今回は
長崎好きなのに、今までブログにしていないことがもう謀反に等しかった
長崎の総氏神
諏訪神社
…をお送りいたします
内容にかなり長崎をぶつけました
長文が苦手な方は写真だけでもどうぞ
まず鎮西と言うのは西方(西海道の九州)を鎮めると言う意味ですね☆
諏訪神社は江戸時代初期建立。
外国からの出入りが多かった長崎を守るため、
またキリシタン対策の役目もありました。→住民総氏子とし、くんちによる奉納も義務化。(長崎中心部を囲むように建つお寺の多さもそうです。)
実は諏訪神社は明治期、政府によって廃社されようとしたそうです。
何故なら、キリシタン対策の名目で江戸幕府の息のかかった神社と見なされたからだそうです。
でも諏訪神社をなくすなんて…!(=くんちも無くなる)
長崎人にとってあまりに無体

と言うことで存続出来たとか

↑まずは入り口。
一の鳥居は昔は青銅製でしたが戦時中に供出。
扁額のみ供出を免れたらしいです。
今のものはコンクリート製、継ぎ目のあるデザイン。扁額は引き続き利用。
燈籠の裏にはハシゴもあります!
黒っぽい二の鳥居(安山岩製)は市内でも古く、肥前鳥居の雰囲気をまといます。
でも肥前鳥居とは違いますね。
多少肥前鳥居の遺伝子は入っていると思いますが

↑病魔退散の大楠。と日吉社です。
木の空洞に少名彦名を祀っていたのに、浮浪者が住み着いたので、コンクリートで埋めたそう!!
もちろん浮浪者が不在中にだと思いま~す

↑石垣には町名が。
従是西(これよりにし)
大正十年
年番町寄町(?)
油屋町
下筑後町
今篭町
鍛冶屋町
西中町
東中町
豊後町
…など続きます。
(以下見ていると目が疲れます(^-^;)

↑長坂と呼ばれるこの階段は73段です!
長崎検定勉強の時、覚えないといけなかったんですよ

↑大門の中には隨身の
くしいわまどのみこと(黒袍←くろほう、黒い上着)
とよいわまどのみこと(赤袍)
通称、矢五郎サン(説明文に片仮名でサンとあり
)
とよいわまどのみことが矢五郎サン?
23代長崎奉行「牛込忠左衛門」の奉納です。
と門の中に閉じ込められた(保護されている?)ような狛犬。

↑矢五郎サンたちの裏側に唐人船(上)と御座船(下)。
くんちの演し物にありますね。
御座船はエライ人が乗る船を模したもの。
唐人船は中国人の貿易船です。
鳥の目のような模様が特徴で「鳥船」とも呼ばれます。(でも黒と白で塗られていてクジラみたい
)
私がおととし位に稲佐山観光ホテルのレストランを利用したら、この鳥船の絵を「南蛮船」として展示してありました
なので、アンケート用紙に「唐人船では?」と、書いて出しましたがどうなったんでしょう~


↑振り返ると向かい側に、亀山社中跡などがある風頭山があります。
写真には諏訪神社の五の鳥居まで写っています。
「あっちが諏訪神社。あすこ長坂から今お客さんのこっちに手ば振りよるやろ?」
と熱心に言われ、諏訪神社なのはわかったぱんだラン。
しかしガイドさんがアツく語る「手を振るお客さん」がどうしても見えなかったのです。
私が戸惑う間にも「ほら振っとるやろ?ね?」と言ってくるアツいガイドさん。
本当にそうなんだと思って
ぱんだラン「そーですね~(^^;」と適当な相づち。(゜゜;)\(--;)
ガイドさん「バカっ、見えるわけなかやろがっ( ̄▽ ̄;)」
ぱんだラン「アハハ~…そ~か~(;´∀`)
」
こんなやり取りをしました

今なら私もハッキリと「わからない」と言えます
あ、ガイドさんの「バカっ」は言われても嫌じゃない「バカっ」ですよ

↑境内です。
さざれ石。
神馬像(平和記念像や県庁の獅子像などの作者、北村西望102才の時の作です)。
諏訪三社(諏訪神社、森崎神社、住吉神社)のおみこしもありました。
ちなみに諏訪神社は長崎三(五)社の1つです。
三社とは、諏訪、松森、伊勢宮。
これに中川八幡、水神神社を加えたものが長崎五社です。

