個人的に気にしている私鉄二題 | 余生庵 カラスの晴耕雨・読ぶろく…クンセイが肴

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☆余生を送っている人間が書いている記事ですので、恐縮ですが
 「記事更新頑張りましょう」といったコメントにはお返事できま
  せん。

鯖浦電気鉄道のこと

同鉄道(正式には「せいほう電鉄ですが地元ではもっぱら<さばうら>の方が通りが良かったようです)は、北陸本線鯖江から、日本海側の「四ヶ浦」までの到達計画路線(「鯖江の」と「四ヶ浦の」を結ぶ路線)として、大正12(1923)年に設立されました。


ところが、その後経済恐慌[昭和4(1929)年]年等にぶつかり、路線の敷設は予定通りに進展せず、結局、

鉄道は途中の織田(「おた」と発音、織田信長の本家・発祥の地といわれております)で挫折、残りの海岸まではバス路線ということになりました。


すなわち、鯖江から越前海岸 の四ヶ浦(旧越前町→平成17年2月、拡大新・越前町となりました)までを、海岸沿いではなく山岳路線 として岬の高台(現在の四ヶ浦小学校あたり)まで敷設する構想になっておりましが、険しい地形である上に、町長のなり手もままならず、経済的援助者・有志も現れずといった状況で地元の協力が得られずに開業・開業後の延伸交渉が難渋しました。

やはり地方の小私鉄の力量では、昭和恐慌 の影響は時間がたってからも脱却できず、鉄道の延長は諦め

「鯖江から織田までは鉄道路線、織田から越前海岸まではバス路線として定着」

していきます。


路線延長こそならなかったものの、それでも沿岸に有数の海水浴場 を控えていたこともあり、経営状態はさほど悪くなく鯖浦電鉄出資による遊園地 も作られました。

その後、昭和20(1945)年に福武電気鉄道と戦時統合し、福井鉄道の一路線となりました。


戦後も比較的好況を呈すものの、今度はモータリゼーション が波及し、昭和37(1962)年には北陸本線福井 - 敦賀間複線電化に先立つ鯖江駅拡張に伴い鯖江 - 水落間が廃止されたのを皮切りに、昭和48(1973)年9月29日、ソーデス!!40年前の今日!!!全線が廃止されました。


これには海岸線へのアクセスには、当時各駅停車しか止まらない鯖江よりも福井、武生といった特急、急行が停車する国鉄駅から直通バスで行った方が便利であるため(皮肉にもL特急だけになると、何本か停車し始めました)、周辺各村落を蛇行して廻る形になる鉄道線が敬遠された側面もありました。

鯖江 - 水落間が廃止されてからはその傾向が一層加速しました。


<開業から発展期>

  • 大正15(1926)年10月1日 東鯖江 - 佐々生間が開業
  • 昭和 3(1928)年11月8日 佐々生 - 織田間が開業 
  • 昭和 4(1929)年 4月1日 鯖江 - 東鯖江間が開業
  • <終末期>
  • 昭和37(1962)年1月25日 国鉄鯖江駅の同年6月の北陸本線複線化に先駆けた整備対応のため、
  • 鯖江 - 水落信号所間が廃止
  • 昭和47(1972)年10月12日 西田中 - 織田間が部分廃止
  • 昭和48(1973)年9月29日水落 - 西田中間が廃止となり、全線が廃止

  • ●なぜ気にしているかと申しますかとゆーとですねー

     ①単式片面1線ホームの織田駅でしたが、さすがに終点ターミナル駅だけあって、「入母屋造り??」 

  • でしたか(自信ありません・・・)側線も何本かあって「貫禄あるなー」と・・・あの建物はやはりこわされ

  •  ちゃったんだろーなーという思いでしょーか?

     ②一時期、巨人のセットアッパー(中継ぎ投手)に「織田(おりた)」さんという方がいらして、かなり小気味

  • いいピッチャーで、スライダー,、直球等切れが良くて、私の好きなタイプでしたが、この「織田(おた)」

  • 地方の方だそうで・・・次のシーズンは捕手で少し出ていましたけど(キヨーな人ですね!)、以後名前

  • は聞かなくなりました。肩やっちゃいましたか・・・残念でした。もっといてくれればという選手でしたの

  • に。

  • あとでしらべると、本家は「越前織田(おた)」、そこから「越前織田(おりた)」、「尾張織田(おだ)」に分

  • 家となっていました。

     ③最後は解説不要で、多分作り話だと思いますが、長嶋茂雄さんが巨人の監督時代に、「鯖」の字を

  • どわすれした時、周囲の方に訪ねて「そーだったね、魚へんにブルーだったね」といったお話(おそらく 

  • 出所は関根 勤さん。)


  • 失礼ないい方をすれば、それまであまり注目してなかった線区でしたが、①-③の話が一度にきて、高校時代の忘れられない思い出になりました。


    ②京浜鉄道、昭和元(1926)年、京浜線で自動ドアの電車が登場しました。これが9月28日。

      87年前の昨日であります

      で、このお話は、9月28-29日、2日続けて比較的大きなことがあったんだよーといったところに

      とどめさせていただいて・・・

      私の好きな「鉄道ピクトリアル誌」にチコッとふれさせていただきたいのですが・・・

      私が同誌を自分の小遣いで買いましたのが昭和45(1970)年5月号(\230ですよッ!)でした。それから

    しばらく毎月買いまして、あるとき「ン?」と見慣れる表紙のピクトリアル誌。同じ年の「臨時増刊、10月

    号:特集・京浜急行電鉄」とありまして、すぐ買いました。当時は臨時増刊号といっても定期購読号とそ

    う値段もかわらず(\280)チューボーにも手が届く範囲でありました。


    今、この車輌に自動ドアをつけたんだぞ!といった誇らしげな写真でも載っているかと再読してみまし 

      たが、「自動ドア」といったもうすでに当たり前の装備品にはやはり注目されるべくもなく、写真、文章と 

      もその一件については記述はありませんでした。


      まーしょーがないですねー。

      でも、私の記憶では、昭和44(1969)年に廃線になった定山渓鉄道(東札幌ー定山渓)には、店じまいの 

       日まで、手動ドアがあったような気がするのですが・・・?

    なんせ、北海道唯一の直流1500V電化鉄道といっても40分間隔でしたから、手動ドアで充分対応可

       能だったと思いますよ。


    結局、札幌は「カッコつけて」道都といっても東京とは比較できないほどの開きがあった、田舎でした  

       から・・・