一松書院のブログ

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ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 広島市内、相生橋のたもと。1945年8月6日、被爆して動けなくなった第二総軍教育参謀・李鍝イウ中佐がここで発見されたとされる。1970年に建設され、1999年に平和公園内の現在位置に移設された韓国人被爆者慰霊碑の斜め対岸に当たる。

 



 李鍝の夫人・朴賛珠パクチャンジュは、1963年11月に来日して、陸軍士官学校45期慰霊祭に出席し、李鍝の死亡後に自決した御附武官・吉成弘中佐の夫人・吉成まきのとも面会している。

 

 

 この時、11月7日に広島を訪れ、亡き夫・李鍝のゆかりの地を巡り、相生橋で献花した。

 

 

 李鍝は、高宗皇帝の息子・李堈 イ   ガンの次男として1912年11月15日に生まれた。1907年に即位した純宗皇帝と、その弟で皇太子の李垠イウンは、叔父にあたる。ここで、李鍝の位置関係を整理しておく。

 

 

 高宗の父・李昰応イハウンは、息子が国王に即位したことで大院君テウォングンの称号が与えられ、その居宅・雲峴宮ウニョングンは権力の中枢の一つとなった。

 

 時は流れ、大韓帝国は日本に併合され、1917年には、大院君の孫で雲峴宮の当主だった李埈鎔イジュニョンが47歳で死去した。李埈鎔には跡継ぎの男児がいなかったため、その従弟に当たる李堈の次男・李鍝を養子として雲峴宮を継がせた。

 

 李鍝は、養子となった時には満4歳だった。鍾路チョンノ小学校に入学したが、1921年4月に日本に送られて学習院初等科に転校した。李堈の長男で、李鍝の兄・李鍵イゴンも日本に送られ、下渋谷常盤松の皇室所有地に住まいがあった。1925年には李鍵の邸宅の隣に李鍝の別邸が建てられた。その後、李鍝は、陸軍中央幼年学校を経て、1933年に陸軍士官学校(45期)を卒業した。

 


 

 1928年、李垠とその妻・方子マサコ(梨本宮方子)夫妻が欧州旅行から神戸に帰国した際の写真が、1928年4月10日付『朝日新聞』に掲載されている。

 

左から、李鍝、李堈、李垠、方子、徳恵、梨本宮夫妻
 

 神戸で撮られたこの写真で、李堈・李垠・徳恵トッケが高宗の子供、李鍝はその孫にあたる。兄の李鍵は、この時、習志野馬術大会出席のため神戸には来なかった。

 

 韓国併合後、朝鮮の王族・公族とその子弟の多くは朝鮮から切り離され、日本内地に居住させられた。さらに、李垠、徳恵、李鍵はそれぞれ日本人と結婚することになった。ただ、李鍝だけは日本人との結婚を拒み、1935年に朴賛珠と結婚した。朴賛珠の祖父は朴泳孝である。

 

 朴泳孝(1861-1939)は、朝鮮末期から大韓帝国期にかけて活動した開化派の政治家であり、日本と深い関わりのある人物だった。甲申政変(1884)では日本の支援を背景に政権掌握を試みて失敗し、金玉均らとともに日本へ亡命した。その後政界に復帰し、親日的立場から改革を志向した。韓国併合後は伯爵に列せられ、日本統治体制のもとで活動した。李鍝が、朝鮮人の朴賛珠と結婚することに難色を示す日本側要人もいたが、朴泳孝もその説得に動いたという。

 

 李鍝と朴賛珠の新婚生活は下渋谷常盤松の別邸で始まり、李清イチョン李淙イジョンの二人の子供も東京で生まれた。

 

 

 李鍝は、1944年3月に北支那方面軍第1軍司令部の参謀将校として中国の山西省太原へ転出し、1945年6月10日に広島の第二総軍の教育参謀として着任した。広島への移動の際には、雲峴宮に立ち寄っている。

 

 1988年に中国放送が制作したドキュメンタリー「民族と海峡」で、李鍝公家公子、すなわち李清と淙の養育係だった金子鎮枝は、この時のことを次のように回想している。

とても、運動なさったんです、京城の師団に留まるように。当時、李鍝公殿下は頭がよくてしっかりなさっていて、朝鮮と日本がこうなっているということは、気持ちがおすみにならないわけだったんですね。で、なんとなしに陸軍の方でそれを恐れていたんですね。事務方もね、その懸念を持っておりましたからね。反対して猛運動をやったらしいんです。京城の方で、やっぱりおばあさま方が猛運動をやってらしたんですけど、阿部総督がこちらについてますからね… で、とうとうこっちへ(広島)へいらしたわけで。京城にいらっしゃったら、あの方は大統領にもなっていらっしゃいましたよ。妃殿下は、さぞ無念でいらっしゃるでしょうと思って…

