[鉛筆:4H,2H,F,HB,B,2B,4B, 水彩色鉛筆・黒:Staedler,水性ゲルボールペン:Slicci,0.4mm,Pentel,]
JR北海道がひそかに、単独で狭軌を広軌にするといった明治44(1911)年以来の政府議論をホーフツとさせるような話題で世間はもちきりであるよーですが(違うと思うよ)、いつもこのころ、時期を逸して書けなくなる話題に「関ヶ原の合戦」があります。
いろいろと世間の誤解のもとを生むことになりましたこの合戦は1600年9月15日におこなわれました。
何が、誤解ですかって?そりゃー、家康公はこの戦いに「勝ったばっかりに」**<野戦の神様??>**とやらにまつりあげられましたが、彼の野戦の戦歴は1勝他全敗なのであります(小牧・長久手、長篠は連合軍なので単独勝利とは言えません)。これが誤解といわずして何と申しましょうか。
一番、ビンボークジを引いたのは、中山道廻りで関ヶ原を目指していくさにちこくした秀忠二代目さんでありまして、これも誤解であります(後述)。
途中、秀忠軍38000は真田軍3500(35000ではありません)が守る上田城の脇を通り抜けます。
秀忠お供の家康重臣、本多正信・榊原康政が「真田衆、寡兵といえども、ここは戦わず関ヶ原に一刻も早く向かいましょう」とアドバイスします。この重臣2人は真田正行・信繁(のちの幸村)の戦さ上手は痛いほどよくわかっていましたし、今こんなところで時間を取られるべきではないとも考えていました。
城攻めの時は、攻め手が少なくとも城兵の3倍は必要といわれていますが、このときは約10倍。
先の2人の重臣以外は真田父子とやる気まんまんで、秀忠も抑えきれません。
●短期決戦を狙う秀忠は真田軍を城から誘き出すため、城下の田畑の稲を刈り取る苅田戦法を取り、9月8日、牧野康成率いる手勢が上田城下の稲の刈り取りを始め、徳川方の狙い通り、苅田を阻止しようと真田方の軍勢数百人が城から出てきます。そこへ、後備えとして潜んでいた本多忠政隊が襲い掛かり、真田勢はあっさりと敗れ、上田城へと逃走。それを酒井、牧野、本多の各隊が追撃し、一気に上田城の大手門前まで迫ります。
●それらの流れは全て昌幸の作戦で、徳川勢が上田城の大手門へと迫ったとき、突如として門が開き、真田の鉄砲隊から一斉射撃をうけます。。さらに城内からも銃矢が降り注ぎ、徳川方の先鋒は大混乱に陥ります。はじめ、功を焦った徳川勢は逃走する真田勢を遮二無二追撃していたため、大手門に到達した時は、隊列・陣形共に型を成さない状態に陥っていました。このため、反撃を浴びて崩された先鋒隊が撤退しようとしますが、勢いのままに前進してきた後続の秀忠軍と鉢合わせになり進退窮まったところへ、城内から真田勢が討て出て徳川軍を散々に打ち破りました。
●さらに昌幸は徳川勢に追い打ちをかけます。前日の夜に密かに上田城を出て染谷台の北東に潜んでいた信繁(幸村)隊200が秀忠本陣に奇襲をかけました。信繁隊は鉄砲を一斉に撃ちかけ、浮き足立った秀忠本陣になだれ込みますが、秀忠自身は家臣に馬を与えられ、かろうじて小諸へと逃れることができました。また昌幸は神川の上流に堤防を築き、神川を密かに塞き止めており、信繁の合図で堤防が切られると、大量の水が濁流となって染谷台に押し寄せ、真田勢に追われていた神川付近の多くの徳川勢の人馬が飲み込まれる事となり、上田合戦はわずか1日で真田方の大勝に終わりました。
●このときのことを『烈祖成蹟』は「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」と記している・・・そうです。秀忠は上田城が予想外に頑強であることに驚き、上田城に押さえの兵を残して先を急ぐことにします。しかし、この上田での遅延だけでなく道中の悪天候も災いして、遂に9月15日の関ヶ原本戦に遅参するという大失態を犯して、この失態に家康は激怒し、秀忠にしばらくは対面することすら許さなかったと言われています。
◇関ヶ原後の真田父子:西軍の敗北となったため、正行・信繁は当初死罪の予定でしたが、本多忠勝(忠
政の父)の嘆願等あり、始め高野山、後九度山に配流と罪一等軽くなりました。
<遅刻の真相>
本戦の遅参は、転戦を命じる使者が利根川の増水で到着が遅れたことにあるといわれており、「昌幸が秀忠を遅参させた」というのは、時間的にいくらか関与があるかもしれませんが、正確ではありませんし、どちらがメインで遅れたかもわかりません。
◆コーサツ
●遅れた真相をよく確認しなかった家康「啼くまで待とう」のイメージとは少し違う。
遅れた理由をきちんと父親に報告できなかった秀忠君、やはり2代目のうつわか、?
この2つの話から窺えるもの・・・2代目将軍は凡庸、家康公は依然ワンマン経営をやっている!!
でもじっさいは、秀忠は家康以上に頭脳明晰で、家康との仲も非常によかったとしたら・・・・
「いま、おれたち仲悪いから、幕府にクーデター起こすのなら今この時しかないよーというお誘い」のわな
なーんて考えるのは、ひねくれ者の私くらいですか?実際にも何もおこっていません。
(1637年の島原の乱、1951年由比正雪の乱、いずれも秀忠さん没後のお話です)
※歴史はくりかえされる!!!
☆戦火燃ゆる「関ヶ原」:大海人皇子(天武天皇) VS 大友皇子 の「壬申の乱、672」
緒戦は「関ヶ原」からはじまりました・・・確かにみとーしがきーてたたかいやすいんだろーね
(ばちあたりなヤツ)
