今回は国道走ってるとこで目につくとこのことです
国道9号線を走っていると、国道沿いにこんな看板を見ます
小倉百人一首やかりの地
京都方面から
こちらは福知山方面から

この辺りは看板に書いてある、百人一首でご存じの
大江山 いく野の道の 遠ければ まだ文も見ず 天のはし立
小式部内侍が書いたまさに生野の里になります
実は幾度となく記事にしています→生野の里
その小式部内侍という人は、あの和泉式部の娘なんだそうです😲
近くにあった看板・・・は色あせていました🤣

小式部内侍と生野の里
小倉百人一首とは、藤原定家(1162~1241)が百人の歌人から一首づつ歌を集めたもので、百首の六十番目の歌が小式部内侍の「大江山 生野の道の 遠ければ まだ文も見ず 天橋立」です。
歌意は、大江山(大枝山ー老ノ坂付近の説も)を越えて行き生野を通って行く道が遠いので、まだ天橋立も見たこともなく、母からの文も見ていません。と言う意味で、母の和泉式部が夫の丹後守保昌と共に丹後に下向していたころ、都で歌合せがあり小式部内侍も歌人に選ばれました。少女なのに歌が上手なので、お母さんに使いをやって教えてもらっているのだろう、と言う噂もあり、中納言定頼に「歌はどうなさいましたか。使いは帰って来ませんか。心配なことでしょうね。」とからかわれた時に引き止めて即座に詠んで返した歌と言われています。
すぐれた才能がありながら若くして亡くなりました。
この生野の里は、一千年前から明治の半ば頃まで京街道の宿場町として栄え、本陣なども置かれていましたが、現在は田園風景が広がる静かな町です。
また、小野小町が旅の途中で病にたおれ、病気療養したと伝えられる薬師堂は、ここより西へ約30分ほどの、小野脇という所にあります。
(原文のまま)
いつの時代にも、嫌のこと言う者はいるものですね
そこすかさず歌で返すところなんかは、だだならぬ才能があったことを感じさせます
その近くにはバス停留所

停留所の名前を見ると生野里となっています

その辺りから見た生野の里 
停留所から少し福知山方面へ行くと、信号があるのでそこを左折すると村へ行けます
追記(令和3年9月)
この信号の角に水準点がありました

信号入ったとこから進むと
そこにはこの様な解説板があります

ようこそ生野の里はお越し下さいました
このあたりが、約千年前の平安時代から京の都と丹後の国を結ぶこと京街道宿場町として栄えた「生野の里」です。江戸時代に入っても貝原益軒の「西北紀行」にもその賑やかな様子が描かれており、丹後の宮津藩主は参勤交代のとき、この地で一泊したといわれ、今も本陣跡が残っています。それだけに都では生野の印象が強く、このことは当時の和歌に、生野を詠んだものが多いことによってもうかがわれます。
なかでも、有名なのは、小式部内侍が詠んだ
「大江山 生野の道の 遠ければ まだふみもみず 天橋立」
小倉百人一首にも詠まれたこの歌には、次のような秘話が残っています。
小式部は、平安時代の有名女流歌人、和泉式部の娘であるが彼女自身は歌を詠むことは苦手だと思われていた。母(和泉式部)が再婚して丹後宮津にくだった後、都での歌合せの席で小式部は、母がいないと詠めないだろうとからかわれたが、即座にその母を慕って詠い、一座の人々を驚嘆させた。この歌は、大江山や生野の里は都から遠いのに、さらに遠くの母のいる天橋立」の地は、行ったこともなく(ふみもみず)、便りもなく(ふみもみず)その身を案じているという母思う切ない心を詠んだものと言われる。
このほかこの地を詠んだものに
大江山 遥かにおくる 鹿の音は いくにをこえて 妻を恋ふらむ (権中納言実守)
大江山 越えて生野の 末とほみ 道ある世にも 逢ひにけるかな(新古今集)
など多くあります。
近くには六人部七天神の第五代の生野天神社があり、境内には権の大樹にまつわる「金の権の実」の民話が残っている。
また式内社 生野神社が、ここから一キロメートル程下った三俣地区に鎮座する。
西方には、小倉山(通称、城山と呼ぶ)があり、地元の言い伝えによると当地区は、綾部藩の領地で、山の中腹のとりで(見張所)から、藩の命を受けた生野の庄の住人が見張りにつき、異常があれば早馬で藩に通報することになっていたとか・・・
(原文のまま)
(原文のまま)
現在の様子

現在は店屋さんなども無いようで、通りに面して民家が建ってると言う状態です
信号より手前の国道から生野の里へ入る道の、少し先の国道沿いにはこんな石碑があります

郡是萩原工場跡

国道の向側に昭和38(1963)年まで郡是萩原工場があった。
この地方に於いて、郡是萩原工場は大規模な工場として、経済的に地方の発展に大きく寄与した。
明治30(1897)年、共進製糸合資会社が創立された。綾部に郡是が創られたのもこの頃、郡是は波多野鶴吉氏によって大発展したが、共進社の役員は旦那衆が多く経営がうまく行かず、明治42(1909)年郡是に身売りし、その分工場となった。郡是にとっても将来発展の第一歩を何鹿郡外に踏み出した最初の工場で、意義深い萩原工場であった。
大正8(1933)年頃には、近隣の女工だけでは不足し、富山県東砺波郡から多くの女工を迎えた。彼女達は優秀で、信州より待遇が良いと張り切ったので、ノンビリした地方女工の刺激となった。
大戦が始まると「繭も兵器」と言われたが、やがて蚕糸業は平和産業と縮小され、海軍の縫工場となった。その後昭和25(1950)年頃からは、八王子市から中野篩絹工場の技術を移し再生を図ったが、昭和38年に操業65年の幕を閉じた。
工場の正面から移設した、波多野林一社長書「我等の製糸」の碑
(原文のまま・一部年号は補足)
ちなみに郡是とは、下着なんかで有名なグンゼのことです
ちなみに郡是とは、下着なんかで有名なグンゼのことです
グンゼは綾部市が発祥地なんです😊
我等の製糸の碑

次回は記事の中にも出てきた、生野の里の神社のことです
では、また(* ̄∇ ̄)ノ