 ちょっと、歯切れは悪いが、日本側では李鍝の考え方に民族主義的傾向があるのではと警戒感をもっており、朝鮮には配属しない意向だったことが感じられる。養育係の金子鎮枝が京城にいたということは、6月には朴賛珠と二人の息子・李清と李淙は、空襲の激しい東京を離れ、比較的安全と見られた京城の雲峴宮へ移っていたのであろう。

 

 そして、8月6日、李鍝は広島で被爆した。広島市編纂の『広島原爆戦災誌』第2巻(1971)には、このように記載されている。

 宇品の暁部隊内で被爆した竹中泰軍属が、鷹匠町の自宅の安否をたずねて帰り、途中、憲兵にとがめられながらも、午後12時40分、相生橋西詰に到着した際、同西詰北側で、被爆してうずくまっている李鍝公殿下(第二総軍教育参謀)を発見した。「君は軍の者か、町の者か?」と、殿下に問われた。「町の者です。家を見に帰るところです。」と、竹中軍属は答えた。「よう生きて帰ったね。俺は、今朝、やられたんだ。李鍝公という者だが、どうか憲兵隊に連絡を取ってくれないか…」と、頼まれた。
 李鍝公殿下は、顔から胸に火傷し、上衣は吹き飛ばされて、力なさそうであった。竹中軍属は、ともかく此処ではいけないと考え、殿下を背負い、本川国民学校東側の川沿いの道に面した防空壕(2畳敷位)に運んだ。殿下は16、7貫の巨体であるうえ、手は火傷してズルズルになっていたから、壕内に運びこむのも一苦労であった。
 竹中軍属は、連絡しようにも誰もいなくて困ったが、3時半ごろ、十日市派出所の負傷した巡査が歩いて来たので、これに連絡方をたのんだ。巡査は引返して、派出所が埋蔵していた油を持って来て、応急手当をした。そのうち4時半ごろ、軍人が通りかかったので、これに連絡することができた。
 この連絡により、宇品の暁部隊の舟艇が川をのぼって来て、殿下を収容した。
 宇品の凱旋館に収容され、軍医の診察を受けたときの状況については、佐伯司令官の記録(外傷見られずとある。)にあるが、そこから似ノ島の収容所に転送後、翌7日午後4時過ぎに逝去された。

 李鍝公殿下は、朝鮮王最後の王世子李垠殿下の甥にあたり、当時、古田町高須の前田別荘に約3か月滞在中、第二総軍司令部へ出勤途上において被爆したのであるが、このとき、猫屋町の憲兵分隊(光道国民学校内)動務の柳田博憲兵准尉は、李鍝公殿下の護衛憲兵を勤めていた田辺憲兵軍曹が、馬に跨がったままで、相生橋から約500メートル先の十日市町電車停留所付近の倒壊民家の前で死んでいる現場を、7日に確認し、その死体を収容した。
 李鍝殿下の死去にあたり、お付武官吉成弘中佐はその責任を感じ、殿下の病室の前の芝生に正座して、ピストルで殉死したと言われる。殿下の遺骸は総軍の飛行機で、京城の自邸朴賛珠妃殿下のもとに届けられた。ちなみに、昭和38年11月7日、朴賛珠夫人が来広せられ、相生橋上から、川に花束を投げて、故殿下の冥福を祈られた。

 李鍝の遺体は、防腐処理を施されて広島市南部の吉島飛行場(現在の中区光南)から京城に送られた。8月8日午前11時40分、汝矣島の京城飛行場に到着した棺は、南大門・朝鮮総督府を経て雲峴宮に安置された。

 

 この時の様子を前出の金子鎮枝はこのように回想している。

御遺骸が着く日ですか、お迎えに行って帰ってらしたんです。そしたら、嘘だろうって本当のこと聞かしてくれって言って、むこうでお嘆きになってらしたんですって。ずいぶんやっぱりその時にはね、悲しそうにしてらっしゃいました。お帰りになった時に、私に抱きついてね、本当かって。何遍も何遍もおっしゃいましたね。嘘なんだろう。嘘ではございませんと申し上げましたけど、なんとも言いようがなかったです。お子様は、お子様でね、私にへばりついてましてね。おもう様はね、お星様におなりになったんだって、っておっしゃるんですね。なんてお慰めしていいかわかりませんでした。

 葬儀は、8月15日午後1時、東大門の京城運動場で陸軍葬として行われた。正午からのポツダム宣言受諾の「玉音放送」の直後であったが、予定通り執り行われた。朝鮮総督府は、すでに8月11日には敗戦に備えて内々に準備に着手していた。8月14日の夜の23時過ぎには、翌日正午に放送予定のポツダム宣言受諾に関する天皇の読み上げ原稿の全文が同盟通信社京城支局に電話送稿で東京から届いた。従って、総督府や軍の上層部は、李鍝の陸軍葬の時には、日本の敗戦が周知された後のことだと分かっており、葬儀の準備はそれを前提に淡々と進められていた。

 

 葬儀の前日の8月14日、朴賛珠は、自決した吉成弘の妻・まきのに、「戦死を悼む」と電報を打った。まきのは、李鍝の被爆死は新聞報道で知ったが、夫の生死については知らされずにいた。吉成弘の自決を知った朴賛珠が、京城から大分の宇佐のまきのに一報を入れたのである。

