前回からの続きです
(令和元年10月14日のことです)
今回は駒札、解説板の文字も書き起こしてますので、文字多めとなってますが、そこは読まれなくとも支障ありませんウインク
いつも読んでくださってるように読んで頂ければ幸いです照れ

六波羅蜜寺から次に行ったのは五条通りに面してある若宮八幡宮
住所・東山区五条橋東5-480
御祭神  仲哀天皇
              応神天皇
              息長帯比売命
              仲恭天皇
              椎根津彦大神

駒札と清水焼発祥之地 五条坂の石碑
 応仁天皇(八幡神の主神)とその父母・仲哀(ちゅうあい)天皇及び神功(じんぐう)皇后を主祭神とし、左の相殿(あいどの)に仲恭(ちゅうきょう)天皇を祀っている。また、昭和24(1949)年に右の相殿に陶祖神の椎根津彦命(しいねつひこのみこと)が合祀されたことから、「陶器神社」としても知られている。
 平安時代の天喜元(1053)年に、後冷泉(ごれいぜい)天皇の勅願により源頼義(よりよし)六条醒ヶ井

(現在の西本願寺の北東辺り)に創建したのが当社の始まりと伝えられ、当初は六條八幡、佐女牛(さめがい)八幡とも呼ばれた。源氏一族や武士からの信仰が厚く、室町時代には足利歴代将軍の崇敬を集め、隆盛を極めた。その後、応仁の乱により荒廃し、社地を転々として慶長10(1605)年に五条坂のほぼ中央に当たる当地に移された。
 現在の社殿は承応3(1654)年に再建されたものである。
 毎年8月7日から10日までの4日間、若宮祭とともに陶器祭が行われ、五条坂一帯で盛大に開催される陶器市は多くの人でにぎわう。
 また、昭和60(1985)年には若宮八幡宮前に、五条坂の先人及び陶器祭運営功労者への感謝の意を込めて、「清水焼発祥之地 五條坂」の記念碑が建立された。
(原文のまま)

ニの鳥居

ニの鳥居をくぐって、左手に手水舎

その先が社務所

玄関横にある境内社

その反対側には境内社がいくつかあります
その中の大きなのは阿波天満宮


一番右は鍾馗さまが祀ってある鍾馗神社

由緒
 鍾馗神社 由緒
 鍾馗(しょうき)は主に中国の民間伝承に伝わる道教系の神である。唐の玄宗皇帝が病の床につき、夢の中で現れる鬼に悩まされていた。その夢の中で鍾馗が鬼を退治するのを見る。玄宗皇帝が正体を尋ねると、「自分は終南県出身の鍾馗。官吏になるため科挙を受験したが落第し、そのことを恥じて自殺した。だが高祖皇帝(唐の初代皇帝)が手厚く葬ってくれたので、恩に報いるためになってきた。」と告げた。夢から覚めた玄宗皇帝は病が治っていることに気づき、夢で見た鍾馗の姿を絵師に描かせ、疫病除けや受験の神様として定めたという説話がある。
 日本では小さな民間信仰のひとつとして主に京都や奈良の町家、一階の上の中屋根に置かれているところが多く見られ、向かい合わせの鬼瓦や同じ鍾馗から弾かれた災いなどをはね返し、家を守っている。
疱瘡(天然痘)除けとして江戸中期には、顔を赤く塗られた鍾馗もあった。現在では家を守る以外に学業成就、鍾馗に退治された鬼を「貧乏神」になぞらえ、貧乏除けの神として信仰するところもある。
 鍾馗神社が、ここ若宮八幡宮に存在する理由として、陶祖人・椎根津彦命(しいねつひこのみこと)が祀られている陶器神社があり、瓦からできている鍾馗も同じ焼き物であることから、京都市内唯一の場所として、若宮八幡宮・宮司の協力も得て建立された。
ご神体の鍾馗は、災い除けとして鬼門の方向である北東に向けて設置されている。
 京都市東山区ではたくさんの鍾馗を見かけることができ、家を守る以外にまちの生い立ちを伝えてくれる重要な存在でもある。
同じまちを守る地蔵には地蔵盆があるのに何故、鍾馗にはそのような感謝する祭事がないのか。
この素朴な疑問から始まり、鍾馗を正式に神格化して鍾馗に感謝する神社、そして鍾馗祭りが実施された。
2013年12月1日 建立
建立者   京都造形芸術大学 芸術学部 教授 関本徹生
御神体制作 京都造形芸術大学 美術工芸学科四年(当時)吉田瑞希
(原文のまま)