↑同じお顔に見えますが、大黒さん(小づち所持)とえびすさん(魚所持)です
恋占いができるそうですよ
(何故大黒さんとえびすさんで?)
それが上手く行ったら願いが成就すると言う、またまた断言系の説明書きありました
(゜゜;)\(--;)ホントに?
今さらですが、諏訪神社の御祭神は
たけみなかたのかみ
やさかとめのかみ
御夫婦です

↑心に刺さっているトゲを抜いてくださると言われる、トゲ抜き狛犬さん(上)
口に手を入れお願いすればよいそうです(^^)
廣足(ひろたり)神社(下)は、長崎三歌人の一人「中島広足」が邸内に祀っていた、柿本人麻呂&本居宣長のほこらです。
一見、中島広足を祀っているのかなと思いました!
※長崎三歌人はほかに、近藤光輔&青木永章です(^^)
長崎+数字+○○は、長崎検定の時に覚えないといけませんでした
ほかに、
長崎七不思議
長崎五ヶ寺
長崎五社
長崎四福寺
長崎三画人
黄檗三筆(この内の即非は諫早の愛宕山の肥前鳥居の扁額も揮毫していました)
など。

↑酒田恒山の顕彰碑(上)
「やわらの石文」とも言われます。3面に碑文の彫られた石碑は珍しいとのこと。
酒田恒山は江戸末期の長崎人で、
文武両道、人柄温雅だったそうです
そして貿易五厘金の碑(下)
長崎商人たちは貿易額の千分の五を、公共のために積み立てていました。
明治期、長崎の水道建設費用などに充てられ、五厘金の制度も解散となりました。
水道工事費用はこれだけでは足りませんでしたが
それはまた別のお話

↑歌碑コーナー
いくら長崎好きでもこう説明ばかり書いていると息切れしそうです…
右から

↑諏訪荘(上)と康平社(下)です。
昭和11年から「諏訪荘」を名乗ったそうです。
皇族方も利用されました。
昭和59年に廃業。
長崎市民の保存を熱望する声によって、この地に移設されました。
釘を使っていないなど、建物としても素晴らしいもので、是非中を見てみたいものです。
諏訪荘になる前の屋号はなんだったのかな?
この方はフェートン号事件の責任を取って切腹した長崎奉行です
フェートン号艦長フリートウッド・ぺリューは康平さんより20才ほど若かったようです…!
(゜ロ゜;なんだか悔しい
この事件は簡単に言うと
イギリスのフリゲート艦フェートン号が長崎にやって来て、人質(オランダ商館員二名)を取って物品を要求した事件です。
このとき長崎警護をしているはずの佐賀藩兵はなんとほぼ佐賀へ帰っていました(^_^;)
フェートン号からは要求を飲まないと長崎港を焼き討ちにすると脅されるし…なので松平図書頭康平はやむ無く要求を飲みました
これは日本がイギリスに屈した事になりますので、松平図書頭康平(長崎での最高責任者)は幕府の面目を潰したことになります。
おいおい佐賀藩~…と言いたくもなりますが(^o^;)
こんな事件をきっかけにして佐賀藩は武力を整え、後の倒幕で役立てていく事になります。
松平図書頭康平の判断は、人質2名の命と長崎を護ることができました。
人道的に至極まともなご判断だったと思います

↑蛭子(ひるこ)社と川伯(かわはく)の井戸です。
河川などの水上安全、水泳上達などの水に関わる願いごとの成就、さらに水子守護の神さまだそうです。
川伯(カッパ)は蛭子の使いだそうです。
狛犬さんはカッパ型狛犬かなと思ったけれど、甲羅も有りましたので普通にカッパでしょうか?でも骨格が…(^o^;)?
頭のお皿に水をかけて願いごとをするそう。
吽形のほうは頭に角のあるタイプですね!
…それにしてもいつも私が行く神社では、ほぼ誰とも会いません。
でもさすが諏訪神社
参拝客や結婚式の撮影などで賑わっていました
長文なのに読んで下さってありがとうございました!
観光の時に同伴者の方に話すと…多少役立つかと(  ̄▽ ̄)




