二等巡洋艦(軽巡洋艦)「夕張」 と 平賀 譲 海軍技術中将 | 余生庵 カラスの晴耕雨・読ぶろく…クンセイが肴

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残り少ない余生をテキトーにいきていくブログ
◇監修 左上野 老鶴 ◇GM 経田野 横鋤 ◇照明 当代元 蔵志
☆余生を送っている人間が書いている記事ですので、恐縮ですが
 「記事更新頑張りましょう」といったコメントにはお返事できま
  せん。

I. まず「夕張」の話の前に、二次大戦時代の、戦闘艦の分類というのをやってみたいと思います。

それには、歴史的お話も多少しなければならず、明治期からの流れもチョイと書きますので、ご容赦ください。

え?どーして、「夕張」を選んだのかって?
それは、二次大戦中の戦闘艦の中で、唯一北海道の名前が使われているからです。
道民の埃・・・誇りみたいものですから。

まさかねー、「ヤリキレナイ(空知管内・河川名なので二等巡洋艦に使用可)」ですとか、「トムラウシ(上川/十勝管内境界線・山岳名なので一等巡洋艦に使用可)・・・・遭難事故が多い」などは使えませんものねぇ・・・

1.船の分類呼称について
   「日清ー日露ー一次大戦ー日中戦争ー二次大戦」と戦闘艦は大型化し、それに伴い区分・名称は明治以降で
        どんどん変わっていきます。
   例)日露戦争(明治31年-1904年)の時、最大級だったのは戦艦三笠(15000ton,15000PS,18ノット[kt])でした。
      二次大戦となると、一等巡洋艦(重巡洋艦)は13000ton,152000PS,35ktと排水量は三 笠に迫る大きさ、
              エンジンは10倍、速度は倍にもなりました

※矢印は左から右へ発展、または派生とお考えください。
◇戦艦
◇装甲巡洋艦→巡洋戦艦(戦艦と同等の砲力+高速性+防御は巡洋艦レベル)
           *英国海軍呼称は「戦闘巡洋艦」:攻撃力大なる巡洋艦で「巡洋艦」を強調
           *日本は先頭にくる言葉が修飾語になるので、巡洋艦の性格を持つ「戦艦」 と戦艦よりのスタンス。
           *おおむね排水量30000ton未満ですが、  
              ・独逸のグナイゼナウ、シャルンホルストは35000ton
                                     ・ 英国のフッドは42600ton、 速度は初期は20-25kt,後に28-31kt, 砲力は30cm砲、後35-38cm
                                       (大和は46cm)、
               ・防御は側弦200-300mm(一部に喫水線、石炭庫のみの防御強化から一歩抜け出した戦闘艦)

◇巡洋艦:木造艦から全金属性の装甲艦の製造が可能となり、一旦、比較的大型で鈍足 の 艦 が戦艦、
                  小型で高速の艦が、巡洋艦として区分されます。
                  その後、魚雷の実用化に伴い、水雷艇や駆逐艦といった艦種が生まれ、巡洋艦はそれらより大型で
                     ◆遠洋航海能力が高く
             ◆艦砲を主装備とする(攻撃力が戦艦に近い)艦と再定義されました。

  明治時代後半以後第二次世界大戦の終了後まで、戦艦と駆逐艦の中間サイズの艦として定義されますが、そこにおさまったというところでしょうか?

  この間に 時代を追って
◇防護巡洋艦:全鋼製。喫水線、石炭庫周囲をさらに厚い金属で覆う4000ton前後の艦艇で、側弦の厚さは10-15cm。
                          魚雷発射管あり。
◇装甲巡洋艦:敵艦との打ち合いに耐えうる艦艇が求められました。
          発生は明治初期に当たり?戦艦との明確な境目はあいまいでした。
          上にも書きましたが装甲巡洋艦は巡洋戦艦に拡大発展します。
          排水量は10000ton前後でしたが、側弦装甲は20cmとさすがに厚い!!
          将来的に戦艦にも発展する艦種なのですが、魚雷発射管を持っているあたりに不思議さを感じます。