 その後、朴賛珠と子供達は、下渋谷常盤松の別邸に戻ることはなかった。

 

 日本の敗戦によって、植民地統治体制は解体されたが、旧王家の管理を行う「李王職」は米軍政のもとでも存続した。1948年7月、大韓民国の建国に先立って米軍政長官のディーン少将の命令書で「雲峴宮」の所有者は李鍝・朴賛珠夫妻の長男・李清であることが確認された。しかし、大韓民国の国務会議は、1949年2月に「旧王宮財産処分法案」を制定し、「旧王宮財産は国有とする」と定めた。ただし、「旧王族の生計維持上必要な財産は、大統領令の定めるところにより、王族に譲与することができる」とされた。雲峴宮に関する権利関係も微妙になった。

 

 ここで朝鮮戦争が勃発した。戦争中、朴賛珠は二人の息子を連れて釜山プサンに避難した。その避難先の釜山での出来事を、息子の李清が1991年12月11日付の『東亜日報』のインタビューで、このように回想している。

インタビュー:大院君5代宗孫 李清氏

(前略)

 解放後に制定された旧皇室保護法によって旧皇室の財産すべてが国有化されたが、雲峴宮だけは除外された。
「母が釜山避難時代に、政府の要人だけでなく、国会議員全員を訪ねてまわり、雲峴宮は大院君の私邸であると訴えました」その結果、国会で、雲峴宮は旧皇室が所有していたものかどうかを問う投票まで行われ、150対8で雲峴宮は私有財産であると認められた。

 雲峴宮では、先代の李埈鎔の未亡人、それに先々代の李載冕の未亡人が暮らしていた。朴賛珠は、二人の息子を育てながら、二人の未亡人の生活を支えなければならなかった。そのため、大韓民国建国前後に、興宣大院君が持っていた石坡亭(現在の付岩洞所在)や、雲峴宮の洋館と付属の土地を徳成学園に売却している。現在の徳成女子大学鍾路キャンパスがそれである。また、雲峴宮の北側の一画で「雲峴宮礼式場」を営業したり、映画スタジオを計画していた東苑映画社と10年間の賃貸契約を結んだりした。さらに、「雲峴観光開発株式会社」を立ち上げて、李載冕・李埈鎔・李鍝が葬られている楊州郡和道面の墓所に隣接する公園墓地「牧蘭公園墓地」の造成・分譲にも乗り出した。

 

 大韓民国の初代大統領の李承晩は、朝鮮王朝の王家と同じ全州李氏ではあったが、遠い分家の末流であり、もともと共和主義者で、王制を嫌っていた。高宗・純宗につながる関係者に対しては、彼らが日本と深い関係を持っていたこともあり、冷淡だった。国籍の回復や帰国についても、これを認めなかった。

 

 1960年の4・19学生革命で李承晩政権が倒れ、その翌年、5・16クーデターで実権を握った国家再建最高会議の議長朴正熙は、李垠夫妻や徳恵の国籍回復や帰国について、1961年7月に東京の韓国代表部を通じて受け入れの意向が伝達された。11月、朴正熙が訪米する際、当時の日本首相・池田勇人の招きで日本に立ち寄り、迎賓館で方子夫人と面談して、旧王族・公族の関係者の韓国帰国問題が動き出した。

 

 まず、徳恵の韓国帰国の手続きが始まり、翌1962年1月の帰国が決定した。この徳恵の出迎えの使者として、1月16日に来日したのが朴賛珠と次男の淙であった。1月26日に、統合失調症で闘病中の徳恵は羽田空港からソウルに帰国した。

 

ノースウエスト機で金浦空港に到着しタラップを降りる徳恵翁主。横に付き添うのは七寸の甥・李海善 

 

 同じ1962年の6月13日には、墓参を名目として李方子と息子の李玖夫妻が韓国に一時帰国した。夫の李垠は東京で病床にあり、李垠の帰国の下準備のための渡航だった。この時も、朴賛珠が空港出迎え、尹大妃(純貞孝皇后)との再会、朴正煕議長の接見などで李方子に寄り添っていた。

 



 そして、その翌年、1963年11月に朴賛珠は再び来日した。この時に、冒頭に書いたように、陸軍士官学校45期の慰霊祭に出席して、李鍝の死亡後に自決した御附武官・吉成弘中佐の夫人・吉成まきのとも会った。そして、11月7日に夫・李鍝の死後初めて広島を訪れたのである。

 

 広島から東京に戻った朴賛珠は、11月16日に東京から韓国に戻り、同月22日の李垠夫妻の帰国を発表している。



 

 11月22日、病床のまま李鍝(英親王)と、方子夫人、息子の李玖が韓国に帰国した。

 

 

 徳恵の帰国、そして李垠・李方子夫妻の帰国という一連の動きの中で、朴賛珠は重要な役割を果たしていたことが分かる。行動力に富んだ人物であったと言える。

 

