一松書院のブログ -3ページ目

一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 Photograph of Koreaに、1926年にアルバート・W・テイラー(Albert. Wilder Taylor)が撮ったとされる写真がアップされている。

Photograph of Korea


 もともと鉱山事業を営んでいたテイラーは、1896年に朝鮮に入国し、鉱山経営のかたわら、アメリカAP通信の臨時特派員として活動していた。1919年の三・一独立運動の際には、いち早くニュースを配信したことで知られる。
 テイラー夫妻が当時住んでいた「ディルクシャ・ハウス(딜쿠샤))」は、杏村洞ヘンチョンドンに復元され、2021年から公開されている。

 この写真について、写っている建物を1930年修正の1万分の1地形図と照合すると、西大門ソデムン交差点西側117.2mのピーク(金華山クマサン)付近から撮影されたものと推定される。

 


 手前左寄り、足場が組まれている建物は日赤朝鮮本部赤十字病院である。
 

 

 同病院は1926年3月竣工であるから、撮影時期は1926年初頭と考えられる。
 その右手に見えるのが西大門警察署で、1920〜21年の設計図が残っている。

 

 

 写真中央に見える2本の高い構造物は、ラジオ放送用のアンテナ塔である。アンテナの間に建つ建物が京城放送局(コールサインJODK)だ。

 本放送の開始は1927年2月16日だが、1924年12月には実験放送が開始され、1925年8月からは朝鮮語の試験放送も始まっている。さらに1926年11月には社団法人京城放送局が設立されている。したがって、1926年初頭の段階でアンテナ塔がすでに存在していたことになる。

 アンテナ左下、前面に柱状の構造を持つ建物が見える。形状から救世軍士官学校(現・貞洞チョンドン1928アートセンター)にも見えるが、

  • 屋根形状が異なる

  • 位置も一致しない

  • 同校の完成は1928年秋である

以上の点から、同定は保留としておきたい。ただし、士官学校建設以前に救世軍施設が存在した記録があり、その関連建物の可能性はある。
 ちなみに、実際の放送局とアンテナ、そして完成後の救世軍士官学校の位置関係は、次のようになっていた。

 

 

 テイラーの写真に写る柱状構造物の左側、森の上に塔の先端だけが突き出して見える建物が、旧ロシア公使館である。

 日露戦争期に一時閉鎖され、その後は領事館として機能したが、ロシア革命後は業務の継続が困難となった。だが、1925年の日ソ国交樹立後、副領事シャドワノフが赴任しており、この写真が撮影された当時はソ連領事館として機能していた。

 

 

 写真右端中段に見える建物は、1896年に建てられたフランス公使館である。
 フランスは1886年の朝仏修好通商条約締結後、宣教師拠点のあった観水洞クァンスドン126番地に公使館を設けた。しかし1889年10月、西洋人が多く集住する貞洞へ移転し、そこに洋館を建設した。

 



 アメリカ・イギリス・ロシアが敷地・建物を買収して公使館としたのに対し、フランスは租借地に公館を置いていた。そのため保護国化・併合を経て外交機能が縮小すると、貞洞公館を放棄し、1910年10月、中林洞チュンニムドン薬峴ヤッキョン聖堂に近い蛤洞ハプドン30番地(閔泳煥ミニョンファン旧所有地)を取得して領事館を移転した。
 ここが現在の駐韓フランス大使館の所在地である。

 

 

 フランスが手放した旧領事館敷地と建物は、西大門普通学校として利用された。

 1926年当時、本写真に写る建物は同校の校舎として使用されていたことになる。1930年代半ばまで校舎として使われた後、フランス公使館当時の洋館は老朽化により解体された。

 大韓民国成立後は西大門国民学校となったが、1973年、児童数減少により廃校となり、跡地には昌徳チャンドク女子中学が斎洞チェドンから移転して、今日に至っている。

 

 


これまでブログに書いてきた、1924年の『東亜日報』に掲載された 「わが街の名物(내동리名物)」の解説と蘊蓄😃を一冊の本にまとめました。
Kindle版電子書籍(サンプル版あり)に加え、紙のペーパーバック版もあります。
『京城とソウル: 東亜日報 わが街の名物』一松書院
https://amzn.asia/d/047RQZ4C

Photograph of Koreaに、1920年頃とされる貞洞チョンドンの写真がアップされている。

Photograph of Korea

 

当時の貞洞とその周辺の状況を見ていきたい。

中和殿チュンファジョン
徳寿宮の正殿にあたり、国家儀礼や公式行事が行われた建物。大韓帝国期、高宗コジョン皇帝が徳寿宮トクスグンを皇宮として整備する中で中枢施設となった。