◇水雷巡洋艦:水雷艇より大型で巡洋艦より小型(当たり前すぎる説明ですいません)の艦艇。
          数基の魚雷発射管を持ち、渡洋能力がありました。
          それ以前からある「砲艦、魚雷艇」などは、役割が湾内、沿岸部の警戒・掃敵でしたので、
          遠洋までは出られません。
          駆逐艦登場前の過渡期にでてきて、駆逐艦登場と共に消えて行きました。
          400-700ton、47-75mmの砲、複数の魚雷発射管。

◇軽巡洋艦:防護巡洋艦から発展した「軽装甲」の巡洋艦という意味だったようです。
        排水量は4000-10000ton,喫水線側弦は15-20cm厚、魚雷発射管あり。
◇一方の重巡洋艦は確かに排水量は15000ton程あったのですが、はたして重装備だったのでしょうか?☆

事の起こりは、大正10(1921)年のワシントン海軍軍縮条約において、主力艦(戦艦および巡洋戦艦)の保有・建造の制限を主目的とし、巡洋艦を基準排水量10,000トン以下で砲後継8インチ(203mm)以下のものと定義して保有制限の対象外に置きました。しかし、このことが却って巡洋艦に準主力艦としての地位と重責を与える結果となり、今度は、基準排水量10,000トンと砲口径8インチ(203mm)の上限一杯の巡洋艦(条約型巡洋艦といわれる)の建艦競争が始まることになってしまいました。

これをさらに制限しようとしたのが昭和5(1930)年のロンドン海軍軍縮条約で、この条約では、砲口径6.1インチ(155mm)超過8インチ(203mm)以下の巡洋艦を「カテゴリーA」、砲口径6.1インチ(155mm)以下の巡洋艦を「カテゴリーB」と定義。
以後、前者を重巡洋艦(Heavy Cruiser)、後者を軽巡洋艦(Light Cruiser)とする呼称が一般的となりました。
どちらの場合もワシントン条約と同じく基準排水量10,000トン以下とされました。

ここで、これをお読みの皆様も上の☆の件にお気づきかと思われますが、日本の場合巡洋艦の重ー軽の間の相違点は、主砲の口径による違いが唯一無二の事柄でありました。
そのため、日本では155mm砲装備の軽巡洋艦として他国に通告して建造開始した艦が、条約脱退後に203mm砲に換装した場合(155mm三連装主砲塔から203mm連装砲に換装した最上型と利根型重巡洋艦は、203mm砲に換装したことを他国に伏せたまま・・・どーせばれていたと思いますが・・・対外的には公式書類で終戦まで軽巡洋艦(二等巡洋艦)のふりをし続けました・・・・・この文章もわかりづらいですね・・・書いてるやつがヘタクソなんだろ!!

旧海軍の戦闘艦艇は下記のような名前を付ける基準がありまして、最上・利根であれば河川名なので軽巡(主砲を変えたのでホントーは重巡になってしまったということなのですが、あえて、軽巡を名乗っていたということでしょうか。戦闘の時は有利でしょうから・・・)

*まとめです
・装甲巡洋艦→巡洋戦艦→一部は戦艦に発展的解消
・防護巡洋艦→巡洋艦→条約型巡洋艦→軽巡洋艦+一部が重巡洋艦に分化
・水雷巡洋艦→X絶滅

※時代は下って二次大戦の末期に登場した
  ・独国防軍の「ティーガーⅡ」重戦車
  ・ソ連の「IS-2(JS-2,イショフ・スターリン)」 重戦車の・・・・・砲塔前面装甲厚は各々180mm,160mmもありました。
    戦闘艦艇ではありませんが、後世の「機動力+打撃力」が必要な武器には防御力も次第に重要視されていったことが分かります。
          
I のフロク:旧・帝国海軍の艦名についての決まりごと(主に昭和に入ってから)