 その後、朴賛珠は広島にも行っておらず、韓国内での被爆者団体の集まりにも一切顔を出していない。

 李垠・方子夫妻の帰国の下準備で東京を訪れた1963年11月が最後の機会だと考えて広島に行ったのであろう。

 

 「雲峴宮」の当主の李清は、1990年にアメリカから韓国に帰国して、ソウル市に「雲峴宮」の売却を申し出た。ソウル市議会では反対論、慎重論が強く、一旦は保留されたが、1992年になって買い入れが決定された。

 

 朴賛珠は、北阿峴洞ブクアヒョンドンに邸宅を購入して李清夫妻と暮らしていたが、1995年7月13日に死去した。


 1994年に広島の中国放送が朴賛珠のインタビューを申し入れたが、応じなかった。代わりにインタビューを受けた李清は、次のように答えている(1994年03月21日放送「抗日 日韓併合のかげに」)。

 

広島には行きたくないですね。土も踏みたくない。行くとすれば、家族の眠るお墓に行きます。

 

 そして、復元された「雲峴宮」は1996年10月25日に一般公開された。

 

 


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 2026年3月21日、BTSのコンサートで多くの人が集まった光化門クァンファムン広場。

 

 

 韓国の文化遺産を世界に発信する象徴的な場所であると同時に、この広場は、現代史の節目ごとに人々が集い、その時代の鼓動を刻んできた場でもある。

◆大韓民国の建国(1948年8月15日)

 

 この日、制憲国会が開かれた旧朝鮮総督府庁舎前で、大韓民国政府樹立の国民祝賀式が行われた。大統領に選出された李承晩イスンマンは、国内外に政府樹立を宣言。同日深夜零時をもって米軍政から統治権が移譲され、大韓民国が成立した。

 

 朝鮮総督府庁舎建設時(1926)に景福宮キョンボックン東側へ移設された光化門は、この時点ではまだ正面に戻っていない。祝賀式には世宗路セジョンノに十数万人が集まったとされる。

◆ジョンソン・アメリカ大統領訪韓(1966年11月)

 

 当時、韓国は米国の要請に応じてベトナム戦争に大規模な戦闘部隊を派遣していた。ジョンソン大統領の訪韓は、この派兵に対する米国の謝意を示すとともに、朴正煕パクチョンヒ政権への支持を内外に示すものであった。

 

 到着当日、金浦キムポ空港から市内に入ったジョンソン大統領夫妻は、ソウル駅前、市庁シチョン前広場での歓迎集会を経て、中央庁チュアンチョン(旧朝鮮総督府庁舎)までパレードを行った。沿道には延べ200万人の人出があったとされ、世宗路も統率された歓迎人員で埋め尽くされた。

 

 世宗路の西側部分には路面電車の線路があったが、ジョンソン大統領訪韓前に急遽アスファルトで埋められ、その後は緑地帯になっていた。

 

映画「미워도 다시한번」(1968) より

 


 その後、この緑地帯は削られ、世宗路は片側7車線、上下14車線の大通りとなり、歩行者は地下道へと追いやられていく。

 

 

 1970年代から80年代にかけての大規模集会は、汝矣島ヨイドの5・16広場が主な舞台となる。

 

 光化門前の歩道が人で埋め尽くされたのは、1979年、朴正煕大統領の国葬であった。

◆朴正煕大統領国葬(1979年11月3日)

大韓ニュース 第1264-5号-故 朴正煕大統領 国葬

 

 中央庁前広場での告別式は数十万人規模とされ、葬送行進の沿道には延べ100万人規模の人出があったと報じられている(政治的誇張の可能性あり)。

 

 この後、世宗路が大規模な人波であふれかえることは少なくなるが、それに替わって市庁前のロータリー(2004年までは交通の要衝)が、新たな集会空間として機能するようになる。

 

◆市庁前広場 李韓烈イハンヨル君の葬礼(1987年7月9日)

 

 全斗煥チョンドゥファン政権末期、次期大統領選挙を間接選挙で行おうとする動きに対し、直接選挙を求める声が高まっていた。

 その中で、ソウル大学生・朴鍾哲パクジョンチョル君が南営洞ナミョンドン対共分室での拷問により死亡。さらに6月9日、延世ヨンセ大学前で戦闘警察の催涙弾が李韓烈君の後頭部を直撃した。李韓烈君は、7月5日に死去し、9日に民衆葬が行われた。

 

映画『1987』エンディング・ロールより

 

◆旧朝鮮総督府庁舎の撤去(1996年8月)

1995年3月1日 3・1節セレモニー

 

KBS 旧朝鮮総督府庁舎の本格的撤去始まる(1996.08.20) 


 1995年、金泳三キミョンサム政権は、光復50周年事業の一環として、植民地支配の象徴とされた旧朝鮮総督府庁舎の撤去を決定した。負の遺産の文化財としての保存を求める声も一部にはあったが、解体工事は翌年8月に着手され、1996年末までに完全に撤去された。

