご覧になったことが
おありの方がおいでかもしれませんが、あのバスはトイレ代用ですので・・・
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<写真ー4>下の月駅跡:バス停はモチロン「下の月」です

道路に面してすぐ向こう側、高さがまちまちですが、土盛り様になっている所が軌道敷用築堤です。
この道路とは写真左手(上江別方)すぐのところで平面交差があって、この土盛りのラインは道路を
横切っているのですが、古い地図の夕張鉄道の踏切と一致しました。
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<写真ー5>南幌向(昭和5)→南幌みなみほろ(昭和38改称)→
南幌なんぽろ(昭和43呼称変更)、旧・駅舎
夕張鉄道沿線では栗山に次いで大きな町でした。
野幌ー栗山間廃止直前においても、当駅のみで列車交換業務が行われておりました。
また純農村地帯で昭和45(1970)年に約6500人だった人口が昭和55(1980)年には約5500人まで
減少しますが、平成にかわった1990年代より札幌のベッドタウンとして、人口が増加に転じ
(直線距離で江別駅まで約9km、札幌駅まで約24km)、平成7(2005)年には9500人を記録
しましたが、現在は漸減中で8800人中程で落ち着いています。
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<写真ー6>北長沼、旧・駅舎
ご覧の通りのあり様・・・何か工事が始まる直前だったのでしょうか?
旧駅舎の中は資材や機械でいっぱいでした。
それならいいのですが、まわりを取り囲むこわそーなおじさんたち・・・
30年前と申しますと、「鉄道関係の写真を撮りたいって?あ~ン?おめー、どっか、おかしくないかー?」
といった扱いで・・・
ところが、幸運にも夕鉄の旧職員の方がいらして、やっと撮らせていただいたのが、この写真です。
駅舎の中は、工作機械などあり危険なので立ち入り禁止ということでした。
今では、お名前くらい伺っておけばよかったと後悔しております・・・
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<写真ー7>先代(ニ代目)栗山、室蘭本線
もともと北海道炭礦鉄道が室蘭から工事を始めて明治26(1893)年7月1日に当地に到達、
駅を造成しました。
明治39(1906)年10月1日、鉄道国有法による、国家買収で国営鉄道になりましたが、
奇しくも大正15(1926)年北炭系の夕張鉄道が再度横切ることになり、何かしらの縁
を感じます。
栗山地区の夕鉄の廃止は昭和50(1975)年でした。
現在、構内配線は相対式2面2線ですが、夕鉄線健在なりしころは、3面5線をもち
4番線と5番線を夕張鉄道線が使用していました。
夕張鉄道線廃止後も、規模の大きい駅構内に貨車が多数留置されているなど活気が感じられる駅
でしたが、1980年代半ばに大半が撤去され、現在は必要最小限の設備を残すのみになりました。
1番線と2番線の間に中線がありますが、使われていません。
駅舎は平成12(2000)年に建て替えられ「くりやまカルチャープラザEki」という名前がつけられています。
町自体の人口は、チョット前に木工産業の倒産があったなど、ややじり貧傾向ですが、
明治11(1878)年札幌で起業、同34(1891)年栗山に移転して盛業を続けている小林酒造の
築100年になる札幌軟石からなる蔵は、造り酒屋としては全国の中でも貴重で、
「蔵、住宅など13棟」が国の登録有形文化財の指定胃を受けるなど地域性が反映されている
地場産業の活躍もあ、り将来につながる大事な町の財産かと思われます。
<栗山町人口概数>
昭和45(1970)年→19000人
昭和50(1975)年→17500人:栗山地区の夕鉄廃止
平成22(2010)年→13300人
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参考図書
・レイル No.21 私鉄紀行 昭和30年代北海道のローカル私鉄をたずねて
北線路 never again (上) 湯口 透 著 PRESSE EISENBAHN
昭和63(1988)年3月31日
・日本鉄道旅行歴史地図帳 1号 北海道 今尾恵介、原 武史 監修
新潮「旅」ムック 新潮社 平成22年5月18日
・日本鉄道旅行地図帳 1号 北海道 今尾恵介 監修
新潮「旅」ムック 新潮社 平成20年5月1日
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撮影日:昭和56(1981)年
先代・野幌駅舎 8月10日
旧・北海鋼機駅舎 9月 7日
上江別駅跡 9月 7日
下の月駅跡 9月 7日
旧・南幌駅舎 8月10日
旧・北長沼駅舎 8月10日
先代・栗山駅舎 8月10日
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今回は例によって前置きが長くなりご迷惑をおかけしました。
夕張鉄道の前半は終了です。 後半へ続く!!!
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