◇戦艦
・・日本に関すること・・・扶桑
・・旧国名・・・武蔵、日向・・・
・・他艦種に変更・・・信濃(空母へ)
◇巡洋戦艦
・・日本に関すること・・・後の改装で戦艦に発展していく金剛、比叡、榛名、霧島
・・山岳名
・・他艦種に変更・・・(旧国名・加賀型1番艦)加賀、(山岳名・天城型2番艦)赤城(空母)
◇空母
・・空、または空かける生物・・・飛竜、瑞鶴
・・比較的標高の高い山岳名・・・「巡洋戦艦」の計画艦艇から変更になったもの実戦投入は「赤城」のみ、他「天城」
                     「重巡洋艦」からは「伊吹」
◇一等巡洋艦(重巡洋艦)  
・・主砲の換装で一等に昇格すべき「軽巡洋艦」を名乗っていた 
・・利根 最上型  世界的には終戦まで二等艦
◇二等巡洋艦(軽巡洋艦)
・・河川名 阿賀野 夕張
◇防空巡洋艦
・・五十鈴・・・計画倒れに終わって、ただ一隻だけ竣工しました。世界的趨勢からは7000tonクラスの高速艦が多いようです。
◇駆逐艦 
・・(海にちなんだ)自然現象
・・木の名前 松、樅・・・
・・特殊なものとして「防空駆逐艦・秋月型」がありました。こちらはある程度まとまった数が就役しました(秋月型x7+行程を簡略化した冬月型x4)。
◇潜水艦
・・万葉仮名 伊 呂 波

Ⅱ.「平賀 譲 造船技術中将(明治11[1878]年-昭和18[1943]年) 」とゆーヒト

ゆーめー人ですのでごしょーかいもいまさら、という感じですが、恒例にしたがいまして・・・

平賀 譲 氏は、海軍軍人ですが、その前に、我が国を代表する船舶工学・技術工学の祖たるべき人でありました。
<工学者、華族。海軍技術中将、従三位=鎌倉幕府第3代将軍実朝と同じ官位、男爵、東京帝大総長、工学博士>。

日清戦争(1894年)のおり、海軍兵学校を目指すも近視のため体格検査で落第しますが、その年度の秋、第一高等学校工科(現・東京大学・教養課程)さっさと入学。
引き続き東京帝大工科大学(現・東大工学部)造船学科(後の船舶工学科)を明治34(1901)年、首席で卒業。
この間、ご両親を亡くされ、明治32年、給費付きの海軍造船学生試験に応募し採用、卒業直前に海軍造船中技士(後の海軍造船・造機中尉・・・大卒前に職業軍人の卵になったということです)となるなど意外と苦労人?

卒後3年間、英国グリニッジ王立海軍大学造船科修学。研修終了後欧州を外遊。
明治42(1909)年から,、海軍艦政本部(技術導入、研究、監督など行う海軍のおやくしょ)々員+東京帝国大学工科大学講師となり、その後、数回の配置転換、大学への出入りもあり
一旦
◎大正7(1918)年 東京帝国大学工科大学教授兼任
◎大正8(1919)年 工学博士を授与され
地位は安泰かと思われましたが、

大正12(1923)年 先の海軍艦政本部計画主任を解任されてしまいます。
表向きは、主としてワシントン条約下の列強建艦状況調査のため、欧米各国に出張を命ぜられることになっていますが、
ホントーの理由は、「巡洋艦の設計が複雑にして、竣工時重量が計画時より過大(計画時のスピードが出ない)、現場との考え方の相違が大きすぎる、主砲散布角が広域に過ぎること(=命中率が低い)といったいくつかの問題が重なり計画主任からはずされた、左遷されたことになるらシーです。

大正13(1924)年 帰朝しますが、以後約1年、不遇の日々を送ります。
大正14(1925)年以降は 、海軍にとって、船体の作り方を根本から設計しなおさなければならないような、昭和9(1934)年、友鶴事件、昭和10(1935)年、第4艦隊事件など重大事件が発生していました(二つの事件の詳細は直接関係ありませんので省略させていただきます)。

この間
昭和2(1927)年、48歳で、海軍造船中将(昭和17年、呼称変更海軍技術中将)に登りつめました。
昭和6年現役から予備役軍人に編入。三菱造船株式会社(後の三菱重工業株式会社)技術顧問となります。
昭和10(1935)年、船体抵抗実験をまとめた論文はイギリス造船協会に評価され、外国人初の1934年度金牌授与が決定。
また、海軍艦政本部の造船業務嘱託となり、そのころより「大和」の設計に携わるようになります(事実上の海軍艦政本部への復帰)。
 

<戦艦大和>全速力(27ノット[一説に28.3ノット])で公試(公式試験航海)中
[色鉛筆(ぺんてる)、水彩色鉛筆(Staedtler)、ロウ(カメヤマ)、鉛筆(2H,F,2B,Staedtler)、
修正液(ぺんてる)]