 

◆市庁前広場 サッカーワールドカップ(2002年6月)

KBS 市庁前24時 2002.06.22
 

 2002年ワールドカップでは、市庁前広場に多数の市民が集まり、街頭応援が展開された。韓国代表戦の日には赤い服の人々が広場を埋め、数万から数十万人規模に達した。

 

 大型スクリーンを囲み、歓声とため息が一体となる空間が生まれ、見知らぬ人同士が自然に連帯する場ともなった。この時、市庁前広場は「同じ時間を共有する場」となっていた。

◆米軍装甲車による女子中学生轢死事件(2002年12月)

 2002年6月13日、京畿道楊州キョンギドヤンジュで女子中学生二人が米軍装甲車に轢かれ死亡する事件が発生。当初は散発的な抗議にとどまっていたが、11月20日の米軍軍事法廷で無罪判決が出ると反発が一気に拡大した。

 

 11月下旬からろうそくデモが始まり、12月上旬から中旬にかけてピークに達する。抗議は光化門一帯にも広がり、世宗路や在韓アメリカ大使館前が主要な舞台となった。

 

 その最中の12月19日、大統領選挙が行われ、盧武鉉ノムヒョン候補が当選した。

◆盧武鉉の弾劾反対デモ(2004年3月)

 
 2004年3月12日、国会は盧武鉉大統領の弾劾訴追を可決。これに対し市民は強く反発し、光化門一帯でろうそくデモが連日展開された。
 
 
 集会は数万人規模に拡大し、民主主義擁護の意思表示の場となる。5月14日、憲法裁判所は弾劾を棄却し、大統領は職務に復帰した。

◆アメリカ産牛肉輸入反対(2008年5月)

 

 2008年4月18日、李明博イミョンバク政権が米国産牛肉輸入再開でアメリカと合意。これに対する不安から、5月2日に初のろうそく集会が開かれる。

 

 5月10日以降は連日開催となり、6月10日には大規模デモに発展。当初は平和的な抗議だったが、警察のバリケード設置や強制排除への反発から衝突が増え、次第に過激化した。

KBS 週末 市庁前広場”1泊2日”ろうそく集会(2008年6月28日)

 政府が6月19日に再交渉方針を示すと、7月以降は徐々に沈静化した。

朴槿恵パククネ弾劾要求ろうそくデモ(2016年10月29日〜)

 2016年10月24日、崔順実チェスンシルの国政介入疑惑が報じられると、10月29日に最初のろうそく集会が開かれた。

 

 以後、週末ごとに光化門一帯で集会が続き、11月12日には約100万人規模に拡大。要求は疑惑解明から大統領退陣へと変化し、抗議は全国に広がった。ソウルでのろうそくデモは、光化門前から青瓦台の近くにまで進出して展開された。

 

 

KBS 最初から6回目まで…ろうそくデモはこのように広がった(2016.12.04

 

 12月9日に国会が弾劾を可決し、2017年3月10日に憲法裁判所が罷免を決定するまで、平和的な大規模デモが継続した。

 


 

 2020年11月、世宗路の車道縮小と広場化工事が開始され、2022年8月6日、新たな光化門広場が開場した。

 

KBS 公園と一体化した光化門広場、1年9か月ぶりにオープン(2022.08.06)

 そして2024年12月3日夜、尹錫悦ユンソギョル大統領(当時)による非常戒厳令宣布以降、光化門広場は罷免要求とそれに反対する勢力の集会が毎週繰り返される場となった。
 
 

 こうして見ていくと、光化門という場所は、単なる都市空間ではないことが分かる。国家の成立を祝う場であり、権力を可視化する舞台であり、またそれに抗する民衆の声が噴き出す場所でもあった。

 車道に押しやられ、地下へと追いやられた歩行者は、やがて再び地上へ戻り、この広場を取り戻した。祝賀、弔い、抗議――そのすべてを受け止めてきた光化門は、まさに韓国現代史そのものを映し出す鏡である。

 


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  •   ◆ 孫・南両選手の掲載写真
  •   ◆ ニュース映画入手と上映計画
  •   ◆ 日章旗抹消の決断
  •   ◆ 府民館上映会と発行停止処分
  •   ◆ その後の上映と拡散

 

◆孫・南両選手の掲載写真

 ベルリンオリンピックのマラソン競技は、現地時間1936年8月9日午後3時にスタートした。日本や朝鮮では同日午後10時である。日付が変わって孫基禎ソンキジョンがトップでゴールし、その競技結果が世界中に配信されたが、日本や朝鮮では8月10日の朝刊には間に合わなかった。

 

 『東亜日報』は8月10日に号外を出し、孫基禎の金メダルと南昇龍ナムスンニョンの銅メダルを速報した。

 

 

 マラソン競技当日の写真はまだない。3日後の8月13日付の紙面に、表彰台上の孫基禎と南昇龍の写真が掲載された。

 

 

