前回からの続き(11月2日のこと)です
四条通りに出て、西へ歩いて行きます

すると左手ビルの前に石碑と駒札があります

円山応挙宅址

住所・京都市下京区四条通堺町東入南側
こちらは以前、記事にアップしたことありますが、再投稿です


駒札
円山応挙宅址
    下京区四条通堺町東入ル南側  立売中之町
  応挙は享保18年(1733)丹波国桑田郡穴太村(現亀岡市)の農家に生まれたが、幼少より画を好み、17歳のとき、京都に出て狩野派の画家石田幽汀(ゆうてい)の門に入り、画法を学んだ。写実主義に傾倒し、三井寺円満院門主の知遇を得、幾多の名作を世にあらわした。
  この地に居をかまえたのは、若い頃、近くの四条道場金連寺(こんれんじ)の境内に借家住まいをしていた関係からでもあろうか。その画風は当時の京都画壇を風靡し、門人千名といわれ、呉春(ごしゅん)の四条派と京都画壇を二分する流派(円山派)をなした。
  寛政5年(1793)応挙は病にかかり、間もなく回復したが、その後は歩行の自由を欠き、視力も衰えた。それにも拘らず、毎年伏見の梅渓(うめだに・現伏見区桃山)に梅見に行くのを楽しみとしていた。亀山候以来の名作「保津川図」を描いて間もなく同7年(1795)7月17日、63歳で没した。墓は太秦の悟真寺(ごしんじ)にある。
この日のこと続きます
では、またぁ~(* ̄∇ ̄)ノ