そしてまた、「嘱託」だったはずなのに、船造りにも意見具申を・・・
そしてまたまた、熔接制限を山本第四部長(造船部長)に提案。
翌年、昭和11(1936)年あっさりこれが、通っちゃいます。

<平賀提案による「船体構造電気熔接使用方針」を制定>・・・つぎの「Ⅲ」でもで出てきます。

昭和13,17年、二期連続で東京帝国大学十三代総長に選ばれますが、二期目は。すでに健康を極度に損ね、結核菌に喉頭を冒されていました。
昭和18(1943)年、東京帝国大学医学部附属病院で嚥下性肺炎により64歳にて死去。同日、男爵・旭日大綬章を授かります。
東京帝国大学の安田講堂に大学葬を挙行、墓は多磨霊園に。総長現職のまま死に、大学葬まで執り行われたのは平賀氏のみだそーです。

※昭和2年の項で、48歳にして中将昇進とありますが、実はこれすごいことなのです。
 「戦う」 へーたいさんは最終的に自分たちの命令が効くように、技術兵、軍医等の「戦わないへーたいさん」の最高位を中将にしました。
  森鴎外(林太郎)さんは軍医さんでしたので、中将止まりでこちらはもっと早く45歳で中将に昇進しています。
  因みに、陸軍で「戦死などの特進=特別昇進」による昇格をのぞいた、純粋な戦功昇進での「大将昇格」の最年少は、小笠原兵団
   (109師団基幹)を率いた栗林忠道氏で51歳の時でした。

Ⅲ.平賀中将の「船造り」とその評価・・・欧州列強国からは恐れられ、国内の評価は?

艦政本部第四部(造船部)計画主任となってからは、空母以外すべて手掛けました。
軽巡夕張や重巡洋艦妙高型の軽量化は各国海軍艦艇造船官を注目させ、造船の神様、という賛辞も存在しました。

一方、海軍中枢部や他の造船官らからの反対意見には譲らず、「平賀不譲」と皮肉られたり、仕事上の問題で衝突があると、議論の相手が誰であれ怒鳴りつけることもしばしばで(すぐに赤熱するという意味で)「ニクロム線」とも渾名されました。

この態度が仇となり、周囲からの反感をかい、一時左遷されることもあったほどです。

軽量な艦体に重武装をほどこした平賀氏の設計は、諸外国からも脅威視されました。

ワシントン軍縮条約やロンドン条約での補助艦(巡洋艦)の規制は平賀氏を困らせようとする列強の制限だったといわれています。
一方でこくないでは、先輩の艦政本部造船部門の「山本開蔵氏」の安価・量産効果的清算を根底から覆してみたり
結構我が道を行く人であったようです。

大正9(1920)年に計画主任に就任してからの平賀流きまま。
①巡洋戦艦の舷側装甲の増大
②軽巡洋艦における重油専焼から石炭混焼への変更
③安定性不足を理由とした駆逐艦の船体幅の増加」:

以上は前任者の行った艦型の整理による量産体制の否定であり、工期の延長や費用の高騰を招きました。結果、巡洋艦20隻の取得計画が、建造費の増加で12隻に削減されました。また、大正10年度設計艦が平賀氏による設計変更により、重量増加により速力が2~3ノット低下しました。
3500トンで5500トンの巡洋艦と同じ戦力を発揮するとした、軽巡洋艦・夕張にも影響が出ますがそれはまた後ほど。

④「古鷹型重巡洋艦」:A7500トンの竣工予定が1000トン超過→速力低下。B砲塔設計変更で砲弾の自動装てんが不可能になりました。
⑤「妙高型重巡洋艦」:A主砲を従来型の重巡より多く搭載→着弾の散布界が異常に大きくなる。B魚雷発射管を独断で廃し、現場の反感を買う(平賀さんは条約で戦艦の保有が制限されている以上、重巡洋艦は準戦艦たるべしという信念を持っていました。結果論としては平賀さんの見解が正解で、実戦で重巡洋艦の魚雷装備が役立つ事はありませんでしたし、また他国の重巡の主砲が8~9門に対し、平賀設計の重巡は火力・防御力とも優れていたのは事実でした。とはいえその性能は条約違反の排水量超過によるものであったことは事実であり、現場を無視した平賀設計は次第に現場かを無視したものになっていきます。