 呂運亨ヨウニョンが社長をしていた『朝鮮中央日報』も、8月13日付の紙面にこの写真を掲載している。呂運亨は朝鮮人スポーツ選手の育成に尽力しており、孫基禎と南昇龍の活躍をいち早く報じた。

 

 ベルリンオリンピック開幕を半年後に控えた3月、無線国際回線を利用する写真電送について、双方が自国製の電送装置をベルリンと東京に設置することで、日独政府間の合意が成立した。これによって、14〜20分程度で写真を送受信することが可能になっていた。

 『東亜日報』と『朝鮮中央日報』が掲載した写真は、『朝日新聞』が8月11日付朝刊に「伯林、東京無線電送写真=11日午前1時10分(日本時間)同盟特派員発」として掲載したものを転載したものである。

 


 

 朝鮮総督府の御用新聞だった『京城日報』は12日の紙面に「孫選手マラソン門を入る」という同盟通信の電送写真を掲載し、民族系のもう一紙『朝鮮日報』は、15日になって、やはり同盟通信が電送した「마라손決勝線에 드러오는孫基禎君(マラソンでゴールする孫基禎君)」とする写真を掲載した。しかし、両紙とも表彰台上の写真は掲載していない。

 その後、『東亜日報』は8月25日になって夕刊に改めて表彰台上の孫基禎の写真を掲載した。13日の写真とは別の写真で、8月23日付の『大阪朝日新聞(南鮮版)』に掲載された、朝日新聞佐々木特派員撮影の写真を転載したものであった。大阪朝日新聞朝鮮版は、発行日から1日から1日半遅れで京城に届いた。

 日本語のキャプションはこうなっている。

讃へん哉、覇者の誉れ

上:頭上に月桂冠、両手に樫の鉢植、マラソン優勝者”我らの孫基禎選手” 下:マラソン門を潜つて勇躍出発する孫選手(×印)=九日、世界制覇の日【ベルリンより本社リレー空輸】

 この写真は、それまでの電送写真とは異なり、現地特派員が撮影した原板を「ベルリンより本社リレー空輸」で運んだものであったため、画質は格段によかった。ただし、この出所に関する記述は『東亜日報』のキャプションには見られない。

 

 そして、8月25日夕刊に転載されたこの写真では、孫基禎の胸の日章旗が消されていた。これが「日章旗抹消事件」として問題にされたのである。

◆ニュース映画入手と上映計画

 『東亜日報』が8月25日に『大阪朝日新聞』の孫基禎の写真を転載したのは、その前日に出されたこの社告と関係があったと思われる。


オリンピック大会映画 本報読者に提供

 「オリンピック」の幕は降りた。 その施設や規模において空前のものであり、その記録や成果においてもまた空前のものであった。

 しかし、人類二十億の先頭を走った我らの孫・南両勇士の歴史的制覇戦を実際に誰が見ることができたであろうか、栄光の月桂冠を勝ち取った選手の勇ましい躍動を目の当たりにした者がいったい何人になるだろうか。 電波がその音声を伝え、活字がその記録を物語ったとはいえ、激戦の快絶壮絶の実際の様子を見ることができないのは大きな遺憾事と言わざるを得ない。

 本社はこれを何とかしようと最善の努力を重ねた結果、ついに大会の全編実況映画を空輸によって入手することができた。本社として喜ばしいことは言うまでもない。近くこれを公開することにより、その実際の模様を天下の読者諸氏とともに価値あるものとして鑑賞できることを思うと、さらなる喜びに堪えない。

 さあ、来たれ。拍手しよう、感激をもって。

 上映日時・場所は追って発表する。

社告 東亜日報

 ベルリンオリンピックのニュース映画フィルムの上映会を『東亜日報』購読者限定で行うという予告である。「最善の努力を重ねた結果…全編実況映画を空輸によって入手」とあるだけで、撮影・編集・配給などの情報は一切示されていない。さらに、上映の日時や場所も、この時点では決まっていない。すなわち、入手が困難と思われていた映画フィルムが、一転して上映可能になったことを意味する。

 上述のように、ベルリンオリンピックでは無線回線による写真電送が実現し、競技写真を翌日の東京の紙面に掲載することが可能となった。京城では1〜2日遅れの掲載となったが、それまでにないスピーディーな写真報道が可能になっていた。

 それに加えて、朝日新聞社はドイツのニュース映画社UFA社(Universum Film AG)と提携し、UFA社が撮影・編集したニュースフィルムを、ベルリンから航空機とシベリア横断鉄道を使って日本へ最短時間で搬入する輸送ルートを開拓した。

 

 8月1日の開会式のフィルムは、2日早朝に朝日新聞モスクワ支局長が携行してベルリンを旅客機で出発し、モスクワからヤナウールで飛行機を乗り継ぎ、4日にノボシビルスク、5日にシベリア鉄道に乗り換えて9日に満州里に到着した。ここから日本側の用意した飛行機に引き渡され、ハルビンを経て朝鮮半島上空を南下し、同日京城を経て10日午前に大阪に到着したという、当時としては驚異的なスピード輸送であった(『東京朝日新聞』1936年8月10日付)。まさに「リレー空輸」である。この最初のフィルムは、10日午後7時半から日比谷公園と上野公園で、朝日新聞主催の上映会において公開された。

