| おはん改版 (新潮文庫) [ 宇野千代 ] 399円 楽天 |
人間の感情ほど、わかりにくいものはないなと思う。
宮下奈都『羊と鋼の森』の読書感想文で、わたしは「“好き”に理由なんてない」ということを書いた。「好き」のきっかけはあるけれど、それも「なんかいいなと思って」とか「ビビッときて」みたいな曖昧な感じで、いつまでもそれをうまく説明できないでいる。
恋愛の“好き”は「うまく説明できない」の極みだろう。これまで「ぜんぜんタイプじゃないんだけど、なんか好きになっちゃったんだよねぇ〜」と言った美女と野獣系カップルをたくさん目にしてきた。
「どこが好きなの?」とあの手この手で深掘りしても、相手もあいまいにほほえむばかり。そりゃそうだ、だって説明できないんだもん(つっこみまくってすみませんでした)。
美女と野獣カップルが成立してハッピーならばまだ良いけれど、桐野夏生『ロンリネス』みたいな道ならぬ恋とか、逆の場合もあるからとってもややこしい。
だって好きなのはやめられないとまらない!かっぱえびせん的なのが感情というものなのだろう。
それってなんだ。
運か。
おそらくそうなのだ。運でしかないのだろう。引き寄せの法則とかスピリチュアルなものもあるかもしれないが、たいていの感情の発露はたくさんの偶然によってもたらされている。と最近思う。
宇野千代「おはん」はそういう感情の発露をなるべく丁寧に描こうとする物語だ。
宇野千代『おはん』はひとりの男・「私」が自分の罪深さを懺悔するかたちで悲劇の顛末が語られる物語だ。
おはんは「私」の元妻で、「私」は芸妓のおかよという女に惚れ込み、おはんを捨てておかよと一緒に暮らしていた。しばらくしておはんと「私」との間に子ができていたこと、おはんは子を生み育てていることなどを聞いて「私」は懐かしくなる。
しかし「私」はおかよに生計を立ててもらっている身で、自分から会いに行くことなどどうしたってできない。しかしある日ひょんなことから偶然おはんに再会し、久しぶりに言葉を交わす。話しているうちに「私」はおはんや子どもの悟の前でいいカッコをしたくなり……。
「「なァ、あのな、大名小路の角に吉田屋て花屋があったやろ、あそこの店かりて商売してるのや。朝早うはおらんけど、昼すぎやったら、たいがい往てる。裏のおばはんにもよう話しておくけに、一ぺんあいに来てんか、」とあとさきの考えものう、いうてしもうたのでござります。
それゃもう、そのようなこというて女の気をひいたり、早ういうたら、もう一ぺんおはんと撚(より)もどして、もとの夫婦になりたいと思うたりしてたのではござりませぬ。ただその一ときの間でも、おはんの心をしずめたい、恨まれていともない、とそう思うていたまでのことでござります。
ほんに人の心ほど浅墓なものはござりませぬ。(中略)」(9頁)
え、なんでそうなるの!? としか思えない。笑
つい見栄をはっちゃう謎の男気に度肝を抜かれる。捨てた元妻でしょ……罪悪感で顔も見れないんじゃないの……?なに誘っちゃってんの……!?と大いにつっこむ(わたしが)。
けれどそれが「私」の気質なのだ。もはや説明がつかないのだ。
そしておはんが「私」のいいカッコしいなところにまんざらでもない様子なのがこれまた痛ましい……。
とにかく10頁足らずで「私」のダメ男ボルテージがMAXになるのだが、その後「私」はおかよに隠れておはんと会うようになり、まぁベタな感じでズルズル、ドロドロと最悪な方向に展開していく。
「私」はそのうちヤケクソになり、ええいどうにでもなれーい! という気持ちでおはんとの逢瀬を続ける。
しまいにはおはんともう一度きちんとやり直し、息子の悟と同居する、という話まで持ち出す始末。おはんはすっかりその気になり着々と準備を進めるものの、「私」は冷や汗ダラダラでおかよとおはんの間を往復するのだった…。
もうこれどうなんの…!?と読み手のハラハラは止まらない。
経済的に優位なのはおかよだ。芸妓として身を立てていて、親戚の娘・お仙を呼び、弟子として育て上げるほどのたくましさを持っている。おかよはお仙を「私」とおかよの実の娘のようにかわいがり、「私」にとってはどちらにも女と子がいる最悪の板挟みの状況になってしまっていた。
「私」は成り行きに身を任せ、いつか来る破滅の時を待つという時限爆弾の日々を送る。
なぜかそのときの運だけは「私」に味方し、おはんとの逢瀬がおかよにバレたり、おはんとおかよが鉢合わせしたりすることはなかったのだった。
「私」の謎の運の良さも憎らしい。
そして物語は「悲劇」の核心に迫っていく…。
予想してはいたけれど、これまた痛ましい結末で、目も当てられない。
「私」はすべての悲劇の根源で、一生罪の意識を抱えて生きていけばいいさと思うのだが、おはんのことを思うといたたまれない。
悲劇のその後はあまり語られないが、わたしはおはんが「私」から解放された物語としてポジティブに読みたいなと思う。
おはんにとって「私」は強力な磁石で、離れたくても自分の力だけではどうにもできなかったのだ。
悲劇という強力なものにひっぱられてなんとか抜け出したおはんは、「私」の言葉(この物語はすべて「私」の台詞として語られる)から抜け出して自分の道を進む。
この物語が「私」の告白によって描かれているのは、おはんの「私」からの解放を示すためだったのではないかと思う。
昭和文学の名作を、平成最後の夏に読めて良かった。
あ、平成最後の夏って言いたいだけです。