⑥平賀さんは溶接工法に反対しAリベット工法にこだわりました→被弾時の損害が増えたり(リベットの破損による他箇所への損害波及)また、船体のBブロック工法等の新技術を取り入れにくくする、Cディーゼルエンジンへの不信など、保守的な手法を用いるがゆえに古い技術による無駄の多い設計となりました。
⑦また、彼が設計を指導したA大和型は防水隔壁の数が過小(20年も古い長門型と同数の23)、 B被弾、損傷時に於けるダメージコントロールの研究も怠っていました(反して藤本ー昭和9年の友鶴事件当時の艦政本部造船の責任者・この件で辞任)はよく研究していたようです)。
②その一方でわずかな能力向上のためにコストを度外視し・造船の現場を無視した設計を行い、そして重量超過や工期の遅れについては厳しく「指導」しました。
→大和は全長263mで、これだけの兵装を納められるのは「ゼネラル・ヒラガ」だけだ、と諸外国からは評判を取りましたが、結局、前任者の設計よりも艦幅を広げてすべて兵装を乗っけちゃったようです。
で・・・
はじめの設計より速度は2-3ノット落ちたといわれております。おちて27ノットですから、諸外国の戦艦と比べても遜色ないんですよ!
でも
◎全速の時の燃費は(「燃費」でいーのかなー)巡航速度(17-18ノット)の数倍、ビンボーな日本にはもったいなくて、なかなか出せない速度でありました。
◎いくら他の国の戦艦と同等の速度が出せても、日本の航空艦隊(32-33ノット)に追従出来なかったのは、あとあとまで大和の活躍範囲を狭めました。

平賀さんの上司であった山本さんは、敗戦の責任の多くが艦政にあり、その原因が平賀の艦政本部復帰にあると考えていたと言われれています。

またまたまとめです・・・
平賀 譲 氏の造船ノウハウは
①諸外国にはいろいろと軽量コンパクトから、重武装まで器用な造船の手腕を見せ付け、喝さいを浴びましたが・・・
②実態は自分流の
  ・重武装、重装甲、速度は少しくらい犠牲になってもよい。
  ・リベットとめ(溶接は最小限)、船体の隔壁も最小限→ダメージコントロールがしづらい船になる。
  ・石炭ボイラーがすき!・・重油から比べるとパワーが低い。

国内での評判はイマイチですが、一時代を築いた人物であることに変わりありません。
  溶接を嫌うことについても、「百武俊吉」という陸軍の戦車部隊の創始者の一人がおいでになります。
  この百武さんは明治30年生まれと、平賀さんより一回りほど年下でありますが、それでも戦車の溶接技術のレベルはまだまだと嘆いたおられたそうで 
  す。付けたところが段々そりかえって弱くなっていくのだそうで、そこを、対戦車砲で打たれるとまずイカンと。
  戦車から比べて戦闘艦は何百倍という鉄の塊ですから、平賀さんの駆け出しの頃、船の溶接は満足いくようなレベルではなかったのでしょう。
  多分、この年齢の方は、溶接に信頼性がなかったのでしょう。
 ですから、もう少し早く生まれて「リベット止めだけの時代」か、
  遅く生まれて、「溶接が確立した時代」に生まれてきていたらもっと手腕を 発揮できたと思います。


Ⅳ.おまたせ!二等巡洋艦(軽巡洋艦)夕張とはどんな船?
<概要・・・こんな船>

大正12(1923)年7月竣工。当時の不況の中(1914年の第一次世界大戦の戦勝景気は冷めていました)での海軍予算の逼迫により、その時の標準的軽巡洋艦であった「5500トン型軽巡洋艦」と同等の戦闘力をできるだけ小型の艦に詰め込むことを目標とした船です。
そのため、3,100トン の小さい船体ながら、集合式煙突や連装主砲搭の採用、兵装の中心線配置などで目標をクリアしました。
魚雷発射管は4本ですが、左右両舷に発射可能。主砲の数は6門で5500トン型軽巡洋艦よりも1門減ったものの、片舷に指向できる門数は同じでありました。
従来型は、魚雷発射管は片舷専用、主砲の2門は片舷にのみ発射可能でした。

