自分を認めるとは、
「私はこういう人間です」
って肯定も否定もせずに、ただ「そういうもの」として認識すること。
目の前にチューリップがあったら、
「これはチューリップだね」
っていうのが認める。
「いや、こんなところにチューリップが咲いてるなんてあり得ない!」
「チューリップやけど、枯れてて汚い」
「もっとこう綺麗なチューリップが良かったなぁ」
「チューリップよりも、スズランの方が良かったなぁ」
「チューリップいいよ!最高だわ!」
「チューリップはなんて可愛いんでしょう。見てて嬉しくなっちゃう」
っていうのは、どれも「認める」じゃない。
否定をしたり、肯定をしたりして、評価・判断をしてるのね。
評価・判断をしているということは、自分自身を
「自分自身」
っていう粒度じゃなくて、
「人間」(=種)
とか、
「男性・女性」(=性別)
とか、
「同年代の人間」(=世代)
とか、
「日本人」(=国籍)
っていう粒度で見てる。
粒度が粗い。
「粒度」
っていうのは、
「モノをまとめた時のサイズの大きさ」
のことを言います。
例えば、
「人間」
だったら、77億人が当てはまりますが、
「男性(または女性)」
に絞ると、35億人で、
「日本人」
に絞ると、1億2千万人ですね。
こんな感じで、そこに該当する数の大きさのことを
「粒度」
って言います。
粒度が大きいと、それだけばらつきが出ます。
「人間」
だと77億人いて、
性別
国籍
年齢
職業
身長
健康状態
学歴
などなど様々な要素でばらつきが出ます。
ばらつきが出るということは、評価・判断を加えることによって、特定の集団を選別できます。
「学歴が高い」
という条件を加えると、学歴が高いグループと、低いグループが出来上がります。
(詳細な条件は省略してます)
粒度が大きいということは、評価・判断をして、区別ができるということ。
そして、この「区別」は往々にして、
高い方 ⇒ 偉い
低い方 ⇒ 惨め
みたいに差別的な感情を伴うし、優劣がつけられます。
「日本の子ども」
という集団に対して、
「学歴がMARCH以上」
っていう判断基準を持ち込むと、MARCH以上の集団と、MARCH未満の集団に分かれます。
そして、低い方がバカにされたり、心配されたり、差別的な意識を向けられることがある。
人からどうこう言われるのは別にどうだっていいんですけど、問題は、
「自分自身に対する認識の粒度」
なんですよね。
自分が自分に対して、
「学歴がMARCH以上なら偉い」
みたいな評価基準を持っていたら、自分と他者に対して、それぞれ、MARCH以上とMARCH未満の集団に分けています。
自分自身を
「学歴がMARCH以上かどうか」
っていう粒度で見てる。
この集団にはそこそこの人数入ってるから、だから、同じ集団の中にいる人たちと比較ができ、優劣をつけられる。
あ、ちなみに、
Meiji
Aoyamagakuin
Rikkyo
Chuo
Housei
っていう東京にある難関私立大学の頭文字です。
学歴に限らず、自分や他者を評価・判断する基準を持っている、すなわち、粒度が粗い(=自分が所属している集団に2人以上入ってる)認識でいると、
自分がその基準以上なら肯定する
自分がその基準未満なら否定する
ってことができるようになります。
でも、粒度をもっと細かくして、対象となる集団に含まれる人数が
「自分1人」
になってしまえば、いくら評価・判断をしようとしても、分類もへったくれもありません。
「自分自身」
っていう粒度にすると、そこに含まれる要素は、
「自分自身」
しかいません。
あるとしても、
「自分か、自分じゃないか」
っていう判断基準くらいしかなくて、
自分 ⇒ 自分は入る
自分じゃない ⇒ 自分は入らない
っていう何の意味もない分類しかできません。
分類や区別ができないということは、肯定も、否定もできないんです。
(これ、超大事)
なので、
「自分を認める」
っていう時には、自分以外の人やモノに対して、
「自分じゃないこと」
が認識できていればいいんです。
例えば、東大に在籍していて公認会計士の資格を持って、学生起業家でもあり、すでに年商5億円のたかしくんがいるとします。
自分を認めるためには、
「たかしくんは、自分じゃないな」
