育った環境と家族のこと(幸せな記憶)1 | *色を通して心を見つめる《Shining Ray》*

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『気になる色は心の底からのメッセージ』
選んだ色は無自覚、無意識の本当は大切なことを伝えています。それを自分自身で見つけてみませんか?
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正直、幼いころの記憶はあまり多くはないかもしれません。
でもその中で、おそらく当時は”当たり前”と思っていたことが、
父も母も見送った今、なによりも大切な出来事だっ
だと思っています。

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《幼少期》
 
木でできた楕円形のお風呂に父に抱かれながらの入浴。
黄色いアヒルが浮かんでいました。
 
父が乗る自転車の後ろにしがみついて乗っていたこと。
肩車してもらったこと。
外出すると父の足元に絡みついていたこと。
 
父に性格、性質がとても似ていて、
幼いころは、言葉がなくても通じ合えるような関係だったと思います。
 
母は手作りの服、座布団や手提げ袋。
刺繍付きでよく作ってくれていました。
 
そして遠足や運動会の時のお弁当。
朝早く起きて、卵、キュウリ、でんぶ(ピンク色の食材)で太巻きをよく作ってくれました。
誕生日や年末年始もきれいな盛り付けで、たくさん料理を出してくれました。
 
それがとにかく美味しかった。
 
家を出てからも、実家に帰ると元気な時(心が落ち着いた状態の時)はおいしいご飯を作ってくれました。
どんな一流シェフにもかなわない、愛情こもったごはん。
それだけでも有難かったこと。
 
もう食べることができないからこそ、なおさら有り難く感じます。
 
《20代前後》
 
わたしが10代から20代のころは、父が転勤での単身赴任だっただけでなく、
母から追い出される感じで父とは別居期間がほとんどでした。
 
(※ 母は心の病を抱えていたため、興奮すると常軌を逸した状態になっていた。本人の意思ではない行動であったことが、かなり後になってから判明した。)
 
そんなほとんど生活が別の時でも、
父は、わたし宛の葉書をくれたり、メモを残してくれたり、
当時は「嫌だ」って思っていたのですが、
職場に昼頃父がやってきてカフェで会ったりしたこともあります。
 
母はこの頃も心の状態がいい時は、
おいしい料理を作ってくれたり。
 
就職したばかりの頃、
入浴後に疲れ切ってうとうとするわたしの濡れた髪をドライヤーで乾かしてくれたこともあります。
 
一緒に鎌倉や山下公園付近の散策、
北海道やアメリカ東海岸旅行にも行きました。
 
《30代前後》
 
父が退職して、実家に戻ってきました。
 
わたしはすでにアパートで暮らしていて別居でしたが、
その頃から父が他界する約三年くらいの間は、
幸いなことに母の心の状態が落ち着いていました。
 
その為、父母でそれまでの不仲の時期を取り戻すかのように、
父が外食や外での飲酒が大好きなので母が頻繁につきあったり、
二人で京都に出かけたりもしていました。
 
わたしも二人と一緒に銀座のレストランやアパート付近のお店で食事をしました。
その近所の飲食店を出た後、
二人と分かれてアパートに向かうわたしに向かって、
「ママと離婚するぞ~」って笑って大きい声で叫びました。
 
これは冗談ですが、
でも本当に離婚してもおかしくなかった。
 
寂しがり屋の父が、
よく別の家族を作らないで、
わたしたちのもとに戻ってくれたと思います。
 
66歳の年末の寒い日、外で大好きなお酒を飲んだ後、家に戻った父が、
深夜に倒れて救急車で運ばれました。
 
意識は戻らず、
それから約一か月後のとても寒い日の早朝、
母と私に見送られて父は旅立ちました。
 
それから家に戻ると、
飼っていた犬が鳴き叫びだしました。
その場にいなくてもわかったようでした。
彼なりに父との別れを悲しんでいたようです。
 
私が33歳の時でした。
 
一人で長い間暮らしていて、
どれほど寂しさを味わったことか。
それを思うと、それだけでも感謝しかありません。
 
父は裏表のない、かわいい人だと思っています。
要領は悪いけれど、
いるだけで周りを癒してくれる存在だったのかもしれません。