それでも計画重量の10パーセント超過(公試排水量:約3500ton)により速力が低下。また船体規模の不足から、荒天性能の不足。軽巡洋艦の任務であった水雷戦隊司令部としての機能、人員の余裕不足。航続力不足(14ノット3300海里=約6100km,1海里=1.852km。ちなみに峯風型駆逐艦[第二次大戦開始時で最も旧式な駆逐艦になっていました]でも14ノットで3,600海里(約6700km、駆逐艦にも劣る航続距離!!)、5500トン巡洋艦は15000海里=約27800km))。小型の船体に重武装・高速性を追求したため船体の余裕に欠け、5500トン型軽巡洋艦が改装で航空機(水上偵察機)を搭載できたのに対し本艦では不可能であり、大きな欠点となりました。
また、大戦後半では防空力強化のため他の軽巡では簡単な改装で対空兵器の増強が可能でしたが、本艦はスペースがなく、主砲2門を撤去せざるを得ませんでした。

このように本艦の設計には問題もありましたが、夕張は結局一隻のみ建造された試験的存在として位置付けられており、あとから竣工する古鷹型重巡洋艦以降のコンパクトな艦体に重武装を施した重巡洋艦の設計の礎となった、言わば実験艦としての意義は大きかったとされております。

その時点までになかった新機軸は、軽巡洋艦のイメージを一新させ、「ジェーン海軍年鑑:1898(明治31)年英国で創刊された軍用艦の最も権威ある書籍」に特記項目付きで掲載されるなど各国関係者を驚かせました。
平賀さんの才能が遺憾なく発揮された海軍史上特筆される艦と評価されています。



 <二等巡洋艦(軽巡洋艦)夕張>、対空兵装艤装改装前
[鉛筆(2H,F,2B,4B,(Staedtler)、UNI STYLE FIT、0.28mm,ブラウンブラック、ゲルインクボールペン(三菱)、
EnerGel 0.35mm ball needle point,Liquid Gel,クロ、(ぺんてる)]
 
<戦歴>
竣工より1年間は第1艦隊(*1)第3戦隊所属でありました。大正14(1925)年12月1日に第1水雷戦隊旗艦(*2)となり、以降ほとんどの期間で水雷戦隊旗艦を務めていました。
(*1)戦闘艦部隊は、戦隊[長官:少将・中将]が2つ以上集まると艦隊[長官:中将・大将]という単位になります。また従来から「戦艦艦隊」で決戦または打撃艦隊を第一艦隊としており、第一艦隊の司令官が聯合艦隊司令長官を兼ねることもしばしばありました。
(*2)魚雷戦専任の潜水艦部隊[こちらの一番偉い人は<司令>[中佐から少将]で統括艦(旗艦)のみ軽巡洋艦が務め、潜水艦数隻を率いました。

支那事変(日中戦争)時には、第五水雷戦隊旗艦として中国沿岸の封鎖任務にあたります。昭和12(1937年)9月13日、「夕張」は香港西方大産島泊地に到着、第二十九駆逐隊(*3)と合流。翌日、「夕張」は付近の河川を遡行(さすが中国ですね~、渡洋能力のある軍用艦が遡る河があるなんて!)中、近くの要塞から出撃してきた中華民国海軍・防護巡洋艦(*4)と交戦し、砲撃戦により座礁に追い込みましたが、泊地に戻る途中、在中華民国米空軍戦爆機の空襲により至近弾を受け、5名の戦傷者を出しました。
(*3)駆逐隊は駆逐艦3-4隻で1個駆逐隊。司令は中佐・大佐ですが、艦隊・戦隊に随伴、輸送船団の護衛などと単独作戦はほとんどありませんでした。
(*4)防護巡洋艦:この記事の「Ⅰ」をご覧ください。

