こんにちは。
マインドコーチ&「居待月」という居酒屋を運営しております丸山伸予です。
なぜ、私が一般社団法人を立ち上げたのかについての4回目です。
(以前の記事はこちら⇒ その1、その2、その3)

この写真は、息子が5歳くらいのときですから、母を看始めて4,5年目というところでしょうか。
母はおそらく、今の私と同じくらいの年齢だったと思います。
人工呼吸器を装着し、筋肉を自分の意志で動かせなくなった母は、舌の力で下の歯が前に出てしまい口も閉じられない状態になっていました。
ですので、当然自分の顔を鏡で見ることはもちろん、写真を撮られることも好みませんでした。
ですが、写真に写っている今は亡き宣教師のベック氏が訪れてくださると、とても嬉しそうにしていました。
母はイエス様を信じていましたので、死はイコール天国にいくことでした。
母は毎日のように、天国にいきたいと祈っていましたし、そんな母を元気づけてくださるのがベック氏でした。
(ベック氏は、「節子(母の名)にいつも勇気をもらっているよ」と言ってくださっていましたが)
母は、自分の今ある状況をただ受け容れるしかありませんでした。
(実際受け入れていたと思います)
声をあげて泣くことも、私に大声で訴えることも出来ませんでしたから、おそらく絶えず心の中でイエス様と会話をしていたのでしょう。
今思い出しても、母の毎日は地獄だったと思います。
それでも天国だけを望みにして、「自分の病気が、娘や孫でなくて良かった」と言っていました。
6母が天国に召されたのは、母が65歳になった春でした。
毎年桜を見に、母を車いすで看護師さんと一緒に外に連れ出していたのですが、母はあまり楽しそうではありませんでした。
この年の初めくらいから、ぐんと体調が悪くなり何も訴えなくなっていたのです。
ですので私は、母と桜を眺めながら「これが最後の母とのお花見かも知れない」と思っていました。
そして、ゴールデンウイークが始まろうとしている4月下旬、母の様態が急激に悪化したのです。
私はその頃、母の介護をあと10年でも20年でも続けられると感じていました。
そのくらい、母の介護生活が当たり前にもなっていたからです。
母は、顔を真っ赤にして苦しそうにしていました。
熱が続いていたので訪問の先生に診ていただいたら、肺炎とのことでした。
ただ、肺炎が治ったとしても、母のそもそもの病気が治るわけではありません。
体力もなくなっていた母を、私は家で看取る決心をしました。
尿が出なくなった時点で、「もうお水や栄養を入れることは、ご本人も辛いのでしないでください」と言われ、あぁこれで終わるのだと実感が湧きました。
母が天国に早くいかれることを祈っていもいましたが、いざそのときが来るとなったら私は母を失うことの悲しみに押しつぶされそうになっていました。
苦し気な母の顔を見ながら、「今まで優しく介護出来なくてごめんね。そして私を産んで育ててくれてありがとう」と、何度も何度も言いました。
母の姉妹たちや、クリスチャンのお友達などがいらしてくださり、母との最後の別れをしてくれました。
旭川にいる兄は病気で入院していたようで、連絡も取れず。
(さいごまで、兄は兄らしいなと苦笑した記憶があります(^^;)
私は食事も摂れず(家族には食事を作っていましたが)、ニ三日は涙が止まりませんでした。
もちろん、先生や看護師さんたちが訪れるときは、しっかりとした娘を演じていましたけれど。
ですが夜、泣きながら湯船に浸かっていて、ふと思ったのです。
イエス様が磔になって死んだとき、母親マリアはイエス様を抱きしめることも出来なかったことを・・・。
マリア様は、磔にされた息子をただただ見ているしか出来なかったことを・・・。
それを思ったら、私は母のそばで話しかけたり、母の手を握ったり、母を抱きしめることだって出来ていることが、この上もない喜びに感じられました。
今まで一緒に10年間もいられたこと。
ハプニングがあっても、必ず最善の道が与えられたこと。
息子が数回入院しても、今も元気でいられること。
すべてのことが感謝なことに思えたのです。
そして、不思議なことに私の心の悲しみがスーッと引いていったのでした。
母の尿が出なくなってから亡くなるまで、4日間くらいだったでしょうか。
毎日母の隣に布団を敷き寝ていましたが、私は早朝母の脈が止まっていることに気づきました。
人工呼吸器が入っているため呼吸だけは確保されていましたが、肺炎になってからは痰の吸引をすると血液が混じっていました。
その時点できっと、肺にも血液が溜まっていたのかも知れません。
母は恐らく心臓が強かったのでしょう。
心臓が静かに止まるまで、神様は私が母とゆっくりお別れが出来るよう、時間をくれたのだなと思いました。
2002年4月30日の朝、母は静かに天国に旅立って行ったのでした。
そのとき私は、魂が抜けた母の亡骸をみて、本当に身体はこの世の借り物の器であることを実感しました。
もうこの身体に母は居ないのだと感じたのです。
そして、私は自分に課せられた仕事をひとつやり終えたと感じたのでした。
私が40歳になる年の春のことでした。
長くなりますので、続きます。
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