って認識できるだけでいい。
そしたら、たかしくんがどうであれ、自分を肯定する必要も、否定する必要もありません。
だって、たかしくんは自分とは違う存在なのだから、自分とは比べようがないんです。
もちろん、
「学歴」
「資格」
「起業家かどうか」
「年商」
みたいな粒度を考えれば、たかしくんと自分を同じ集団に所属させて、たかしくんと自分を比較して、優劣をつけることができます。
そういった観点で物事を考えるのもダメなわけじゃないよ。
ただ、
「自分を認める」
ためには、
「自分自身」
っていう粒度も持っていたい。
「自分は自分だな」
っていうのが自分を認めるってこと。
「自分は自分でいいんだ」
って許可を出す。
自分を認めるための集団に自分以外の人間を入れない。
「自分は、自分なんだな」
って自分を認識できてるだけでいい。
「たかしくんは、自分じゃない」
って分離して考えられている状態であればいい。
つまり、
「自分を認める」
ってのの本質は、自分と他者を
「分離すること」
だと思っています。
自分は、自分であるだけ。
そこに何の評価も、判断も加えないし、加えられない。
自分は高卒だし、起業してるわけでもないし、月給も10万円そこそこ。
自分が持っているステータスだし、自分が選んできたものだし、自分がそこに満足をしている。
それでOKを出す。
「中卒の人を見つけて、高卒の自分がマウントを取る」
とかじゃなくて、
「仕事していない人を見つけて、仕事してお給料をもらっている自分がマウントを取る」
とかでもない。
マウントは、自己評価が低い人がやることなので、マウントなんてしなくてもいい。
マウントするためには、同じ集団に何人もいるように粒度を粗くして、比較できるようにしてなきゃいけないからね。
「自分は高卒でもいい」
って言う時の、
「~でもいい」
っていうは「妥協」じゃなくて、
「そういう自分であっても、それも含めて自分なんだと認めてもいい」
っていう「許可」
です。
大卒の人や、MARCH、東大などの人を見て、自分と一緒くたにして、
「大卒の人たちに比べて、高卒の自分なんてダメだ」
って「否定」しない。
この時、自分は、自分を見てるんじゃなくて、
「学歴」
を見ています。
自分だけを見て、
「高卒かどうかは関係なく、自分は、ここにいていい、普通にしてていい」
っていう「許可」を出す。
自分を認めるための粒度では、
「自分自身」
しかいないから、周りに東大卒の人とかいても、
「自分は自分」
なんだよね。
東大卒の人は、それまでに勉強をがんばってきたんでしょう。
それはそれでいいじゃない。
それはそれで素晴らしいことなんだけど、
「そのことと自分は何の関係もない」
ってことです。
周りの人の肩書き、経歴、ステータス、持ってるものがどれだけ高い水準のものであっても、
「それによって、自分自身の評価や価値には一切の影響が無い」
ってこと。
他者は、自分とは違う粒度で物事を考えているでしょうから、勝手に評価・判断してくることはあります。
でも、自分は、「自分自身」という粒度で考えてればいいので、他者からの評価は何の関係もありません。
なぜなら、
「自分とたかしくんは違う人間」
であり、自分を認めるためのグループの中に、
「たかしくんは入っていないから」
です。
自分を認めるための粒度で考えるならば、そのグループの中には、
「自分自身」
しか入ってないから、
「自分のままでいる」
だけで、自分を認めることができます。
自分は自分なのに、たかしくんになろうとして、受けたくもない東大を受けようとしたり、公認会計士の資格を取ろうと思ったり、起業をしようと思ったり、年商5億円になろうとしなくてもいい。
それは、自分が
「それをやりたい!」
って思った時だけでいいのだ。
「自分を認める」
ために僕らがやることは、
自分
たかしくん(=他者)
とを区別して、分離できるだけでいい。
分度器で、長さは測れないのだ。
(分度器にも長さの目盛りがついてるよ!って揚げ足コメントはいらなくて、角度と距離は別次元の単位で比較することはできないよね、って意味です)
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