全国の皆さま、こんばんは。
今夜もブログをご覧くださり、ありがとうございます。
「崩れる → 反転する → 整う」
という、出雲らしいひとつの型が見えていたことについて書かせていただきました。
そして今回は、その流れをさらに振り返って感じたことを、もうひとつ書いてみたいと思います。
それは、今回巡った場所そのものが、出雲神話の流れをなぞるような巡り方になっていたというものです。
前日に巡ったのは
- 須佐神社
- 出雲日御碕灯台
- 日御碕神社
- 稲佐の浜
そして翌日に
- 出雲大社
へ上がらせていただきました。
この並びをあとから見てみると
ただの観光ルートというよりも
神話の世界を辿るような流れ
だったように感じています。
まずは須佐神社へ。
この日は、地元のマラソン大会の影響で、最初に向かう予定だった稲佐の浜方面の道路が、一時通行止めになっていました。
そのため、巡る順番を変更し、最初に足を運ぶことになったのが須佐神社でした。
今振り返ってみると、この予定外の始まり方もまた、今回の出雲の流れを象徴していたように感じます。
ここは、須佐之男命と深く結びつく場所として知られています。
須佐之男命は、荒々しさや破壊だけではなく、
そこから新しい流れを切り開いていく力を持つ神さまでもあります。
出雲神話の流れを見ても、この神さまの存在がなければ、その後の大国主命の物語も始まりません。
そう考えると、予定していた順番がゆるみ、結果としてこの場所から始まったことで、見えてくるものがあるように感じています。
またこの場所には、向かい合うように、天照大御神が祀られておりました。
須佐之男命と天照大御神といえば
神話の中では対立や衝突の印象を持たれることもありますが、その関係性があるからこそ、物語は大きく動き出していきます。
荒ぶる力と、照らす力。
動かす力と、整える力。
一見すると相反するように見えるものが
どちらも必要なものとしてそこにある。
そんな構図が、この場所にも表れているように感じられました。
次に向かったのは、出雲日御碕灯台でした。
灯台は、海の上を進む人にとっての光であり、目印です。
出雲観光の中では「逆」が続き、予定通りに進まないこともありましたが
そんな流れの中で、この場所はどこか
「進むべき方向を照らす」
ような役割を持っていたようにも感じられました。
神話の流れの中で言えば、ここは「次へ向かうための光」が差し込む地点のようにも思えます。
続いて訪れたのが、日御碕神社です。
ここは、昼を司る神と、夜を司る神をお祀りする場所として知られています。
つまり、
- 昼と夜
- 表と裏
- 光と闇
そうした二つの世界の境目にあるような場所とも言えます。
一方だけではなく
両方があるからこそ整っていく。
そんな出雲らしい感覚と、
心が凪いでいき、内側が整い落ち着いていく感覚を、ここでは強く感じました。
その後に訪れたのが、稲佐の浜です。
ここは、神迎えの神事でも知られる場所であり
全国の神々を迎える入口とも言われています。
つまり
人の世界から神の世界へ
また神の世界から人の世界へとつながる場所
とも言えるのかもしれません。
今回の観光では、ここで流れの相がひとつ変わったような感覚もありました。
出雲神話の流れをたどるように見ていくと、稲佐の浜は、神々の氣配にふれる「あわい」のような場所でもあります。
海と空、人の世界と神々の世界。
その境目に立つような、
ひらかれた心地よさのある場所でした。
そして翌日
ツアー本番で訪れたのが、出雲大社でした。
ここまでの流れを経てから訪れた出雲大社は、単に「最後の目的地」というよりも、すべてが結ばれ、定まる場所のように感じられました。
大国主命の神話もまた、数々の試練や反転を経て、最終的にひとつの役割へと定まっていく物語です。
そう考えると、今回の巡り方は
- はじまりの力
- 光
- 境目
- 入口
- 結び
という流れで進んでいたことになります。
神旅前の出雲観光では、もともと予定していた順番とは異なるかたちで巡ることになりました。
けれどあとから振り返ってみると
その「予定外」の流れこそが
神話の流れに近い巡り方
をつくっていたようにも感じられます。
ただ場所を回ったのではなく、出雲という土地に流れている神話の世界を、身体でなぞるような時間を授かっていたのかもしれません。
出雲という土地は、
神話が昔話として残っているだけではなく
今もなお、流れとして働いている場所
なのだと感じます。
その流れは出雲の中だけで終わらず、帰ってきたあとの日常にも現れておりました。
最後におまけとして、そのお話を少しだけ綴りながら、今回の出雲の神旅シリーズを締めくくりたいと思います。






