中和門チュンファムン

石造殿ソクジョジョン
大韓帝国期に高宗皇帝が近代国家の象徴として西洋式宮殿の建設を命じ、イギリス人建築家ハーディング(J. H. Harding)が設計。1900年頃に着工したが、政治情勢の変化や財政難などで工期は長期化し、日韓併合の年の1910年に完成した。

大漢門テハンムン
もとは「大安門テアンムン」だったが、1906年に「大漢門」の扁額を掲げた。

惇徳殿トンドクジョン
1902〜03年に徳寿宮に建てられた西洋式の迎賓施設。高宗皇帝が外国使節の接遇や宮中行事に用いるため整備し、近代化を象徴する建物の一つだった。
1907年、惇徳殿の窓際に立つ高宗・純宗スンジョン英親王ヨンチンワン李垠イウン)の写真が残っている。

1919年に高宗皇帝が亡くなると放置状態となり、1920年代半ばに撤去された。
2023年に建物が復元され一般公開されている。

⑥ 旧・大韓帝国度支部タクチブ(旧庁舎)
朝鮮総督府期には財政・会計・税務系官庁として使用された。現在のソウル市議会別館の位置にあたる。

⑦ 旧・大韓帝国度支部新館(増築庁舎)
1910年の韓国併合後、中枢院の庁舎として使用された。現在のソウル市庁西小門ソソムン別館の位置にあたる。
※ この⑥・⑦の度支部庁舎については、国家記録院「日帝時期建築図面」コレクションに図面が残っており、3D復元も公開されている。

⑧ 惇徳殿北側/璿源殿ソヌゥオンジョン跡と海印寺ヘインサ中央布教所
惇徳殿の北側には璿源殿があった。璿源殿は朝鮮王室の歴代王の御真(肖像画)を奉安し、祭祀も行った殿舎である。韓国併合後、璿源殿は縮小・整理され、1910年代後半、海印寺住持の李会光イフェグァンが「海印寺中央布教所」名義でこの敷地を取得した。さらに璿源殿の永成門ヨンソンムンを撤去した跡地に仏教施設を建設し、1920年12月に「入仏式(開所・開堂式)」を行っている。


位置関係からみて、この⑧の瓦屋根の建物は「海印寺中央布教所」である可能性が高い。

⑨ アメリカ領事館
1883年5月、初代アメリカ公使フートがソウルに着任した。英語通訳を務めた尹致昊ユンチホの仲介により、閔啓鎬ミンギョンホ閔泳敎ミンヨンギョの邸宅を購入して公使館とした。
1905年の第2次日韓協約(乙巳条約)により大韓帝国は外交権を失い、アメリカ公使館は閉鎖され、京城では領事業務のみを行う領事館となった。

⑩ イギリス領事館
イギリスは1885年5月、申櫶シンホンの邸宅を購入して公使館を開設した。1890年には韓屋を撤去して洋式建物に建て替え、この建物は現在もイギリス大使館敷地内に残っている。
アメリカ同様、1905年以降、京城では領事業務のみの体制となった。

 

⑪ ロシア領事館
ロシアは1884年に貞洞の高台にあった徳寿宮の庭園地を購入したが、資金難のため建物建設は中断した。1888年にウクライナ人建築士サバチンを雇い入れて設計・施工を進め、1890年に竣工した。

1904〜05年の日露戦争期には閉鎖されたが、ポーツマス条約以降、領事業務を再開したとみられる。しかし1917年のロシア革命によって帝政ロシアが崩壊し、その後は京城での領事館機能も維持困難となった。
1922年にソビエト連邦が成立した後も、日ソ間に外交関係がなかったため、京城での領事業務は再開されなかった。  

慶煕宮キョンヒグン跡地の区画整理
慶煕宮の跡地は区画整理が進んでいる。1933年の『京城市街図』では「官舎」と表記されており、総督府官舎が建てられる前の様子と考えられる。。

⑬ 京城中学校
1910年に慶熙宮の跡地に校舎が完成した。

⑭ 慶熙宮崇政殿
京城中学の校地内には、慶熙宮の正殿だった崇政殿スンジョンジョンが残され、1924年まで京城中学の施設として使用された。1926年に大和町3丁目の曹渓寺チョゲサ(現・東国トングク大学付近)に移築された。