太平洋戦争開戦時は第4艦隊第6水雷戦隊に所属し、南洋の島々の攻略作戦などに参加。
1942年7月10日に第4艦隊第2護衛隊(*5)に編入され、第一次ソロモン海戦(*6)に参加。その後は船団護衛任務等に就いている。
1943年4月1日に第8艦隊第3水雷戦隊に編入され。7月5日、泊地にて磁気機雷を左舷後部に被雷、推進器を損傷して本州に回航されます。
1943年11月、ラバウル基地でアメリカ空母の艦載機の機銃掃射を3回うけ負傷者を出しました。また、同月、南方島嶼輸送任務に従事。その3回目の際の11月24日夜、空襲を受けて至近弾により損傷。損傷した駆逐艦「長波」を曳航してラバウルからトラックへ向かった後日本本土に戻り、翌年1月から3月にかけて修理を受けます。
(*5)護衛隊:海上の日本対占領地の人員・兵器・物資の輸送船団の護衛についた海防軍団で、初期のころは「ショモナイ旧式艦艇」ばかりで被害も大きかったのですが、次第に充実していきます。最終的に4個海防隊ができ、司令は大佐か少将。海防艦(1000ton以下の駆逐艦とお考えくださってもそう外れていないと思います)3-4隻を中心に、守備範囲によっては駆逐艦1-3隻、軽巡洋艦x1、戦闘機隊1個小隊(戦闘機x3)などを増援)。
(*6)第一次ソロモン海戦:帝国海軍の最後のカチイクサ。

さて、だれがみても「負ーけたッ」が明らかになってしまった、昭和19(1944)年3月2日、内南洋諸島(国内領土の南洋諸島の意・グアム・サイパン)への緊急輸送(松輸送*7)が発令されました。3月22日、東松船団旗艦としてサイパンにむけ護衛艦6隻、輸送船6隻とともに向かい30日にサイパン到着。4月20日パラオより近くの島への陸軍兵員350名と軍需品50トンを搭載し、4月23日駆逐艦とともにサイパンを出港して27日早朝にパラオ到着(サイパンの陥落は昭和19[1944]年7月9日)。
1944年4月26日18時15分パラオを出港し27日前日の島に到着。揚陸作業を開始し、9時42分作業を終了して再び先の駆逐艦とともに、パラオに向けて出港。ところが、19ノットで之の字運動で航行中、10時1分、米軍の潜水艦の魚雷攻撃を受け、1本を右舷第1窯室(エンジン室)に受け1,2窯室および付近に浸水区画満水となり航行不能に陥ったため、ただちに排水作業にはいるとともに別の駆逐艦に曳航を命じますが、夕張の排水量が大きくうまく曳航できずにいました。

翌28日浸水区画にひろがり沈没しだしたため、生存者全員を始めの駆逐艦に移乗させ、さらに曳航作業を続けたが、午前10時15分、北緯5度38分、東経131度45分の地点で艦首より沈没。戦死19名をだした。
(*7)松輸送:太平洋戦争中の1944年前半に日本軍が行った、中部太平洋方面への増援部隊輸送作戦である。絶対国防圏と位置付けられたマリアナ諸島などの守備隊を強化するため、満州などから転用された地上部隊や軍需物資が、松船団と総称される11回の護送船団で運ばれました。
アメリカ海軍は潜水艦で妨害を試みたが、日本側の損害は少なく一応の成功を収め、松輸送で運ばれた部隊が、サイパン戦等で日本軍守備隊の主力となりました。サイパンの松輸送は東廻りx8、西廻りx2.

またまたのまとめです・・・
全体の流れから行くと、小型化のデメリットで目立った点はないように思います。
むしろ、1944年ころになると、航空機の発達についていけてないというのが明らかなようですし(ひと月に3回も機銃掃射で狙われたというのは、「カモ」にされていたということでしょう、中空域を制圧する20-35/40mm口径の機関砲が足りなかったのだと思われます。
また魚雷戦にも脆かったですね。
大正のオフネという感じがいたします。むしろ終戦近くまで生き残ったのは、平賀さんの手腕と帝国海軍軍人の日頃の訓練のタマモノではないでしょうか?

Ⅴ.御礼 & 一人反省会
なんか、やっぱり、史実ばっかりだとあきますね(お前の文とコーセーがへたなだけだろ・・・)。途中で戦闘シーンでもいれるべきでしたでしょーか?
すいません。これから気をつけます。
長い平坦な文にお付き合い頂きありがとうございました。

伝記作家さんは、たいへんそーですねー・・・

次はやっぱり鉄モノかな?・・・

Ⅵ へびあし:夕張川のこと
一級水系「石狩川」の一級河川。
長さ136km,。水源は空知管内、夕張市・八森山。
最後は石狩管内、江別市付近で石狩川に合流します。
函館線、江別ー豊幌(旭川方)にある夕張川鉄橋は340m余りですが、道内鉄道用鉄橋の
3位と4位で、河川敷きも広いので、下から見上げたショットは鉄チャン向きです。