 一方、毎日系の東京日日新聞や大阪毎日新聞も同様の輸送を試みたが、朝日新聞のスピードには及ばなかった。

 東京で8月10日に上映されたニュース映画は、京城では8月19日から明治町1丁目の浪花館で「朝日オリンピックニュース第1報」として公開された。「20日まで」とされていたが、「順次到着次第上映」とされ、20日以降も上映が続いていた。

 

 

 オリンピックの8日目から11日目、すなわち前畑の女子平泳ぎ200メートル決勝や、孫基禎・南昇龍のマラソンのニュース映画フィルムも同様にリレー方式で東京へ運ばれ、8月21日に日比谷公園、上野公園、さらに東京市内各所で上映された。

 

 京城の浪花館でも、東京に遅れること3日、8月24日からこの「第3報」の上映が開始された。

 ここで注目されるのが、8月28日付『朝鮮新聞』の記事である。

 

 

 浪花館で「第3報」が封切られた8月24日は、『東亜日報』が事前準備もないまま、急遽、購読者対象の上映会を予告した当日である。さらにこの記事には、浪花館での上映が「内地人側独占封切」と記されている。裏を返せば、「朝鮮人側独占封切」の存在を示唆するものでもある。

 この時間的経過と記事内容からみて、『朝日ニュース』第3報の「朝鮮人側独占封切」を東亜日報が急遽獲得したと考えることは、十分に成り立つ。

 『東亜日報』は8月25日付朝刊で、翌26日から3日間、京城府民館において1日3回、計9回の上映を行うことを予告した。26日は水曜日で、平日の3日間の上映となったが、府民館は夜間にすでに公演予約が入っていたためであろう。上映は9時半、12時半、15時半の3回で、観覧券は購読者に対し地区ごとに日時と回を指定して配布された。

 

◆日章旗抹消の決断

 そして、この日の夕刊に掲載された表彰台上の孫基禎の写真では、その胸の日章旗が消されていた。

 実は、この25日の朝刊にもベルリンオリンピックの写真が掲載されており、メダリスト3人(孫基禎・ハーパー・南昇龍)の胸の日章旗はそのままであった。

 

 それが夕刊でなぜ消されたのか。わずかな時間のうちに、掲載写真の扱いが変化したことになる。

 日章旗の抹消は、日本の植民地支配に対する朝鮮人としての鬱積した感情の発露であったことは疑いない。しかし、それは25日の朝刊までは抑制されていた。その胸中に蓄積されていた思いが、日章旗の抹消という形で表出したのは、孫基禎と南昇龍の力走、そして表彰台での彼らの姿を実際に目にしたことによるのではなかろうか。

 残念ながら、このとき上映されたUFA社制作のニュース映画フィルムは現存していない。ただし、1938年に完成したレニ・リーフェンシュタール監督のベルリンオリンピック記録映画『オリンピア(Olympia)』には、マラソンおよび表彰式の場面が残されている。UFAの映像も、おおむね同様のアングルで撮影されていたものと考えられる。

 

レニ・リーフェンシュタールのベルリン五輪記録映画のマラソン場面(抜粋版 音声なし)

 

マラソンの表彰式の場面(全 音声なし)

 

 孫基禎も南昇龍も、表彰台ではうつむき、視線を掲揚台からそらしている。その姿はきわめて印象的である。

 こうした映像、すなわち力走する姿と、表彰台でうつむく二人の姿は、前日24日から浪花館で上映されていた。

 

 浪花館は、明治町1丁目、現在はウリ銀行明洞ミョンドン支店がある場所にあった。ロッテヤング館(旧:丁字屋)側から地下道を渡って明洞に入ってすぐの左側。植民地統治下では、明治町は本町とならぶ内地人の京城一の繁華街だった。

 

 

 浪花館は、朝日ニュースのオリンピック映画の「内地人側独占封切」権があったとされるが、黄金町・清渓川の南側、松竹座・中央館・喜楽館、若草劇場などが「内地人側」で、北側の優美館・団成社・東洋劇場などが「朝鮮人側」の映画上映館であった。ただ、朝鮮人、内地人で映画観覧の場所に制限があったわけではなく、好きな映画館に行って観たい映画をみることができた。

 

 翌日から府民館での上映を予定していた東亜日報の関係者が、25日に浪花館でこのニュース映画を観た可能性は高い。内地人の観客に混じって映像を見た記者が、「日の丸は見たくない」という衝動を抱き、それを夕刊編集の段階で行動に移したと考えることは、十分に成り立つ推測である。

◆府民館上映会と発行停止処分

 日章旗が抹消された翌日、府民館での上映会は予定通り行われた。その様子を、『東亜日報』はこのように報じている。

 

