忘憂里の墓石に残る弾痕 | 一松書院のブログ

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 忘憂里マンウリ墓地といえば、浅川巧の墓があることで知られている。だが、実はここには、もう一人日本人の墓がある。斎藤音作の墓である。

 

 

 斎藤音作(1866–1936)は、統監府時代の1909年以降、朝鮮における林業行政の中枢に関わり、林野の実態把握と管理体制の構築を主導した林業官僚・技術者である。林籍調査を通じて朝鮮半島全域の森林資源を把握し、朝鮮総督府による林業政策の基盤を整えた。1918年に官職を離れた後も、林業経営や調査事業の指導・助言を行い、実務面から朝鮮林業に関わった。敬虔なクリスチャンとして禁酒や社会運動なども実践した。1936年、京城で急性肺炎により没し、忘憂里墓地に葬られた。
※斎藤音作の詳細については『原四郎と朝鮮』参照

 

 浅川巧もクリスチャンだったが、浅川の墓は朝鮮式の土饅頭式であるのに対し、斎藤の墓はカロート(納骨室)の上に墓石を置いた、日本ではごく一般的な形式の墓である。ただ、十字架の刻まれたその墓石には、前面と側面に弾痕のような跡が複数残っている。

 

 

 以前から気になっていたのは、朝鮮戦争の際、この忘憂里一帯で戦闘があったのかどうか、という点だった。もし実際に戦闘が行われていたのなら、墓石の傷が弾痕であることははっきりする。しかし、それらしい資料には行き当たらないままだった。

 

 今回、『6・25戦争史 6 仁川上陸作戦と反撃作戦』に収録されている「ソウル市街地戦闘」という作戦図を見つけたことで、状況がかなり見えてきた。

 

 

 1950年9月15日、国連軍は仁川インチョンに上陸し、9月20日には漢江ハンガン下流方面で渡河し、西側からソウル奪還を進めていった。9月25日には、米軍第7師団第32連隊が銅雀洞トンジャクドンから西氷庫ソビンゴ方面へ、韓国軍第17連隊が新沙里シンサリから漢南洞ハンナムドン方面へと、それぞれ漢江を渡った。韓国軍第17連隊の任務は、ソウルから東北方向へ敗走する北朝鮮人民軍の退路を遮断することだった。

 

 その過程で、17連隊は忘憂里方面へ進出し、ここで人民軍と交戦した可能性が高い。米軍の公式資料である X Corps(第十軍団)Operation CHROMITE After Action Report(1950年10月)には、9月27日の状況として、

To the east of SEOUL, the 17th ROK Regiment continued mopping-up operations
(ソウル東方において、韓国軍第十七連隊は掃討作戦を継続した)

という記述がある。この記述を先の作戦図と突き合わせてみると、1950年9月27日前後、韓国軍第17連隊第1大隊が、忘憂里墓地付近でソウルの東北側に敗走する部隊の退路を確保しようとする北側の人民軍部隊と交戦していたと考えられる。

 

 そう考えると、斎藤音作の墓石に残る傷は、朝鮮戦争期の戦闘によって生じた弾痕である可能性が高い。忘憂里墓地を見渡しても、斎藤の墓以外に同程度の大きさの墓石は見当たらず、弾痕とみられる損傷が確認できるのは、今のところこの墓だけである。

 人民軍と韓国軍が交戦するなかで、墓地一帯にも銃弾が飛び交ったと考えれば、墓石が損傷を受けたとしても不自然ではない。少なくとも、これらの傷を朝鮮戦争時の弾痕とみることは、十分に成り立つ解釈だろう。

 もっとも、日本人の墓であることを意識したうえで、誰かが意図的に銃弾を撃ち込んだ可能性も、完全には否定できない。日本人が朝鮮半島を去ってから五年後、同じ民族同士が銃口を向け合う戦争のただなかで、行き場を失った怒りや苛立ちが、象徴的な対象へと向かったとしても不思議ではない。

 墓石に残った傷跡からは、忘れられがちな「戦場としての忘憂里」だけでなく、日本の侵略の置き土産と分断の不条理が、静かに浮かび上がってくる。