
大沢たかおというと安定の仁先生、といっちゃいますが、「コロリでございます」と綾瀬はるかなわけで。
そのコロリの話。
コロリでございます
コレラというのは、古代ギリシャの医者・ヒポクラテスがが唱えた四体液説の中の一要素である、黄色胆汁を意味する『khol』に由来する。
日本では流行った当初は明確な病名がわからないままだったが、オランダ商人から「コレラ」という病名であることが伝えられ、「虎列刺」という字をあてていたそうな。
また「コロリと死んでしまう」の連想から「虎狼痢」「虎狼狸」などの呼び名も広く用いられたが、イコールではないとのこと。幕末の漢方医であって浅井宗伯(アサイソウハク:1815-1894)は「古呂利は昔から急に死ぬことを指している」と記録し、考証家の斎藤月岑(サイトウゲッシン:1804-1878)は「東都の俗ころりといふは、頓死をさしてころりと死したりといふ俗言に出て、文政二年痢病行はれしよりしかいへり。しかるに西洋にコレラといふよしを思へば、おのづから通音なるもをかし」と、コロリとコレラが混用されてしまっていることを指摘している。
つまり、『コレラ』と『コロリ』が混在して使われている、というのが史料から伺えるといえる。
世界的流行で日本へ
日本で流行ったというのは、江戸時代の1825年に朝鮮半島あるいは琉球から感染ルートとなったという話だったが、その経路は明らかでない。それが一番流行ったというのが1858(安政5)年で九州から東海道に広まったというが、江戸で流行っていたという話はないらしい(逆に江戸では10万人死亡したという文献もあるが)
おそらく時期的に異国船来航が相次いでいて、その時にコレラも持ち込まれたという可能性も高い。実際、世界的流行(いわゆるパンデミック)が1817年にインドのカルカッタにて起こった、という記録もあり、それでアジア・アフリカだけではなく、欧米諸国にも広まったという。
ちなみに、安政年間のコロリ流行は3年ほどつづいたそうな。
江戸で流行しなかったのは?
1858年の流行の時は、黒船来航と重なっていたこともあり『異国から持ち込まれた病気』と信じられていた。日本のあちこちではニホンオオカミを神とした眷属信仰(ケンゾクシンコウ)が流行ったということもあり、憑き物落としの呪具として使うためにニホンオオカミの数が激減したといわれている。
また、明治期になって箱根の関所を廃止になり、その後2~3年間隔で数万人単位の患者を出す流行が続いたということから、幕府の関所による人の出入りを制限していたのが防疫を容易にした最大の要因だという。
ちなみに、江戸でコレラが流行したという文献もあるが、これは幕末期の倒幕派による流言飛語だったという意見もある。倒幕派は地方(特に西日本)の出身も多かったということもあり、自分の地元ではやっていたこともあったのではないかと思っている。
幕末モノを扱っていると、どうしてもそのシステムがダメなものだとみなされているし、そういうのが前提で物語が成り立っていることが多い。
しかし、コレラが江戸までいかなかったというのを考えると幕府がしていた『関所』というシステムが機能していたのではないかと思っている。
そして、安政年間のコレラ流行から25年経った1883年、ドイツのコッホがコレラ菌を発見したことにより徐々に患者数は減っていたというのはいうまでもなく。
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