人生には悲惨なことなどない
人生に悲惨なことなど起きない
日常生活を送ることができる環境の中において
悲惨と言われるような状況は無いのです
しかし僕の人生は悲惨だった
それは他人から見て悲惨だったであろう
ということ
職は無く
学歴も無い
40歳になって初めて劇団に入り
自分を試すことに舵を切った時
アルバイトを4っつ掛け持ちしながら
20ぐらい離れた若い子たちと一緒に
なれないダンスを教わり
覚えるのが遅いと先生に怒られていた
普通と比べて悲惨だった
痛々しい40歳だと思う
そう
悲惨とは
当事者が思うことでは無く
いつも他から見てのことだ
その時の当事者の僕は
すがすがしく
毎日劇団の帰りに
スターと一緒に仕事をすることを妄想しながら
電車賃を節約して
1時間は歩いていた
へとへとでしんどかったが
すがすがしく充実していた
それは
人生の悲惨なことというのが
自分の認識とは違うことを実感するものであった
劇団にはいることで
有名になっていく美談でもなんでもない
結局一年後に劇団を辞める決断をする
しかしこの一年間の日々は
40歳の青春だった
全てを捨てて
新たな挑戦をして
しかもそれは有名になることは妄想するだけ
現実としては
初めての経験に
ワクワクドキドキ
刺激をもらっているだけという
充実と
夢を見る輝かしい日々だった
私はこれが忘れられない
人生に起きることは
ほとんどが
悲惨ではない事だし
悲惨に見えるようなことも自分にはまったくない
そんな
サクセスストーリーのない
つまらないように見える人生だから
他人に自慢して話せるようなことも無い
しかし
僕としては輝かしいかけがえのない時間が
確かにあった
誰に話しても悲惨でもないし
すさまじいい努力の結果
成功を収めたという感動もない
自分の中の小さな成功と体験
そして充実した日々の実感それだけだ
マラソン選手がマラソンを走っている時に
味わう充実感を
マラソンを嫌いと思ってしないでいる人には
マラソンランナーが過酷で悲惨なものに
見えるのと一緒で
ちょっと飛躍かもしれないが
悲惨の中に居る人はそこを
悲惨な状況とは認識していない
ただ
それを楽しむ術を知っているのと
楽しむことが出来なくなり
苦しくなっていることが起きるかだ
最近嫌な事件が多い
自分の状況を悲惨だと思い
誰かを道ずれにすると言わんばかりの事件が
自分の状況を悲惨だと考えるのは
それは自分で感じているわけではない
周りがそう見ているのを感じるので
自分がそうなのだと思ってしまう
その弱さ
精神的弱さとはそういうことだと思う
この時の弱さは
決して生きていけないということではないはずだ
弱い人には
当然励ましが必要で
励ましてもらえる相手がいると
事件は起きないように思う
でも恐らくそのような人間関係は
持てないところまで
現代社会は人をおいやってしまうのだ
実際は弱くない人でも
弱い人を作ってしまう
大阪の放火事件の報道で
精神科医が
貧困と孤独がここにきっかけとしてある
と言っていた
私の経験でも
私は不安定だとか
エゴが強い人だとか
カウンセラーに言われたことがある
私は悲惨と見られる状況を楽しんでいるのに
この状況では成功をしないからと言われた
そのあと
ヒプノセラピーを受けると良いと言われ
かなりお金をかけた
当然私はそのカウンセラーの言葉を
結果的に信じることがなかった
充実して楽しんでいたことを
確認するに至った
人から見て成功と見えない事
人から見て悲惨に見える事
それと
自分、当時者の認識は違うのだ
もし当事者の自分の状況を
自分でどういうものかの判断ができないと
他人から見た悲惨は
当事者の悲惨になる
〇〇じゃないと悲惨だ
〇〇のようにならないと悲惨だ
その自分は悲惨なんだという他人の意見に
自分は同一化されてしまう
そして
悲惨でないように見える人を妬んでしまう
そして悲惨でない人を
悲惨な目に合わせることで
この悲惨というところにいる自分に
目を向けて欲しいと考えてしまう
悲惨な自分には誰も目を向けてくれない
その欲求は
有名になることで人生を終えるという
考えになる
この流れを断ち切ることが
社会の急務だと思う
他人のことを悲惨ということを
言うのをやめる事が大切だ
これは世の中にそうであってほしいと思う
どんな人生に見えようと
自分で選んで楽しんでいると考えることだ
私はホームレスのことも
そう考えるようにしている
これは子供の時から
母親と議論してきたが
ホームレスはどこかでそれを楽しんでいる
他人のことを悲惨と思うことを止め
他人んがどのような状況であったとしても
対等に扱い
対等に接し
対等なものとしてみる癖をつけると
悲惨なものはドンドン起きなくなっていく
のではないかと考えても良いのではないか
対等とは
悲惨に見ることを止めるということだけで
その人と付き合うということではない
悲惨だと見る目を無くして行くことだ
日本人は特に
人の目を気にしやすい
気にするということは
他人からどう自分が見えているかわかっているのだ
他人が自分をどう見ているのかを
自分は悲惨と思われているという
見られた感を持たせないためにも
悲惨は無く
普通のことだから楽しめと言える
世の中にしたらいいと思う
これが自己責任だと考えている
世の中は悲惨なことなどない
どんな状況でも
必ず自分次第で可能性は作れる
それを生み出せる社会が必要であると思う
皆さんはどう感じますか?
今のこの社会を
悲惨なことが起きたという話や情報
報道や記事を見た時に
それを悲惨なことと取らず
普通のことだと取ることができたら
それが尊重になるのではないかと
思うのです
普通のことだとすることは
悲惨な事件を起こすことが無いようにする
為の第一歩だと
普通に人間は人を傷つける
そういうものだからこそ
普通に予測しておくことが必要だ
この傷付けるは決して外傷のことだけではない
心理的なことも同じだ
予測とは
嫌なことをそっぽ向かずにいることなのだ
悲惨に対してアレルギー反応で
目を背けてしまうのではなく
そこをしっかりと見ていく
そうすることで
人間のもろさは見えてくるし
人間の危うさは見えてくる
見えてくるからこそ
守る術
逃げる術
遠ざける術
防犯ができる
見ると引き寄せるのではない
見ると断ち切ることができるのです
それは
全てに共通すること
心においても
見るからこそ
断ち切ることや
改善させること
無くすことや
対応することができる
見ることから始めるしかないのが
これから必要なことであると思う
見ましょう
自分のどんなものも意味を持つ自分だし
自分のどのようなところも
必ず役に立つ
自分のどのような所も
良きものの源泉であると思うし
自分の中に悲惨なものなどない
必ず
役に立つ見方というものがあるし
役に立つ宇宙の導きがある。
ネオユニ6期生の募集します。
まずはKaoriのブログにて詳細をご覧ください。
今回はこれまでのスクールNEO UNIVERSE
今こそ大切な新時代の統合に向けた恋愛のお話し!
![]() | 男はその時、何を考えているのか? 彼の愛を呼び起こす39のヒント 1,437円 Amazon |