驟雨の中でも観衆が押し寄せる

府民館の内外は超満員

スクリーンに再現された制覇の場面

オリンピック映画きょう上映

 期待されていたオリンピック映画は、天下の視聴者を集め、二十六日午前十時、京城府民館でその幕を開けた。

 降りしきる豪雨にもかかわらず、二千人の観衆が波のように押し寄せて極度の混雑となり、それぞれが持ってきた傘で大きな屋根のような光景をつくっていた。

 そしてスクリーンに映し出されるオリンピックの場面を人々は皆本物のオリンピックのように感じ、その一つ一つの場面に合わせて拍手や歓声が起こった。ベルリンで開かれた実際のオリンピックを目撃しているかのように、満場の観衆は息をのむほどの緊張に包まれていた。

 画面にいよいよ孫基禎君の勇姿が現れると、再び雷のような拍手と歓声が場内を揺り動かした。孫君が三十一キロ付近で、それまで先頭を走っていたザバラを抜き、飛ぶように先頭を走り始めると、「走れ、孫君!」という声が自然に爆発した。

そして孫君が優勝することを皆すでに知っていながらも、後ろから追ってくるハーパーに抜かれるのではないかと心配する婦人たちは、「ああ、追いつかれたらどうしよう」と叫び続けた。やがて最後の月桂冠が孫君にかけられると、ようやく安心した大きなため息が場内に広がった。

 府民館は満席で1,500席であったから、立ち見を含めての超満員だったのだろう。翌27日の上映会も、予告通り行われたことが『東亜日報』の記事から確認できる。

 

 ところが、8月27日午後5時、東亜日報社に対して『東亜日報』の発行停止処分が下された。処分に関する朝鮮総督府警務局長の談話は、翌28日正午になって出された。それによれば、第一に孫基禎の優勝は「日本の名誉」であり「日鮮融和」の象徴であること、第二に東亜日報は25日付紙面に掲載した写真から日章旗を意図的に消したこと、第三にそれは「非国民的行為」であること、がその理由とされた(『京城日報』1936年8月29日付)。

 

 すなわち総督府は、孫基禎の優勝が「朝鮮民族の誇り」として受け取られ、日本と朝鮮の民族対立を刺激する可能性があることを前提にしていたのである。裏返せば、それは「日鮮融和」が表面的なものにすぎないことを、みずから認めたに等しかった。

 実は、上掲の『朝鮮中央日報』が8月13日に掲載した写真でも、孫基禎の胸の日章旗が消えていた。ところが、もともと電送写真であったうえ、『朝鮮中央日報』は輪転機の性能が悪くて写真が鮮明ではなかったため、日章旗が見えないことに気づいた人はほとんどいなかった。

 

 警務局長談話の発表に先立ち、その前日の午後5時に『東亜日報』への発行停止指令が伝達された背景には、府民館に集まった朝鮮語新聞『東亜日報』の購読者たちの熱気に、当局が脅威を感じたという側面もあったのではないか。府民館での上映会では、豪雨にもかかわらず2,000人を超える観衆が押し寄せ、孫基禎の場面では大きな歓声が上がった。こうした熱狂的反応は、植民地支配者の側にとって、民族的感情の高まりを示すものと受け取られた可能性が高い。

 

 東亜日報に発行停止処分が下されると、『朝鮮中央日報』も「謹慎のため」として9月5日から自主休刊を宣言した。「自紙でも日章旗を消していた」と示そうとしたのかもしれないが、その後の経営悪化もあって復刊には至らなかった。

 

 8月28日の府民館における上映会が実際に行われたかどうかは確認できない。

◆その後の上映と拡散

 8月28日から、若草映画劇場で「東日・大毎オリムピック・ニュース」が公開された。
 また、8月26日付『大阪朝日新聞(南鮮版)』には、9月5日から府民館で5日間にわたり「オリンピック映画会」を開催するとの告示が掲載されている。

 このように、京城では8月末から9月初旬にかけて、ベルリンで力走する孫基禎と南昇龍の姿が、繰り返しスクリーンに映し出されていた。

 

 東亜日報は、孫基禎と南昇龍という二人の朝鮮の英雄の活躍を、一刻も早く多くの朝鮮人に伝えようとしたのではないか。その切実な思いと、実際の映像を目にした興奮が、過激なアピールへとつながったと見ることもできるだろう。

 

 こうして見てくると、日章旗抹消は単なる紙面上の操作だけではなく、ベルリンから届けられた映像体験と、それを受け止めた人々の感情の高まりの中で生じた出来事であった可能性が浮かび上がってくる。

 電送写真によって伝えられた情報は、まだ距離を保ったまま受容されていた。しかし、ニュース映画というかたちで「見る」体験が加わったとき、その距離は一気に縮まり、抑えられていた感情が行動へと転化したのではないか。

 その意味で、この事件は単なる新聞史の一エピソードではなく、メディアの変化が人々の認識と行動をどのように変えうるのかを示す、きわめて示唆的な事例であったと言えるだろう。

 

 

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