境内をぐるり
階段を上がって右側に孝明天皇御胞衣埋納所


その横にはハート型の石

玄関の横にあった境内社の裏にあった立派な木がこれ
根っこも立派です😁

本殿前の姿見

拝所
右側にちらっと姿見が見えています

駒札
 当宮は、天喜5(1058)年源頼義(988~1075)が、後冷泉天皇の勅を奉じて文武の神、治山治水の神、長寿の神として創建し、六条八幡とも佐女牛八幡ともいわれていた。
 平安時代は、五条大路までが市街地で、六条の地は、堀川館をはじめ当町に頼義、義家(1039~1106)の館、その東には、後に義経が居を構えるなど、長く源氏の邸宅があったところとして著名で、「拾芥抄」には、「八幡若宮義家宅」の書き入れがあり、「古事談」にも、「六条若宮はかつて源頼義が邸宅の家向に構えた堂に始まる」とある。
 源頼義、義家の尊崇があつく、広い境内と立派な社殿をもって栄えていたが、天正12(1584)年、豊臣秀吉(1537~1598)による京都改造事業により、御旅所のあった東山に遷され、さらに慶長10(1605)年、現在地の五条坂に遷された。
 旧地は、西本願寺の寺域とされていたが、江戸時代に入ると、跡地に町内の住人によって新たに若宮八幡宮

が祀られ、現在も「若宮町」や「若宮通」という地名に往時の名残をとどめている。
(原文のまま)

本殿の解説
京都指定有形文化財
 若宮八幡宮社本殿
 現在の本殿は承応3(1654)年の造営と伝える。三間社流造(さんげんしゃながれづくり)の庇(ひさし)を取り込んで前室とし、更にその前に向拝(こうはい)一間を付けた前室付きの流造である。屋根は現在銅板葺になっているが、当初は桧皮葺(ひわだぶき)であった。
 前室付き流造の本殿は、滋賀県下に多く見られるが、京都では珍しい形式のもので、この本殿の価値は高い。
(原文のまま)

拝所の左手にある蓬莱石

その解説
 蓬莱石の由緒(ゆわれ)
若宮八幡神祠に一奇石あり其の名を蓬莱という。
足利尊氏将軍かねてより若宮の神を深く信仰せしが病惱にかかりし折特に立願せられ、病癒え、これを祝して珍宝七種を献じ敬謝せり、この石は其の一つ也。
其の形勢巨鼈(べつ)の如し。載山蓬莱の石、良(まこと)に以(ゆえ)あるなり。
云々(蓬莱山は勃海の東に峙(そばだ)ち神仙不死の薬ありと古事にあり)…必ず神霊は之を(お加護)英士に与えるものなり…。と記してある。
即ち、この蓬莱石には不可思議な御神徳御加護のある貴重な宝石である。
追記、この蓬莱石は御本殿の片隅に埋もれていたものが最近御神託により発見され、約六百五十年振りに世に出されたもので御神威新かな石である。
(古文書抜粋による・原文のまま)

本殿と蓬莱石と

前にも訪れて御朱印を頂いています
今回は他のものが頂けるということを知ってから、初めての参拝
なので、若宮八幡宮以外の御朱印を頂きました
若宮陶器神社

阿波天満宮

鍾馗神社

由緒書き
由緒書きには、慶長以降のことに触れられていて、駒札で解説されてるその後の成り立ちを知ることが出来ますΣd(・∀・´)

次回は清水寺方面へ向かって、石碑を訪ねます
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