羽生結弦というスケーターの表現者としての才能を語るとき、私の中で絶対にはずせないのが2011年中国杯のショート・プログラム「悲愴」だ。
それまで私が抱いていたフィギュア・スケートに対する概念を根底から覆してしまった16歳の少年。
若さと怒りで荒ぶる魂から止めどなくほとばしる情熱。その激流は圧倒的な力で会場を呑み込み、観客の心を打ち震わす。
フィギュア・スケート、クラシック音楽・・・そうした芸術のジャンルを超えて、今世紀の偉大なアーティスト出現を予感させる演技だったと思う。
2011 Cup of China Yuzuru Hanyu SP
https://www.youtube.com/watch?v=XK-4TEdoygc&feature=youtu.be
Figure Skating Stars 様より
結弦くんの「悲愴」には観客をぐいぐい引き込んでしまうような「華」がある。たとえば天才少年ピアニストと言われたエフゲニー・キーシンの演奏のような華やかさ。
努力して身に着けるという類のものではなくて、生まれながらにして備わった恵まれた資質だと思う。
https://www.youtube.com/watch?v=VfXjk7GkCF8
Scriabin Etude Op 8 No 12
Sissco 様より
それなのに日本のフィギュア・スケート界では未だに「羽生選手はジャンプがすごい。」とか「羽生選手みたいなジャンプが跳びたい。」とか、ジャンプ、ジャンプ、ジャンプ・・・とジャンプにばかり話題が向かってしまうのが残念でならない。
フィギュア・スケートはスポーツと芸術の融合と称されながら、結弦くんの芸術性が日本のスケート界のボキャブラリーを凌駕してしまっているのか、解説や書評を見てもこれと納得できるものが少ない気がする。
語弊を恐れず言うならば、スケート関係者よりむしろ、ピアニストとかヴァイオリニストとか、そういったプロのアーティストの方々に原稿を依頼した方が面白い記事が読めるのではないだろうか。
たとえば、「バラード第1番」のステップが最初の年は3拍子で音を捉えていたものが、2年目は6拍子で捉えられるようになり、より優雅で滑らかな動きに変化したことなどは、ピアノを学んでいる人ですらその違いを表現するのに苦心するような難しいことなのだ。
それを音楽を本格的に学習したとか、楽器が弾けるとか、そういう専門的な勉強をしてきた訳でもない結弦くんは、ピアニストの福間さんのちょっとしたアドバイスでものにしてしまった。
そしてその腕や身体の動かし方を動画で繰り返し見ながら、銀盤を奏でる氷上のピアニストとなってしまったのである。そうやってプログラムを洗練させていったのだ。
底知れない才能を持つ人が、目に見えないところで重ねる努力。彼のジャンプをお手本とすることはできるかもしれないが、彼の表現を真似することは不可能だ。彼はあらゆるジャンルの音楽に自分自身を投影し、没入することができる稀有な表現者だから。
彼と対照的なスケーターは存在しない。彼は技術的、芸術的にオールラウンドなスケーターだから。
結弦くんにフィギュア・スケートとは関係ない分野で活躍される作家やアーティストのファンが多いのは大いに納得できる。
こうした人々はジャンプやスピンだけで結弦くんを讃えるということはしない。なぜなら、結弦くんの場合、ジャンプもスピンも完全に音楽と溶け合い、芸術的なプログラムの一部として目に映るからだろう。
音楽好きな人には彼のスケートは音楽的だと感じられる。物書きには彼のスケートは詩的だと感じられる。そして最後にもう一つ、忘れてはならないことがある。
それは多くの人々にとって結弦くんが「ピトレスク」なスケーターであるという事だ。
このフランス語の形容詞「ピトレスク(pittoresque)(絵になる、画趣に富んだ、絵のように美しい)は美しい風景などを讃える際に用いる最上級の形容詞だ。「ピトレスクな情景」「ピトレスクな詩文」といった使われ方もする。
天野喜孝が描く、羽生結弦選手のイメージイラストを公開
http://news.mynavi.jp/news/2015/12/01/072/
銀盤の上のすべてのアングル、すべての一瞬が、「ピトレスク」なスケーター。神の手による造形美の極致だと思う。
だから彼は、今日も世界のどこかで人々の絵心を動かし、筆を握らせているのである。
※画像は動画よりキャプチャーさせていただきました。