興化門フンファムン
本来は慶熙宮の正門として崇政殿の前に立っていたが、1915年8月に道路工事を理由に京城中学敷地の南側(塀沿い)へ移築された。

その後、1932年に奨忠壇チャンチュンダンに新築された博文寺の正門とするため再移築された(現在のホテル新羅シルラ正門の場所)。1988年に慶熙宮の入口として復元された。ホテル新羅の入口にはレプリカが残された。

⑯ 第一高等女学校(第一高女)
この場所には1922年4月に高等女学校(第一高女)が南山町(後の南山小学校)から移転してくるが、この写真では、まだ校舎建設が本格化している様子は見えない。

 忘憂里マンウリ墓地といえば、浅川巧の墓があることで知られている。だが、実はここには、もう一人日本人の墓がある。斎藤音作の墓である。

 

 

 斎藤音作(1866–1936)は、統監府時代の1909年以降、朝鮮における林業行政の中枢に関わり、林野の実態把握と管理体制の構築を主導した林業官僚・技術者である。林籍調査を通じて朝鮮半島全域の森林資源を把握し、朝鮮総督府による林業政策の基盤を整えた。1918年に官職を離れた後も、林業経営や調査事業の指導・助言を行い、実務面から朝鮮林業に関わった。敬虔なクリスチャンとして禁酒や社会運動なども実践した。1936年、京城で急性肺炎により没し、忘憂里墓地に葬られた。
※斎藤音作の詳細については『原四郎と朝鮮』参照

 

 浅川巧もクリスチャンだったが、浅川の墓は朝鮮式の土饅頭式であるのに対し、斎藤の墓はカロート(納骨室)の上に墓石を置いた、日本ではごく一般的な形式の墓である。ただ、十字架の刻まれたその墓石には、前面と側面に弾痕のような跡が複数残っている。

 

 

 以前から気になっていたのは、朝鮮戦争の際、この忘憂里一帯で戦闘があったのかどうか、という点だった。もし実際に戦闘が行われていたのなら、墓石の傷が弾痕であることははっきりする。しかし、それらしい資料には行き当たらないままだった。

 

 今回、『6・25戦争史 6 仁川上陸作戦と反撃作戦』に収録されている「ソウル市街地戦闘」という作戦図を見つけたことで、状況がかなり見えてきた。

 

 

 1950年9月15日、国連軍は仁川インチョンに上陸し、9月20日には漢江ハンガン下流方面で渡河し、西側からソウル奪還を進めていった。9月25日には、米軍第7師団第32連隊が銅雀洞トンジャクドンから西氷庫ソビンゴ方面へ、韓国軍第17連隊が新沙里シンサリから漢南洞ハンナムドン方面へと、それぞれ漢江を渡った。韓国軍第17連隊の任務は、ソウルから東北方向へ敗走する北朝鮮人民軍の退路を遮断することだった。

 

 その過程で、17連隊は忘憂里方面へ進出し、ここで人民軍と交戦した可能性が高い。米軍の公式資料である X Corps(第十軍団)Operation CHROMITE After Action Report(1950年10月)には、9月27日の状況として、

To the east of SEOUL, the 17th ROK Regiment continued mopping-up operations
(ソウル東方において、韓国軍第十七連隊は掃討作戦を継続した)

という記述がある。この記述を先の作戦図と突き合わせてみると、1950年9月27日前後、韓国軍第17連隊第1大隊が、忘憂里墓地付近でソウルの東北側に敗走する部隊の退路を確保しようとする北側の人民軍部隊と交戦していたと考えられる。

 

 そう考えると、斎藤音作の墓石に残る傷は、朝鮮戦争期の戦闘によって生じた弾痕である可能性が高い。忘憂里墓地を見渡しても、斎藤の墓以外に同程度の大きさの墓石は見当たらず、弾痕とみられる損傷が確認できるのは、今のところこの墓だけである。

 人民軍と韓国軍が交戦するなかで、墓地一帯にも銃弾が飛び交ったと考えれば、墓石が損傷を受けたとしても不自然ではない。少なくとも、これらの傷を朝鮮戦争時の弾痕とみることは、十分に成り立つ解釈だろう。

 もっとも、日本人の墓であることを意識したうえで、誰かが意図的に銃弾を撃ち込んだ可能性も、完全には否定できない。日本人が朝鮮半島を去ってから五年後、同じ民族同士が銃口を向け合う戦争のただなかで、行き場を失った怒りや苛立ちが、象徴的な対象へと向かったとしても不思議ではない。

 墓石に残った傷跡からは、忘れられがちな「戦場としての忘憂里」だけでなく、日本の侵略の置き土産と分断の不条理が、静かに浮かび上がってくる。