軍事教練もそろそろ・・・とゆーか、とっくに死語ですか・・・
上下絣(カスリ)のもんぺなどお召しのご婦人方が、町内会で集まって、竹やりを、わら人形に向かって
「撃ちてし止まん、鬼畜米英」とかナントカ叫びながら突っ込んでいく風景。
あんなの、シャーマン戦車の末期型(砲塔正面防楯126mm)にかなうわけはないのに・・・
とさめた戦後派は言うわけです。
・・・デモネ、奥さん!!焼け残りの2階建てくらいの建物だってあったはず・・・
植木鉢にさ、火炎瓶入れて、土でチョットかぶせるように固めて、砲塔のハッチのヒンジのところめがけて投げつけて御覧なさいよ・・・
あそこ、装甲厚15-25mmだからすぐ穴開くし、アメリカの戦車はガソリンエンジンだからすぐ炎上するよ・・・
7/6に稚内・カラフト航路のことを書かせていただきましたが、昭和17-18(1942-43)年、父は旧制・小樽中学(現・小樽潮陵高校)に通います。
そこで、学生さんにも、軍事教練が待っていました。
監督役には予備役(定年となった)少尉または中尉殿がおいでになったそうですが・・・
父はその退役軍人さんからいつも、
「お前の手榴弾の投擲距離なら自爆どわぁぁーーーーー」
とどやされていたそうです。
このあと、父は昭和19-21(1944-46)年に技術系の旧制・専門学校(今の大学から毛を3本くらい抜いたような学校でありながら、後世<大卒>と同等に扱われたズルイシステム)に入りました。
校舎がぼろかったせいも多分にあったと思うのですが・・・
室蘭の艦砲射撃の振動が校舎まで伝わってきたとか・・・ンナ、ばかな?
室蘭は昭和20(1945)年7月15日、アメリカ軍用艦、ウィンスコシン級戦艦x3、巡洋艦x2、駆逐艦x3からの艦砲射撃を受けました。
対する室蘭防衛隊は、司令が少将で、配属部隊は、昭和18(1943)年8月19日、室蘭防衛司令部の編成が発令され、この頃、室蘭を守備していた次の諸部隊を統一指揮する体整えられました。
●砲兵:独立防空第32大隊(高射砲中隊4、照空中隊2)、津軽要塞重砲兵連隊第3中隊(野砲4門)、
●他支援部隊:歩兵第26連隊の1個中隊、特設警備第355大隊
けっこー頑張って集めましたね・・・
しかし、砲兵隊の防御範囲は内浦湾(室蘭から見て南西方向)のみにかぎられておりました。
そこにアメリカ艦艇はつけこみ、南東から好き放題砲弾を撃ち込んだようです。
小橋内砲台(白鳥大橋ご存知ですか?あの取付け部の近くで、室蘭発祥の地といわれておりますのがオハシナイです)ほか、製鉄所などなど、ぼこぼこにされました。
この、教室が震えた日の翌日、父の担任の先生が、来年(昭和21年)まで戦争がつづいたら、今度は君たちの番だ(学徒出陣のこと)・・・といわれていたらしいです。
父は、すり抜けるようにして終戦直前を生き抜いてきたのだなーと思います。
親族では、大分戦死者が出たらしく、実際の戦争の話は自分の体験談以外は全くしません。